※この作品はR-18です。

MEDESGAME   作:ボルメテウスさん

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変わらない関係

 スマホの画面には、二つの文字が残っていた。

 

 ――FINAL MATCH:READY

 

 そして、今はもう表示されていないはずの一文。

 

 ――FINALIZATION PROCESS:STANDBY

 

 目を閉じても、白い文字だけが瞼の裏に浮かぶ。

 

 決勝戦。

 

 最終処理。

 

 勝てば終わると思っていた道の先に、もう一つ、名前の分からない扉が立っている。

 

 しかも、その扉は俺たちが開けるのを待っているのではない。最後の勝者が辿り着いた瞬間、向こう側から勝手に開くのかもしれなかった。

 

 俺はソファの端に腰掛け、スマホを両手で握っていた。

 

 指先が画面へ触れないように、縁だけを掴む。

 

 窓の外では、夜の黒が少しずつ薄くなっていた。建物の輪郭が灰色に浮かび、遠くの空だけが水で溶いたような青へ変わっていく。

 

 部屋の中は静かだった。

 

 ライザはテーブルに突っ伏すような姿勢で、書き散らした紙の間に眠っている。鉛筆を握ったまま、頬の下に片腕を敷いていた。

 

 エリスは壁際で腕を組み、目を閉じている。

 

 バーゲストは椅子へ座ったまま背筋を崩さない。眠っているのか、瞑想しているのか分からない。

 

 織姫はライザの肩へ毛布を掛け、少し離れた場所で丸くなっていた。

 

 ムジナはソファの反対側を占領している。ルプスレギナはいつの間にか姿を消していたが、たぶん別室にいる。壌竜は窓辺で、明るくなり始めた外を見ていた。

 

 みんな、ここにいる。

 

 この人数を揃えるために、いくつの戦いがあったのか。

 

 そのたびに誰かが消えた。

 

 バカラ。

 

 織姫の前のマスター。

 

 ライザのマスター。

 

 スマホの中では、敗北者は一行の文字で処理される。

 

 LOSER MASTER:ERASED。

 

 消滅。

 

 それだけだ。

 

 声も、顔も、最後に伸ばした手も残らない。

 

 俺はスマホを握り直した。

 

 縁が掌へ食い込む。

 

 もし決勝戦の後に、契約体を一つへまとめる処理が始まったら。

 

 もし俺が器にされるのではなく、器を完成させるための蓋に過ぎなかったら。

 

 もし、止めようとした瞬間に全員の契約が切れたら。

 

 考えるたび、出口のない廊下が伸びていく。

 

「仮ボス」

 

 耳元で声がした。

 

 顔を上げる。

 

 デルタが立っていた。

 

 いつからいたのか分からない。

 

 黒い狼耳がぴんと立ち、両手には皿を持っている。その上には、大きな肉の塊が二つ乗っていた。

 

 焼いた肉の匂いが、冷えた部屋へ広がる。

 

「……何してるんだ?」

 

「お肉を持ってきたです」

 

「それは見れば分かる」

 

「なら仮ボスは賢いです」

 

「褒められてる気がしないな」

 

 デルタは俺の隣へ座った。

 

 正確には座るというより、勢いよく腰を落とした。ソファが沈み、俺の身体が少しだけ彼女の方へ傾く。

 

 皿の肉が危うく滑りかける。

 

「危ない!」

 

「落ちてないです」

 

「落ちる前に言ってるんだよ」

 

「落ちてから拾えばいいです」

 

「床に落ちた肉を食べる前提なのか?」

 

「三秒なら大丈夫です」

 

「どこで覚えた、その知識」

 

「エリスが言ってたです」

 

 壁際から声が飛んだ。

 

「言ってないわよ!」

 

 エリスは目を閉じたままだった。

 

「起きてたのか」

 

「こんな声で寝られるわけないでしょ」

 

「エリスもお肉いるです?」

 

「いらない!」

 

「遠慮してるです」

 

「してない!」

 

 デルタは気にせず、肉の一つを俺へ差し出した。

 

 串にも刺さっていない。

 

 皿の上へ直接置かれた、拳より大きな塊だ。

 

「食べるです」

 

「朝からこれは重いだろ」

 

「強くなるにはお肉です」

 

「俺はこれから戦うわけじゃない」

 

「仮ボスも戦うです」

 

「指示するだけだ」

 

「頭が戦うです。だから食べるです」

 

 デルタが肉を俺の手へ押しつけた。

 

 温かい。

 

 熱いと言ってもいいくらいだった。

 

 さっきまでスマホの冷たい縁を握っていた指へ、肉の熱と油が移る。

 

「どこで焼いた?」

 

「台所です」

 

「火は?」

 

「使ったです」

 

「誰に教わった?」

 

「バーゲストです」

 

 バーゲストが静かに目を開く。

 

「私は火の扱いのみ説明しました。調理を許可した覚えはありません」

 

