スマホの画面には、二つの文字が残っていた。
――FINAL MATCH:READY
そして、今はもう表示されていないはずの一文。
――FINALIZATION PROCESS:STANDBY
目を閉じても、白い文字だけが瞼の裏に浮かぶ。
決勝戦。
最終処理。
勝てば終わると思っていた道の先に、もう一つ、名前の分からない扉が立っている。
しかも、その扉は俺たちが開けるのを待っているのではない。最後の勝者が辿り着いた瞬間、向こう側から勝手に開くのかもしれなかった。
俺はソファの端に腰掛け、スマホを両手で握っていた。
指先が画面へ触れないように、縁だけを掴む。
窓の外では、夜の黒が少しずつ薄くなっていた。建物の輪郭が灰色に浮かび、遠くの空だけが水で溶いたような青へ変わっていく。
部屋の中は静かだった。
ライザはテーブルに突っ伏すような姿勢で、書き散らした紙の間に眠っている。鉛筆を握ったまま、頬の下に片腕を敷いていた。
エリスは壁際で腕を組み、目を閉じている。
バーゲストは椅子へ座ったまま背筋を崩さない。眠っているのか、瞑想しているのか分からない。
織姫はライザの肩へ毛布を掛け、少し離れた場所で丸くなっていた。
ムジナはソファの反対側を占領している。ルプスレギナはいつの間にか姿を消していたが、たぶん別室にいる。壌竜は窓辺で、明るくなり始めた外を見ていた。
みんな、ここにいる。
この人数を揃えるために、いくつの戦いがあったのか。
そのたびに誰かが消えた。
バカラ。
織姫の前のマスター。
ライザのマスター。
スマホの中では、敗北者は一行の文字で処理される。
LOSER MASTER:ERASED。
消滅。
それだけだ。
声も、顔も、最後に伸ばした手も残らない。
俺はスマホを握り直した。
縁が掌へ食い込む。
もし決勝戦の後に、契約体を一つへまとめる処理が始まったら。
もし俺が器にされるのではなく、器を完成させるための蓋に過ぎなかったら。
もし、止めようとした瞬間に全員の契約が切れたら。
考えるたび、出口のない廊下が伸びていく。
「仮ボス」
耳元で声がした。
顔を上げる。
デルタが立っていた。
いつからいたのか分からない。
黒い狼耳がぴんと立ち、両手には皿を持っている。その上には、大きな肉の塊が二つ乗っていた。
焼いた肉の匂いが、冷えた部屋へ広がる。
「……何してるんだ?」
「お肉を持ってきたです」
「それは見れば分かる」
「なら仮ボスは賢いです」
「褒められてる気がしないな」
デルタは俺の隣へ座った。
正確には座るというより、勢いよく腰を落とした。ソファが沈み、俺の身体が少しだけ彼女の方へ傾く。
皿の肉が危うく滑りかける。
「危ない!」
「落ちてないです」
「落ちる前に言ってるんだよ」
「落ちてから拾えばいいです」
「床に落ちた肉を食べる前提なのか?」
「三秒なら大丈夫です」
「どこで覚えた、その知識」
「エリスが言ってたです」
壁際から声が飛んだ。
「言ってないわよ!」
エリスは目を閉じたままだった。
「起きてたのか」
「こんな声で寝られるわけないでしょ」
「エリスもお肉いるです?」
「いらない!」
「遠慮してるです」
「してない!」
デルタは気にせず、肉の一つを俺へ差し出した。
串にも刺さっていない。
皿の上へ直接置かれた、拳より大きな塊だ。
「食べるです」
「朝からこれは重いだろ」
「強くなるにはお肉です」
「俺はこれから戦うわけじゃない」
「仮ボスも戦うです」
「指示するだけだ」
「頭が戦うです。だから食べるです」
デルタが肉を俺の手へ押しつけた。
温かい。
熱いと言ってもいいくらいだった。
さっきまでスマホの冷たい縁を握っていた指へ、肉の熱と油が移る。
「どこで焼いた?」
「台所です」
「火は?」
「使ったです」
「誰に教わった?」
「バーゲストです」
バーゲストが静かに目を開く。
「私は火の扱いのみ説明しました。調理を許可した覚えはありません」
