土色の柱が、廃工場の床を支えていた。
さっきまで沈みかけていた足場は、壌竜の足元から生えた柱によって、どうにか形を保っている。砕けたコンクリートと湿った土が混ざり合い、錆びた鉄骨を噛むように固定していた。
だが、安心できる床ではない。
靴裏の下では、まだ青白い光が脈を打っている。
ライザの錬金術は止まっていない。むしろ、床の奥で息を潜めながら、次にどこへ伸びるかを探っているみたいだった。
「……次は、もっと慎重に混ぜる」
ライザは新しい素材瓶を手に取った。
その声は、さっきより少し低い。壌竜を見ている。けれど、その視線は時々、工場の柱や床下へ向いていた。どこまで混ぜれば崩れるのか。どこまでなら使えるのか。彼女の目は、戦場をただの敵陣としてではなく、壊れる寸前の素材として測っている。
敵マスターの青年は、彼女の後ろでスマホを握り締めていた。
さっきまでこめかみを押さえていた指は、もう動いていない。画面を見て、壌竜を見て、こちらの足場を見て、またライザを見る。
口元が薄く結ばれる。
「ライザ。慎重にやる時間はない」
ライザの手が止まった。
「でも、今の反応、思ったより深く入ってる。このまま強く混ぜると、工場の基礎が――」
「工場の心配をしている場合か」
青年の声が、鉄板を叩いたみたいに響いた。
ライザは振り返る。
「心配っていうか、ここが崩れたら私たちも――」
「迷うな、ライザ。勝て」
短い命令だった。
けれど、その一言で、ライザの指が素材瓶の首を強く握った。ガラスの中で、青い液体が細かく揺れる。
俺はその手を見た。
さっき、マスターへ光が走った時、ライザは迷わず前に出た。
今は、動かない。
敵を前にして止まったのではない。壊れかけた床と、背後のマスターと、自分の手元の瓶。その三つの間で、一瞬だけ視線が揺れた。
「……分かってる。やる」
ライザは前を向いた。
でも、いつものような明るい声ではなかった。
敵マスターは続ける。
「お前の好奇心も、躊躇も、今はいらない」
ライザの肩がわずかに上がる。
「……好奇心がないと、調合は――」
「勝てるなら壊せ。準決勝だぞ」
工場の奥で、配管が鳴った。
それはライザの錬金術が反応した音なのか、それとも古い工場が軋んだ音なのか、すぐには分からなかった。
エリスが剣を握り直す。
「嫌な命令ね」
ムジナが低く返す。
「うん。手元が曇るやつ」
「曇る?」
「見たいものを見られなくなる」
ルプスレギナが笑みを浮かべたまま、目だけを細めた。
「うふふー。あれは、なかなか雑な扱いですねぇ」
「雑ってレベルじゃないです」
デルタの耳が伏せる。
「ライザ、嫌な匂いになったです」
壌竜は床に掌を置いたまま、低く告げた。
「急いた手は、深くは届かぬ」
ライザが顔を上げる。
「届かせるよ」
彼女は素材瓶を三つ同時に投げた。
青、琥珀、黒。
色の違う液体が床で割れ、混ざり合う。先ほどまでの調合は、流れを探り、場所を読み、必要なものを選んでいた。今度は違う。床下へ押し込むように、強引に光が沈んでいく。
甘い薬品の匂いが濃くなった。
鼻の奥が痺れる。
床のひび割れが青白く光り、配管の中で液体が逆流する。薬品棚に残っていた瓶が勝手に震え、割れた棚から液体が垂れた。それが床に触れた瞬間、別の反応が起きる。
連鎖。
その全部が、一斉に壌竜の足元へ流れ込んでいく。
「壌竜!」
「来るな」
俺が一歩出ようとした瞬間、壌竜が止めた。
彼は片膝をつき、両掌を床へ押し当てる。
土色の柱が震えた。
青白い光がその柱に絡みつく。さっきは床下を流れていた式が、今度は壌竜の作った足場そのものを食い潰そうとしていた。
工場の床が斜めに傾く。
金属片が滑り、古い工具が壁際から落ちる。織姫の前へ向かって、砕けたコンクリート片が飛んだ。
織姫の指が上がる。
けれど、今度は大きな盾ではなかった。
「三天結盾」
小さな光が、飛散物の前だけに開く。
破片がそこで止まり、床へ落ちた。
織姫はすぐに手を下ろす。壌竜の土色の脈動は乱れていない。彼女はそれを確認するように、壌竜の背中を見た。
バーゲストが横で剣を構える。
「必要な場所だけを守っています」
エリスが短く頷いた。
「今のは悪くないわ」
「……はい」
織姫は小さく返した。
その声は、煙と薬品の匂いの中でも消えなかった。
壌竜の足元で、泥が盛り上がる。
泥人形が三体、床から這い出した。人の形をしているが、顔はない。腕は長く、足元はまだ地面と繋がっている。壌竜が指を動かすと、泥人形たちはばらばらの方向へ走り出した。
一体は配管へ。
一体は薬品棚へ。
一体は床に広がる青白い線へ。
「泥人形……!」
ライザの目が一瞬輝きかける。
