ライザの手の中で、素材瓶が震えていた。
青白い光と土色の脈動が、廃工場の床下で押し合っている。錆びた柱は悲鳴みたいな音を立て、天井から灰色の埃が降った。落ちてくるそれは雪じゃない。肺に入れば咳き込みそうな、古い時間の粉だった。
壌竜が作った土の柱は、まだ床を支えている。
けれど、その柱にも青白い線が絡みついていた。ライザの錬金術が、壌竜の足場さえ素材として飲み込もうとしている。
ライザはそれを見ていた。
床を、柱を、壊れかけた配管を、俺たちを、そして背後のマスターを。
彼女の視線は忙しなく動いているのに、瓶を握る手だけは止まっていた。
「ライザ。何をしている」
敵マスターの声が飛んだ。
さっきまでの制止とは違う。
そこには、焦った人間が爪で金属を引っかくような音が混じっていた。
「このままだと、工場の基礎がもたない」
ライザは振り返らずに言った。
「地下水まで反応してる。止めるなら今しか――」
「止めるな」
短い声だった。
ライザの肩がぴくりと動く。
「でも」
「勝て」
敵マスターはスマホを握り締める。
その画面の光が、彼の眼鏡に白く映っていた。こちらからは瞳が見えない。見えるのは、細く震える指と、動かない口元だけだ。
「工場の心配をしている場合か。敵を倒せ」
「全部壊したら、意味ないでしょ!」
ライザの声が、初めて強く跳ねた。
工場の音が一瞬だけ薄くなる。
彼女はマスターを見る。
その顔には、さっき壌竜の力を見た時の明るさはない。瓶を持つ手が胸の前で止まり、足は床の亀裂を避けるように半歩引かれていた。
「ここも、あなたも、あの人たちも、見えてる。見えてるから――」
「お前の観察も好奇心も、今はいらない」
ライザの言葉が切れた。
敵マスターは一歩前へ出る。
「準決勝だぞ。ここで負ければ終わる。お前がどれだけ調べようが、考えようが、負けたら全部消える」
「……」
「俺を守るな。敵を倒せ」
ライザは何も言わなかった。
ただ、瓶を握る指に力が入った。
ガラスが小さく鳴る。
エリスが奥歯を噛んだ。
「ほんと、嫌な言い方」
ムジナが煙の向こうで目を細める。
「命令で視界を狭くしてる」
「視界?」
「見えてるものを、見なかったことにさせてる」
デルタが耳を伏せた。
「ライザ、さっきより匂いがぐちゃぐちゃです」
ルプスレギナは笑っていない。
バーゲストは剣を構えたまま、ライザの手元を見ていた。
織姫は胸の前で指を重ねかけて、また下ろす。
盾はまだ出ていない。
彼女は壌竜の背を見ていた。壌竜が動くのを、待っている。
「地を知らぬ者が、地を混ぜるか」
壌竜が低く言った。
その声は床下へ沈み、土の柱を震わせた。
「急いた手は、深くは届かぬ」
ライザが顔を上げる。
「届かせる」
声は小さい。
けれど、瓶は投げられた。
青、琥珀、黒。
三つの素材瓶が床で割れた瞬間、廃工場の奥で一斉に何かが起動した。
薬品棚の中に残っていた瓶が震え、割れたガラスから液体がこぼれる。配管の中で青白い光が逆流し、天井近くのタンクが音を立てて膨らんだ。床下では地下水が巻き込まれ、錬金術式が太い根のように広がっていく。
空気が甘く濁った。
喉の奥に薬品が貼りつく。
「来るぞ」
壌竜が両掌を床へ押し当てた。
土色の脈動が広がる。
