部屋へ戻ってからも、手の震えだけがなかなか収まらなかった。
玄関の鍵を閉める。チェーンを掛ける。靴を揃える。いつも通りの動作を一つずつなぞっているのに、どれも自分の身体じゃないみたいに鈍い。背中へ張りついていた夜気がようやく剥がれたはずなのに、指先だけはまだ外の冷たさを引きずっていた。
デルタが先に部屋へ入り、尾を低く揺らしながら周囲の匂いを確かめる。後ろからバーゲストが静かに入ってきた。あの巨体がワンルームへ収まると、部屋が急に狭く見える。デルタはすでに何度も見てきた光景だから、もはや異物感より生活の一部として目に入る。だが、バーゲストは違う。ついさっきまで剣を向け合っていた相手が、今は俺の部屋に立っている。それだけでも現実感が薄いのに、その前に見たものがあまりに鮮烈で、頭の中の順番がぐちゃぐちゃになっていた。
スマホをテーブルへ置く。
黒い画面は静かなままだ。さっきまで人の生き死にを記号みたいに処理していたくせに、今は何もなかったみたいな顔をしている。
洗面台へ向かい、水を出した。冷たい水が指へ当たる。少し強く擦る。血はついていない。もちろん分かっている。あの男は、血を流して死んだわけじゃない。跡形もなく消えた。そう分かっているのに、手を洗わずにいられなかった。
指の関節を擦る。爪の間を洗う。もう一度、手の甲へ水を流す。
それでも、何かが落ちた感じがしない。
「仮ボス」
後ろからデルタの声がした。語尾はいつも通り「です」で整っているのに、響きは少し低い。振り返ると、台所の入口に寄りかかるように立っていた。紫の瞳がまっすぐこちらを見ている。食事を待つ時の顔でも、獲物を見つけた時の顔でもない。匂いからこっちの状態を探っている時の顔だ。
「手、洗いすぎです」
「……そうかもな」
蛇口を閉めた。だが、タオルを取るまでの一拍が妙に長かった。濡れた手をそのまま見下ろしていると、指の隙間へ白い光が零れていくあの光景が勝手に重なる。肩から。喉から。顔の輪郭から。あの男は本当に、砂みたいに崩れたわけでも、燃えたわけでもなく、ただ世界から薄くなって消えていった。
「風呂でも沸かすです?」
「いや、そこまでじゃない」
「そこまでです」
デルタは容赦がない。だが、その真っ直ぐさに救われる時もある。
「匂い、ずっと悪いです。仮ボスの頭の中、さっきのやつでいっぱいです」
「……分かるのか」
「分かるです。そんなの、分かるです」
言い切って、デルタは少しだけ眉を寄せた。大人びた顔立ちなのに、その仕草だけ妙に子供っぽい。
「でも、デルタは分からないです」
「何が」
「なんで、そんなに落ちるのかです」
問いは単純だった。
その単純さが、今は胸に刺さる。
タオルで手を拭きながら、俺は洗面台の縁に少しだけ体重を預けた。視線の先には、自分の顔が鏡に映っている。血の気が薄い。目の下に影が落ちている。ひどい顔だと思った。
「人が死んだ」
「殺し合いでした」
「それでもだ」
短く答えると、デルタは耳をぴくりと動かした。否定はしない。ただ、まだ納得はしていない顔だ。
「仮ボス、あいつをぐちゃぐちゃにしたです?」
「してない」
「仮ボスが爪で裂いたです?」
「してない」
「デルタがやったです。でも殺してないです」
そこまでは、確かにその通りだ。
デルタは一歩、こちらへ近づく。
「消えたのは、あの変なアプリのせいです」
「……ああ」
「なら、仮ボスがそんな顔するの、ちょっと変です」
変。
そう言われると、思わず口元が歪む。笑ったわけじゃない。笑えるはずもない。けれど、変だ、と切って捨てられると、少しだけ肩の力が抜ける。
「おまえ、本当にそう思ってるのか」
「思ってるです」
デルタは迷わない。
「仮ボスが負けたら、今度は仮ボスが消えてたです。デルタも、多分そうです。だったら、落ちる前に生きる方考えるです」
「簡単に言うな」