「教えてもらったです」

 

「都合よく省略しないでください」

 

 デルタは自分の肉へ齧りついた。

 

 豪快な音がする。

 

 牙が焼けた表面を裂き、肉汁が皿へ落ちた。尻尾が機嫌よくソファを叩く。

 

 一度。

 

 二度。

 

 三度。

 

 まるで、部屋の時計とは別の秒針だった。

 

「仮ボス、食べないです?」

 

「食べるよ」

 

 俺も肉を一口齧った。

 

 塩が少し多い。

 

 焼き目も均一じゃない。外側は固いのに、中は驚くほど柔らかかった。

 

「どうです?」

 

「しょっぱい」

 

「美味しいです?」

 

「しょっぱい」

 

「美味しいです?」

 

「……美味いよ」

 

「デルタは天才です」

 

「焼いたのはバーゲストじゃないのか?」

 

「デルタが見てたです」

 

「見てただけか」

 

「大事です」

 

 デルタは満足そうに、もう一口齧る。

 

 窓の外で鳥が鳴いた。

 

 一声だけ。

 

 まだ街全体が目を覚ます前の、遠慮がちな声だった。

 

 俺は肉を持ったまま、スマホを見る。

 

 画面は消えている。

 

 黒いガラスへ、自分の顔とデルタの耳がぼんやり映っていた。

 

「デルタ」

 

「はいです」

 

「怖くないのか?」

 

 デルタの顎が止まる。

 

 肉を噛んだまま、紫の瞳がこちらを向いた。

 

「何がです?」

 

「決勝戦だ」

 

「勝つです」

 

「それは知ってる」

 

「じゃあ怖くないです」

 

「答えになってない」

 

「なってるです」

 

 デルタは肉を飲み込む。

 

「敵が強いなら、デルタがもっと強くなるです」

 

「勝った後に何が起きるか、分からないんだぞ」

 

「ライザが調べるです」

 

「ライザにも分からないことはある」

 

「その時は仮ボスが考えるです」

 

「俺にも分からなかったら?」

 

「みんなで考えるです」

 

 即答だった。

 

 デルタは一度もスマホを見ない。

 

 画面に表示された最終処理も、契約統合の可能性も、管理者にされる仮説も知らないわけではない。さっきまで同じ部屋で話を聞いていた。

 

 けれど彼女の中で、それらは足を止める理由にはならないらしい。

 

「それでも駄目だったら?」

 

 聞いた後で、自分の声が思ったより低かったことに気づく。

 

 デルタの耳が僅かに傾いた。

 

「駄目って何です?」

 

「全員を守れなかったら」

 

「守るです」

 

「だから、それができなかった時だ」

 

「できるまでやるです」

 

「ゲームには、やり直しがない」

 

「仮ボス、変です」

 

 デルタが眉を寄せた。

 

「何がだよ」

 

「まだ戦ってないのに、負けた後の話ばっかりしてるです」

 

 言葉が止まった。

 

 デルタは肉を皿へ戻し、油のついた指を自分の服で拭こうとする。

 

「待て。これを使え」

 

 俺はテーブルからティッシュを取って渡した。

 

「仮ボスは細かいです」

 

「服で拭くな」

 

「デルタの服です」

 

「そういう問題じゃない」

 

 文句を言いながらも、デルタはティッシュで指を拭いた。

 

 それから、俺が持っているスマホへ初めて視線を落とす。

 

「これが悪いことするなら、壊すです」

 

「壊したら俺が消える」

 

「じゃあ壊さないです」

 

「判断が早いな」

 

「仮ボスが消えるのは駄目です」

 

 また、即答だった。

 

 デルタはそれ以上の説明をしない。

 

 なぜ駄目なのか。

 

 俺が必要だからか。

 

 食事を用意する人間が減るからか。

 

 命令を出す相手だからか。

 

 たぶん、本人も言葉にはしないだろう。

 

 ただ、尻尾がさっきより少し強く、俺の脚へ触れていた。

 

「仮ボス」

 

「何だ?」

 

「決勝で勝ったら、デルタはもっと強くなるです」

 

「ゲームが終わるかもしれないぞ」

 

「終わっても強くなるです」

 

「元の世界に帰っても?」

 

「帰ってもです」

 

「この世界に残っても?」

 

「残ってもです」

 

 デルタが胸を張る。

 

 黒い耳が、朝の光へ向かって真っすぐ立った。

 

「デルタは最強になるです」

 

「……そこは変わらないんだな」

 

「変わらないです」

 

「最初からずっと、そればかりだ」

 

「大事なことは変えないです」

 

 デルタは紫の瞳で俺を見る。

 

「仮ボスも一緒に最強になるです」

 

「俺まで?」

 

「はいです」

 

「戦えないぞ」

 

「仮ボスは頭が強いです」

 

「今はだいぶ弱ってる気がする」

 