だが、青白い光はそれを押し潰すように沈み込んだ。壌竜の土柱が軋む。足場が再び傾く。
「デルタ、左!」
エリスが叫ぶ。
「分かってるです!」
デルタが跳びかけた瞬間、粘着液が床から噴き出した。エリスが剣で切り払う。バーゲストが前に出て、飛んできた金属片を弾く。火花が散り、煙の中で白く瞬いた。
頭上から崩れたコンクリート片が落ちてくる。
織姫の手が動いた。
「三天結盾」
大きくはない。
破片の進路だけを塞ぐ、小さな光の盾。
コンクリート片は空中で勢いを失い、床へ落ちた。織姫はすぐに盾を消す。壌竜の土色の脈動を邪魔しない位置で、もう一度手を下ろした。
エリスがちらりと見た。
「今のはいいわ」
織姫は小さく頷いただけだった。
壌竜の足元から泥人形が三体、這い出す。
顔のない泥の兵士たちは、揺れる床をものともせずに走った。一体は配管へ。一体は素材棚へ。最後の一体は、青白い式の中心へ手を突き込む。
「ライザ、泥人形を見るな!」
敵マスターが叫ぶ。
ライザの目が一瞬だけ泥人形へ向き、すぐに戻された。
その戻り方が、ぎこちなかった。
「潰せ。余計なものに気を取られるな」
「……分かってる」
黒い液体が床へ落ちる。
泥人形の一体が粘液に飲まれた。もう一体は金属片に貫かれて崩れる。けれど、最後の一体が青白い式の中心へ指を沈めた。
壌竜の目が細くなる。
「その濁り、地が覚えた」
彼が床を叩いた。
地鳴りが走る。
床下の青白い式が一瞬だけ鈍った。乱れた線に、土色の脈動が食い込む。ライザの調合は強い。だが、滑らかではない。命令に押されて選ばれた素材。見えていた危険を押し込めた流れ。そこに、わずかな空白があった。
俺のスマホが震えた。
黒い画面に白い文字が浮かぶ。
――WHO IS SHE?
――HOW DOES SHE FIGHT?
――WHY DOES HER ALCHEMY FALTER?
問いが来た。
俺は画面を見る。
けれど、答えは画面の中にはない。
ライザの手。
壊れかけた床。
マスターへ向いた時だけ変わった足の速さ。
敵マスターの声。
壌竜の土柱。
全部が、床下の線みたいに繋がっていく。
「ライザは迷ったんじゃない」
俺は呟いた。
ムジナがこちらを見る。
「見ていたんだ。壊れた後のことを」
スマホの入力欄に、指を置く。
煙の中で、ライザのマスターが叫ぶ。
「ライザ、出力を上げろ! 次で押し切る!」
「待って、今上げたら地下水が――」
「勝て!」
ライザの手が止まる。
もう一度だ。
その一瞬を、俺は逃さなかった。
「答える」
画面に文字を打ち込む。
「ライザリン・シュタウト」
――WHO:ACCEPTED
「人間。錬金術師」
――SPECIES:ACCEPTED
青白い光が強くなる。
床が割れる。
壌竜が土柱をさらに押し上げる。
俺は続けた。
「戦い方は、道具を使うことじゃない。現場を素材として見て、調合し、状況に合わせて作り替えることだ」
――HOW:PENDING
足元が大きく揺れた。
ライザが新しい瓶を構える。
壌竜が低く言う。
「今だ」
泥人形の残骸から土色の脈動が伸びる。青白い式の根に絡みつき、床下で硬く締まった。
俺は最後の欄を見る。
――WHY DOES HER ALCHEMY FALTER?