「簡単です。難しくするのは、人間の変なところです」
そう言ってから、デルタはわずかに視線を逸らした。外すというより、考える時の仕草だ。
「……でも」
そのあとに続く言葉は、さっきまでより遅かった。
「仮ボスが嫌な顔するのは、ちょっと分かるです」
「分かるのか」
「デルタは、死ぬとか殺すとか、そんなに珍しくないです。でも、仮ボスは違うです。ご飯作って、部屋片づけて、寝る前に水まで置くやつです。そういうやつが、いきなり“消えるの見たです、平気です”とはならないです」
そこでようやく、デルタは俺のすぐ前まで来た。近い。視線を合わせるには少し見下ろす形になるのに、紫の瞳は妙に真っ直ぐだった。
「だから、落ちるのは変です。でも、仮ボスがそういうやつなのは、変じゃないです」
言い方がややこしい。けれど、意味は分かった。
殺し合いの場で沈むこと自体は、デルタには理解しきれない。だが、俺がそういう風に沈む人間だということは、もう理解している。だから呆れつつ、突き放しはしない。その不器用さが、妙にありがたかった。
「……慰めてるのか、それ」
「半分です」
「残り半分は」
「もっとちゃんとしろ、です」
思わず、息だけ少し漏れた。笑いに近いものだったかもしれない。デルタはそれを見ると、ほんの少しだけ耳の力を抜いた。気休めでも何でも、こっちの顔色が少し変わったのを確認したかったのだろう。
そこへ、後ろから落ち着いた声が差し込む。
「彼女なりの励ましなのです。汲んで差し上げるべきでしょう」
振り返ると、バーゲストがテーブルのそばへ立っていた。さっきまで戦闘用の緊張を纏っていたはずなのに、今は剣を外し、空気だけを静めてそこにいる。その落ち着き方が、かえって現実味を失わせる。敵だったはずの存在に、今こうして諭される立場へ変わっている。それをまだ、頭が飲み込み切れていない。
バーゲストは俺の顔を見て、次にテーブルの上のスマホへ視線を落とした。銀の瞳に映る色は冷静だ。だが、冷淡ではない。あの元マスターの消滅を見た直後だというのに、声へ無理な硬さがないのは、彼女自身が気持ちを切り分けようとしているからだろう。
「気を病む必要はありません」
「……簡単に言うな」
「簡単な話ではありません」
返答は即座だった。
「ですが、明確な話ではあります」
バーゲストはそう言って、ほんの少しだけ言葉を選ぶ間を置いた。
「まず確認します。あなたは、あの男を殺すよう命じましたか」
「いや」
「デルタは?」
「殺してないです」
デルタがすぐに答える。バーゲストは頷いた。
「その通りです。あなたは戦闘に勝利し、所有権を得た。消滅は、その結果としてMEDESが執行した処理でしょう。あなたの意志による殺害ではない」
あまりにも理路整然としていて、一瞬だけ反発したくなった。
「でも、俺が奪わなければあいつは消えなかった」
「それは半分だけ正しい」
バーゲストの声は静かだ。だからこそ、逃げ道がない。
「あなたが奪わなければ、こちらが敗北した可能性がある。その場合、消えるのはあなたかデルタだったでしょう」
「それは……」
「そして、あの男自身もまた、同じ条件で戦場に立っていた。自らMEDESを持ち、他者を奪う側として」
銀の瞳が、まっすぐこちらを射抜く。
「決闘には、結果があります。結果には代償がある。情があるからといって、その構造まで捻じ曲げて受け取る必要はありません」
決闘。
その言葉に、あの場でバーゲストが名乗った時の姿がよみがえる。妖精騎士ガウェイン。そう告げた声には、確かに誇りがあった。あの場をただの殺し合いとして片づけなかったのは、彼女自身だ。だからこそ、その“結果”もまた、彼女の中では別の重みを持つのかもしれない。
俺は椅子を引いて腰を下ろした。立っていると、身体のどこへ力を入れていいのか分からない。
「……じゃあ、おまえは平気なのか」