「教えてもらったです」
「都合よく省略しないでください」
デルタは自分の肉へ齧りついた。
豪快な音がする。
牙が焼けた表面を裂き、肉汁が皿へ落ちた。尻尾が機嫌よくソファを叩く。
一度。
二度。
三度。
まるで、部屋の時計とは別の秒針だった。
「仮ボス、食べないです?」
「食べるよ」
俺も肉を一口齧った。
塩が少し多い。
焼き目も均一じゃない。外側は固いのに、中は驚くほど柔らかかった。
「どうです?」
「しょっぱい」
「美味しいです?」
「しょっぱい」
「美味しいです?」
「……美味いよ」
「デルタは天才です」
「焼いたのはバーゲストじゃないのか?」
「デルタが見てたです」
「見てただけか」
「大事です」
デルタは満足そうに、もう一口齧る。
窓の外で鳥が鳴いた。
一声だけ。
まだ街全体が目を覚ます前の、遠慮がちな声だった。
俺は肉を持ったまま、スマホを見る。
画面は消えている。
黒いガラスへ、自分の顔とデルタの耳がぼんやり映っていた。
「デルタ」
「はいです」
「怖くないのか?」
デルタの顎が止まる。
肉を噛んだまま、紫の瞳がこちらを向いた。
「何がです?」
「決勝戦だ」
「勝つです」
「それは知ってる」
「じゃあ怖くないです」
「答えになってない」
「なってるです」
デルタは肉を飲み込む。
「敵が強いなら、デルタがもっと強くなるです」
「勝った後に何が起きるか、分からないんだぞ」
「ライザが調べるです」
「ライザにも分からないことはある」
「その時は仮ボスが考えるです」
「俺にも分からなかったら?」
「みんなで考えるです」
即答だった。
デルタは一度もスマホを見ない。
画面に表示された最終処理も、契約統合の可能性も、管理者にされる仮説も知らないわけではない。さっきまで同じ部屋で話を聞いていた。
けれど彼女の中で、それらは足を止める理由にはならないらしい。
「それでも駄目だったら?」
聞いた後で、自分の声が思ったより低かったことに気づく。
デルタの耳が僅かに傾いた。
「駄目って何です?」
「全員を守れなかったら」
「守るです」
「だから、それができなかった時だ」
「できるまでやるです」
「ゲームには、やり直しがない」
「仮ボス、変です」
デルタが眉を寄せた。
「何がだよ」
「まだ戦ってないのに、負けた後の話ばっかりしてるです」
言葉が止まった。
デルタは肉を皿へ戻し、油のついた指を自分の服で拭こうとする。
「待て。これを使え」
俺はテーブルからティッシュを取って渡した。
「仮ボスは細かいです」
「服で拭くな」
「デルタの服です」
「そういう問題じゃない」
文句を言いながらも、デルタはティッシュで指を拭いた。
それから、俺が持っているスマホへ初めて視線を落とす。
「これが悪いことするなら、壊すです」
「壊したら俺が消える」
「じゃあ壊さないです」
「判断が早いな」
「仮ボスが消えるのは駄目です」
また、即答だった。
デルタはそれ以上の説明をしない。
なぜ駄目なのか。
俺が必要だからか。
食事を用意する人間が減るからか。
命令を出す相手だからか。
たぶん、本人も言葉にはしないだろう。
ただ、尻尾がさっきより少し強く、俺の脚へ触れていた。
「仮ボス」
「何だ?」
「決勝で勝ったら、デルタはもっと強くなるです」
「ゲームが終わるかもしれないぞ」
「終わっても強くなるです」
「元の世界に帰っても?」
「帰ってもです」
「この世界に残っても?」
「残ってもです」
デルタが胸を張る。
黒い耳が、朝の光へ向かって真っすぐ立った。
「デルタは最強になるです」
「……そこは変わらないんだな」
「変わらないです」
「最初からずっと、そればかりだ」
「大事なことは変えないです」
デルタは紫の瞳で俺を見る。
「仮ボスも一緒に最強になるです」
「俺まで?」
「はいです」
「戦えないぞ」
「仮ボスは頭が強いです」
「今はだいぶ弱ってる気がする」