ライザのマスターは叫んでいる。
勝て。
迷うな。
見るな。
壊せ。
その声が、彼女の調合を急がせる。
でもライザの目は、壊れる場所を見ている。
壊れる人を見ている。
壊れた後を見ている。
「理由は……マスターの命令が、ライザの観察を潰しているからだ」
画面に指を滑らせる。
「ライザの錬金術は、見て、考えて、壊れない形を探す力だ。勝つために全部壊せと言われた瞬間、その流れが濁る」
入力が終わる。
一拍。
スマホが震えた。
――HOW:ACCEPTED
――WHY:ACCEPTED
壌竜が動いた。
両掌を床へ叩きつける。
「地脈還し」
その声と同時に、廃工場の奥底が鳴った。
青白い光の下から、土色の脈動が一気に広がる。錬金術式の根に食い込み、絡み、締め上げる。床を工房に変えていた線が、一本ずつ断ち切られていく。
薬品棚の反応が止まる。
配管の光が消える。
搬送ベルトの下で蠢いていた素材片が、ただの廃材に戻って落ちた。
ライザが息を呑む。
「式が……ほどけてる」
「工房に変えられようと、地は地だ」
壌竜の足元から、土柱がさらに隆起する。
沈みかけた床を押し上げ、割れた基礎を固定し、青白い式の中心を地の奥へ引きずり戻す。
ライザのフラスコが光を失った。
手の中で、ただの瓶になった。
「ライザ!」
敵マスターが叫ぶ。
「まだだ! もう一度――」
彼のスマホが黒く光った。
音はなかった。
ただ、画面に文字が浮かぶ。
――SEMI FINAL:COMPLETE
――WINNER:壌竜
――LOSER MASTER:ERASED
――CONTRACT TRANSFER:ACTIVE
敵マスターの顔から、血の気が引いた。
彼は自分のスマホを見て、それからライザを見た。
「……嘘だろ」
ライザが一歩、彼へ向かって踏み出す。
「待って。まだ、何か――」
「来るな」
敵マスターが言った。
ライザの足が止まる。
「ライザ、来るな」
今度は、命令ではなかった。
声が薄い。
鉄板の上に落ちた水みたいに、形を保てず消えていく声だった。
彼の指先から、黒いノイズが走る。
腕が崩れ、肩が欠け、身体の輪郭がほどけていく。
ライザは手を伸ばした。
届かない距離じゃなかった。
でも、黒いノイズは彼女の指先より先に、彼の形を奪っていく。
「なんで……」
ライザの声が掠れる。
敵マスターは何かを言おうとした。
口が動く。
声にはならない。
ただ、最後に彼の手が少しだけ上がった。ライザを制するようにも、触れようとするようにも見えた。
その手が、空中で崩れた。
黒い粒子になって、錆びた工場の床へ落ちる前に消える。
ライザの伸ばした手は、何も掴まなかった。
工場が静かになった。
青白い光は消えている。
壌竜の土色の脈動も、床下へ沈んでいった。
残ったのは、錆びた匂いと、割れた瓶と、空になった場所だけだった。
俺のスマホが、もう一度震える。
――RYZA LIN STROUT:NEW MASTER REGISTERED
文字は冷たかった。
いつも通りだった。
勝利。
消滅。
契約移行。
たった三つの処理で、今起きたことを片付けていく。
ライザはまだ、手を伸ばしたままだった。
指先がゆっくり下がる。
ポーチの中で瓶が小さく鳴った。
誰もすぐには動かなかった。
デルタの尻尾も止まっている。
エリスは剣を下ろさないまま、視線だけをライザから外した。
織姫は一歩出かけて、止まる。
その手は胸の前で開きかけ、また閉じた。
バーゲストが剣を収める音が、やけに大きく聞こえた。
壌竜はライザを見ていた。
低く、静かに言う。
「地を混ぜる者なら、混ぜた後を見よ」
ライザの肩が小さく震えた。
彼女は壌竜を見ない。
消えたマスターが立っていた場所を見ている。
床には何も残っていない。
割れた瓶の破片だけが、工場の薄い光を拾っていた。
俺はスマホを握り直す。
また一人、こちらへ来た。
勝った。
準決勝を越えた。
けれど、足元の床は冷たいままだ。
ライザは、ゆっくりとこちらを向いた。
さっきまで目を輝かせていた錬金術師は、何かを言おうとして、口を閉じる。
そして、空になった手を自分の胸の前で握った。
俺のスマホには、まだ文字が残っている。
――NEW MASTER REGISTERED
新しいマスター。
その言葉だけが、錆びた廃工場の静けさに、いつまでも浮かんでいた。