「平気ではありません」
バーゲストの返答は、想像していたよりずっと早かった。
「平気ではありませんが、それと、あなたが背負うべき罪かどうかは別です」
その言い方に、デルタが横から鼻を鳴らす。
「難しいです」
「簡単に申しましょう」
バーゲストはデルタへ一度だけ目を向け、それからまた俺を見た。
「前の所有者は、私にとって快い相手ではありませんでした。命令に不満もあった。ですが、それでも私は従っていた。契約があったからです」
「……ああ」
「ゆえに、彼の死に痛みがまったくないとは申しません。長く命じられ、長く視界へいた相手です。無感動である方が不自然でしょう」
そこまで言って、バーゲストはほんの少し目を伏せた。長い睫毛が影を落とす。その静かな横顔に、ようやくほんの僅かな疲れが見える。
「ですが」
再び顔を上げる。
「彼の死は、現マスターであるあなたの責任ではない」
「…………」
「責任を問うならば、MEDESです。そして、あのような盤面へ自ら立った彼自身です」
言葉が重い。けれど、押しつけがましくない。事実として、一つずつ床へ置いていくみたいな話し方だった。
バーゲストは続ける。
「あなたがここで自責に沈みすぎれば、何が起きるか。次の戦いで判断が遅れます。躊躇が生じます。結果として、デルタも、いずれは私も、危険に晒される」
「脅してるのか」
「現実を申し上げています」
否定の余地がない。
デルタがそこで、ややむっとした顔をした。
「バーゲスト、真面目すぎるです」
「あなたは直截すぎる」
「仮ボスは真ん中くらいがいいです」
「それには同意します」
思わず、口の端が少しだけ動いた。今のやり取りが可笑しかったわけじゃない。ただ、二人の温度の違いがあまりにもはっきりしていて、場の張りつめ方が少しだけ緩んだ。
デルタはそれを見ると、満足したように一歩近づいた。尾の先が、椅子の脚へ軽く触れる。
「仮ボス」
「何だ」
「落ち込むな、は無理でも、止まるな、です」
「……雑だな」
「雑じゃないです。落ちるのは分かるです。でも、そのまま動けないのは駄目です」
その声音は、説教というより確認に近かった。
「デルタ、仮ボスがそういう顔してると嫌です」
「嫌?」
「ご飯の匂いしても、返事遅くなるです。目の前見てるのに、見てないです。あれ、嫌です」
直球すぎて、言葉に詰まる。
デルタは少しだけ視線を逸らした。照れているわけじゃない。ただ、自分でも“どうして嫌か”をうまく言葉へできないのだろう。
「……仮ボスは、ちゃんと仮ボスでいるです」
「それ、励ましなのか?」
「励ましです」
きっぱり言ってから、デルタは俺の膝へ軽く手を置いた。大きな胸や体温の柔らかさより先に、指先の重みだけが伝わる。変に甘やかす動きじゃない。ただ、ここにいる、と知らせるための触れ方だった。
「死ぬの見て、嫌なのは分かったです。でも、仮ボスがそれで壊れるのは、もっと嫌です」
バーゲストが、その言葉へ静かに頷いた。
「私も同意します」
「おまえまで」
「私はまだ、あなたのことを深く知っているわけではありません」
バーゲストは言葉を選ぶ。その慎重さが、かえって誠実に見えた。
「ですが、少なくとも今夜、あなたは“奪ったこと”を喜んでいない。それは、私にとって無視できない事実です」
「……どういう意味だ」
「前のマスターであれば、もっと別の顔をしたでしょう。勝利に酔い、他者の消滅を盤面整理としか見なかったかもしれない」
銀の瞳が、微かに揺れる。
「あなたは違う。だからこそ、私は今、こうして言葉を置いています。あなたが気を病む必要はない、と」
その言い方に、妙な熱はなかった。けれど、騎士が礼式に従って剣を差し出すみたいな、そういう種類の重みがある。
「あなたが悪いわけではない」
「でも、俺が奪ったから……」
「戦場で勝った。それだけです」
そこで、バーゲストはわずかに息を吐いた。