だが、背後から声が飛んだ。
「見るな。潰せ」
ライザの顔が、途中で止まる。
彼女の視線は泥人形に向いたまま、瓶を握る手だけが動いた。
「……分かってる」
黒い液体が床へ落ちる。
泥人形の足元で青白い光が弾け、一体が粘液に飲まれた。もう一体は金属片の射出に貫かれ、崩れる。だが、最後の一体が床の線へ手を突っ込んだ。
その瞬間、壌竜の目が細くなる。
「見えた」
床下で、土色の脈動が走った。
ライザの調合式は強い。
だが、さっきまでの滑らかな流れではない。青白い線の一部が濁り、別の線とぶつかって歪んでいる。ライザの視線が何度も工場の基礎へ向き、それをマスターの声が遮るたび、式の流れが荒くなる。
俺にも分かった。
完璧な罠じゃない。
今のライザは、見えているのに、見ないようにさせられている。
「今、ライザの手が止まった」
俺は呟いた。
ムジナが隣で低く言う。
「止まったね」
「あの命令で、調合の流れが乱れた」
「命令って便利だけど、雑に使うと変な線が入る」
エリスが奥歯を噛む音がした。
「……ほんと、嫌な感じ」
ライザのマスターは、こちらの揺らぎに気づいていない。
彼はライザの背へ言葉を投げ続ける。
「押し切れ。壌竜が足場を固める前に潰せ」
「でも、これ以上入れると地下水が反応して――」
「関係ない」
「関係あるよ。そこが暴れたら、こっちの足場も――」
「お前の躊躇はいらないと言った」
ライザの唇が閉じる。
次に彼女が投げた瓶は、少しだけ軌道が荒かった。
壌竜はそれを見ていた。
「その濁り、地が覚えた」
彼が床を叩く。
低い地鳴りが走った。
ただの衝撃ではない。工場の下に潜っていた土色の脈動が、青白い式の濁った部分へ食い込む。泥人形が残した指跡を辿るように、壌竜の力が錬金術式の根へ伸びていった。
青白い光が跳ねる。
床が大きく揺れた。
「デルタ、跳ぶな!」
エリスが叫ぶ。
「跳ばないです! ちょっと浮いただけです!」
「それを跳ぶって言うのよ!」
デルタが爪で床を掴み、バーゲストが剣を床へ突き立てて体勢を保つ。ルプスレギナはメイド服の裾を押さえながら、しかし笑っていた。
「うふふー。地面がダンスしてますねぇ」
「笑う場面じゃない!」
エリスが吠える。
「余裕は大事ですよぉ?」
「余裕の方向が違うわ!」
織姫の小さな盾が、頭上から落ちる破片だけを止める。
壌竜の背中は動かない。
大地に根を張った岩のように、彼は揺れる床の中心にいた。
ライザは目を見開く。
「式の根に触ってる……? でも、そこはもう混ぜて――」
「混ぜたつもりの地に、まだ届いていない」
壌竜がゆっくり立ち上がった。
足元から土色の柱がさらに隆起する。今度は支えるだけではない。柱は床下を押し上げ、青白い式の流れを断ち切る位置へ食い込んでいく。
工場の床が、ばきりと鳴った。
ライザのマスターが叫ぶ。
「ライザ、出力を上げろ!」
「待って、今上げたら――」
「勝て!」
ライザの手が、素材瓶の上で止まる。
その一瞬だけ、工場の音が遠くなった。
青白い光。
土色の脈動。
錆びた柱。
割れかけた床。
マスターの声。
ライザの横顔。
全部が、ひとつの線の上に並ぶ。
俺は、その線を見た。
ライザは迷ったんじゃない。
見ていた。
壊れた後のことを。
「壌竜!」
「ああ」
壌竜が掌を開く。
地鳴りが、今度は拘束の形を取った。
青白い式の流れが、一瞬だけ鈍る。床下で走っていた錬金術の連鎖が、土色の脈動に絡め取られた。完全に止まったわけじゃない。だが、勢いが死んだ。
その隙に、夢主陣営の足場が押し上げられる。
沈んでいた床が戻る。
エリスが前へ出る。
バーゲストが横に並ぶ。
デルタが粘液を振り払い、低く唸る。
織姫は盾を消し、両手を下ろしたまま、壌竜の背中を見る。
ライザのマスターは奥歯を噛んだ。
音が聞こえた気がした。
「……まだだ。ライザ、次で押し切る」
ライザは返事をしなかった。
彼女は床を見ている。
壌竜が食い込ませた土色の脈動を、割れた基礎を、まだ反応を続ける地下水を、順番に見ている。
その手に握られた瓶は、まだ投げられていない。
壌竜が低く言った。
「足元を失う者に、勝利は立てぬ」
廃工場の床下で、青白い光と土色の脈動が押し合う。
勝敗はまだ決まっていない。
けれど、さっきまで俺たちを飲み込んでいた工房の腹に、ひびが入った。
俺はスマホを握る。
まだMEDESの問いは表示されていない。
それでも、答えの欠片は増えている。
ライザの戦い方。
ライザの手が止まる理由。
そして、彼女を急かすマスターの声。
準決勝は、まだ続く。
けれど、次に見るべきものははっきりした。
ライザが何を混ぜるのか。
そして、何を混ぜたくないのか。