「お肉を食べれば治るです」
「何でも肉で解決するな」
「お肉は強いです」
デルタは俺の手に残っていた肉を、さらに押し上げた。
「食べるです」
仕方なく、もう一口齧る。
やっぱり塩辛い。
けれど、一口目より食べやすかった。
冷えていた指に熱が戻っている。
いつの間にか、スマホを握る力も緩んでいた。
思えば、最初からそうだった。
何も分からない部屋に現れたデルタは、俺の状況も、MEDESの残酷さも、未来の危険も気にしなかった。
腹が減ったと言い。
肉が食べたいと言い。
強い敵がいるなら倒すと言った。
俺が彼女を理解するより先に、デルタは俺の隣へ居座った。
あの頃は、振り回されているだけだと思っていた。
けれど、誰もいなかった部屋に最初の足音を響かせたのは、デルタだった。
敵しかいないゲームの中で、最初にこちらを向いた紫の目も。
勝てる根拠など何もないのに、当然のように勝つと言った声も。
今と何一つ変わっていない。
変わったのは、俺の方だ。
背負う名前が増えた。
消えていった顔を知った。
勝利の裏側へ、何が積み上がっているかも知ってしまった。
知るたびに、足元ばかり見るようになった。
踏み外さないために。
誰も落とさないために。
けれど、足元だけを見ていたら、進む方向まで見失う。
デルタの尻尾が、もう一度俺の脚を叩いた。
「仮ボス」
「何だ?」
「笑ってるです」
自分の口元へ触れる。
確かに、少し上がっていた。
「肉がしょっぱいからだ」
「しょっぱいと笑うです?」
「たぶんな」
「変です」
「デルタにだけは言われたくない」
俺は残った肉を皿へ戻す。
スマホを持ち直した。
今度は、縁へ指が食い込まない。
「デルタ」
「はいです」
「最初から変わらないな」
「デルタはずっとデルタです」
迷いのない返事だった。
俺は手を伸ばし、デルタの頭へ置いた。
黒い髪の間から生えた狼耳が、一瞬だけ横へ倒れる。
「何するです?」
「確認だ」
「デルタは本物です」
「知ってる」
耳の間を軽く撫でる。
デルタは不満そうに眉を寄せたが、頭を退けなかった。代わりに尻尾が、さっきより速くソファを叩き始める。
「子供扱いは駄目です」
「はいはい」
「デルタは強いです」
「知ってる」
「一番強くなるです」
「それも知ってる」
「仮ボスも強くなるです」
俺は一度、スマホを見る。
黒い画面。
その向こうで待っている決勝戦。
勝利の後に始まるかもしれない最終処理。
何も解決していない。
出口も見つかっていない。
それでも、さっきまで胸の奥へ積み上がっていた重さに、一本の隙間ができていた。
そこから、朝の光が差し込んでいる。
「そうだな」
俺はソファから立ち上がった。
スマホの画面を点ける。
――FINAL MATCH:READY
文字は相変わらず冷たい。
けれど、今はその下に、デルタの尻尾が揺れる姿が映り込んでいた。
「行くか」
「はいです!」
デルタが勢いよく立つ。
皿の上の肉が跳ねた。
「肉!」
「落ちてないです!」
「だから落ちる前に気をつけろ!」
デルタは皿を片手で受け止め、そのまま胸を張った。
「決勝も勝つです!」
声が部屋を揺らす。
ライザが紙の上で顔を上げ、エリスが眉を吊り上げ、織姫が目を瞬かせる。バーゲストは立ち上がり、ムジナはソファの上で耳を塞いだ。
「朝からうるさい!」
「出発です!」
「まだ押してない!」
「早く押すです!」
デルタが俺の背中を押す。
強い。
普通に痛い。
「分かったから押すな!」
「最強への出発です!」
窓の外で、二度目の鳥の声がした。
夜はもう、ほとんど残っていない。
最終決戦の先に何があるのか、まだ分からない。
けれど、最初の一歩を踏み出した時から変わらない少女が、今も俺の背中を押している。
それなら、立ち止まる理由はなかった。
俺は画面に指を置く。
デルタが隣で牙を見せて笑う。
その姿は、最初に出会った日と同じだった。