「私が先ほど名を告げたのは、決闘であったからです。決闘には敗者が出る。敗者には結果がある。ゆえに、あなたがそこへ過剰な私情を差し挟んで潰れるのは、むしろ彼の敗北すら無意味にする」
重い言い方だ。だが、分かる。
バーゲストは“死を軽く見るな”とは言っていない。むしろ逆だ。結果として起きた以上、それを曖昧な自責で濁すな、と言っている。向き合うなら向き合え。だが、自分ひとりの罪みたいに抱え込むな。そういうことだ。
俺はゆっくり息を吐いた。胸の奥の詰まりが消えたわけじゃない。消えるはずもない。けれど、行き場なく渦巻いていたものの輪郭が、少しだけ見えてきた気がした。
「……ありがとう」
「礼には及びません」
「及ぶです」
デルタが横から口を挟む。
「デルタも言ったです」
「ああ、おまえにも」
「なら、今日はちゃんと寝るです」
命令口調ではない。だが、言い切る。デルタなりの励ましがこれなのだろう。
「寝られる気はしない」
「目閉じるだけでも違うです」
「そうか」
「そうです。仮ボス、たまに変なとこ頑固です」
それはお互い様だ、と言い返しかけて、やめた。デルタはすでに尾を少しだけ高くしている。こっちの空気が変わったのを感じ取っているのだろう。
バーゲストが、部屋の隅へ置かれた椅子へ視線を向けた。
「湯を沸かしましょうか」
「……え?」
「温かい飲み物があると、思考が落ち着くこともあります」
「そんなことまでしてもらうのは」
「現マスターが潰れては困る。実利です」
言い方はあくまで淡々としている。だが、その“実利”の中に、ただの打算だけではないものが混じっているのは分かった。
デルタがそれを聞いて、耳をぴくりと動かした。
「バーゲスト、お茶とか淹れられるです?」
「淹れられます」
「肉焼くのも?」
「……それは、これから覚えます」
ほんの僅か、間が空いた。その間が妙に人間臭くて、気づけば今度こそ少し笑っていた。ほんのわずかだ。けれど、さっきまで喉へ引っかかっていたものが、少しだけ動いた気がする。
バーゲストは台所へ向かう。巨体に似合わず、手つきは丁寧だった。湯を沸かす音が、小さく部屋へ広がる。デルタは俺の膝へ手を置いたまま離れない。その重みが、不思議とちょうどいい。
スマホはまだテーブルの上にある。黒い画面のまま、何も言わない。
あの男が消えた事実も、俺がそれを見たことも、変わらない。今夜は多分、何度も思い出す。目を閉じれば、肩から零れていった白い光がまぶたの裏へ浮かぶだろう。
それでも、さっきまでみたいに一人でその光景へ立ち尽くすのとは、少し違う。
「仮ボス」
デルタがもう一度呼ぶ。
「ん?」
「落ちるの、少しだけにするです」
「少しだけ、か」
「全部は駄目です」
言い切ったあと、尾が一度だけ椅子の脚へ巻きついた。諦めるな、ではない。忘れるな、でもない。沈み切るな。その程度の、獣らしい短さだ。
台所から、バーゲストの落ち着いた声がした。
「考えることは明日へ回すべきです。今夜は、まず体を休めることです」
「命令みたいだな」
「助言です」
「半分、命令です」
デルタが横から断言する。バーゲストが小さく息を吐いた気配がした。
俺はそのやり取りを聞きながら、ようやく背もたれへ身体を預けた。肩の力が少し落ちる。完全には抜けない。けれど、抜けなくてもいいのかもしれないと思えた。
気を病むな。
おまえの責任じゃない。
でも、止まるな。
二人の言葉は、それぞれ全然違う形をしている。デルタは本能の側から、バーゲストは騎士の論理から。けれど、向いている先は同じだった。
テーブルの上のスマホを見つめる。黒い画面へ、自分の顔がぼんやり映る。まだひどい顔だ。だが、さっき洗面台で見た時よりは、少しだけ目の焦点が戻っている。
湯が沸く音がした。
部屋の中へ、静かな生活音が戻ってくる。
それだけで、今夜は十分だった。