「お肉を食べれば治るです」

 

「何でも肉で解決するな」

 

「お肉は強いです」

 

 デルタは俺の手に残っていた肉を、さらに押し上げた。

 

「食べるです」

 

 仕方なく、もう一口齧る。

 

 やっぱり塩辛い。

 

 けれど、一口目より食べやすかった。

 

 冷えていた指に熱が戻っている。

 

 いつの間にか、スマホを握る力も緩んでいた。

 

 思えば、最初からそうだった。

 

 何も分からない部屋に現れたデルタは、俺の状況も、MEDESの残酷さも、未来の危険も気にしなかった。

 

 腹が減ったと言い。

 

 肉が食べたいと言い。

 

 強い敵がいるなら倒すと言った。

 

 俺が彼女を理解するより先に、デルタは俺の隣へ居座った。

 

 あの頃は、振り回されているだけだと思っていた。

 

 けれど、誰もいなかった部屋に最初の足音を響かせたのは、デルタだった。

 

 敵しかいないゲームの中で、最初にこちらを向いた紫の目も。

 

 勝てる根拠など何もないのに、当然のように勝つと言った声も。

 

 今と何一つ変わっていない。

 

 変わったのは、俺の方だ。

 

 背負う名前が増えた。

 

 消えていった顔を知った。

 

 勝利の裏側へ、何が積み上がっているかも知ってしまった。

 

 知るたびに、足元ばかり見るようになった。

 

 踏み外さないために。

 

 誰も落とさないために。

 

 けれど、足元だけを見ていたら、進む方向まで見失う。

 

 デルタの尻尾が、もう一度俺の脚を叩いた。

 

「仮ボス」

 

「何だ?」

 

「笑ってるです」

 

 自分の口元へ触れる。

 

 確かに、少し上がっていた。

 

「肉がしょっぱいからだ」

 

「しょっぱいと笑うです?」

 

「たぶんな」

 

「変です」

 

「デルタにだけは言われたくない」

 

 俺は残った肉を皿へ戻す。

 

 スマホを持ち直した。

 

 今度は、縁へ指が食い込まない。

 

「デルタ」

 

「はいです」

 

「最初から変わらないな」

 

「デルタはずっとデルタです」

 

 迷いのない返事だった。

 

 俺は手を伸ばし、デルタの頭へ置いた。

 

 黒い髪の間から生えた狼耳が、一瞬だけ横へ倒れる。

 

「何するです?」

 

「確認だ」

 

「デルタは本物です」

 

「知ってる」

 

 耳の間を軽く撫でる。

 

 デルタは不満そうに眉を寄せたが、頭を退けなかった。代わりに尻尾が、さっきより速くソファを叩き始める。

 

「子供扱いは駄目です」

 

「はいはい」

 

「デルタは強いです」

 

「知ってる」

 

「一番強くなるです」

 

「それも知ってる」

 

「仮ボスも強くなるです」

 

 俺は一度、スマホを見る。

 

 黒い画面。

 

 その向こうで待っている決勝戦。

 

 勝利の後に始まるかもしれない最終処理。

 

 何も解決していない。

 

 出口も見つかっていない。

 

 それでも、さっきまで胸の奥へ積み上がっていた重さに、一本の隙間ができていた。

 

 そこから、朝の光が差し込んでいる。

 

「そうだな」

 

 俺はソファから立ち上がった。

 

 スマホの画面を点ける。

 

 ――FINAL MATCH:READY

 

 文字は相変わらず冷たい。

 

 けれど、今はその下に、デルタの尻尾が揺れる姿が映り込んでいた。

 

「行くか」

 

「はいです!」

 

 デルタが勢いよく立つ。

 

 皿の上の肉が跳ねた。

 

「肉!」

 

「落ちてないです!」

 

「だから落ちる前に気をつけろ!」

 

 デルタは皿を片手で受け止め、そのまま胸を張った。

 

「決勝も勝つです!」

 

 声が部屋を揺らす。

 

 ライザが紙の上で顔を上げ、エリスが眉を吊り上げ、織姫が目を瞬かせる。バーゲストは立ち上がり、ムジナはソファの上で耳を塞いだ。

 

「朝からうるさい!」

 

「出発です!」

 

「まだ押してない!」

 

「早く押すです!」

 

 デルタが俺の背中を押す。

 

 強い。

 

 普通に痛い。

 

「分かったから押すな!」

 

「最強への出発です!」

 

 窓の外で、二度目の鳥の声がした。

 

 夜はもう、ほとんど残っていない。

 

 最終決戦の先に何があるのか、まだ分からない。

 

 けれど、最初の一歩を踏み出した時から変わらない少女が、今も俺の背中を押している。

 

 それなら、立ち止まる理由はなかった。

 

 俺は画面に指を置く。

 

 デルタが隣で牙を見せて笑う。

 

 その姿は、最初に出会った日と同じだった。

 

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