画面へ触れた指先から、冷たい光が這い上がった。
視界が白く潰れる。
身体の輪郭がほどけ、足元の床が消えた。落下する感覚はない。ただ、世界だけが一度まっさらに消され、別の景色を上から塗り直されていく。
次に靴底へ返ってきたのは、ひび割れたアスファルトの硬さだった。
風が頬を撫でる。
乾いていた。
俺たちが立っていたのは、見知らぬ街の中央を貫く大通りだった。
左右には古びた住宅が並び、その奥には校舎らしき建物が見える。窓ガラスの大半は割れ、カーテンだけが空洞になった窓から細長くはためいていた。
空は赤い。
夕焼けというには濃すぎる赤が、街全体を染めている。長く引き伸ばされた電柱の影が道路を横切り、俺たちの足元へ絡みついていた。
人の気配はない。
生活の跡だけが残っている。
道端へ倒れた自転車。
片方だけ脱げた子供用の靴。
開いたまま動かない信号機。
風に押された空き缶が、道路の上を転がっていく。
からん。
からん。
乾いた音が、誰もいない家々の間を抜けていった。
「ここが決勝です?」
デルタが鼻を動かす。
狼耳が左右へ揺れ、尻尾はすでに大きく持ち上がっている。
「強い匂いがするです」
「相手か?」
「二人です。一人は人間です。もう一人は……人間だけど、違う匂いです」
デルタが道の先を指差した。
赤い光の向こうに、二つの人影があった。
一人は少女。
長い黒髪を背に流し、落ち着いた佇まいでこちらを見ている。上品で、どこか柔らかい。こんな場所ではなく、静かな教室や図書室に立っていた方が似合う姿だった。
もう一人は少年だった。
俺たちより少し離れた道路の中央で、尻餅をつくように座り込んでいる。
中学生くらいだろう。
身体つきは小太りで、制服の襟元が少し乱れていた。両手でスマホを握っているが、その腕は持ち上がらない。画面だけが、膝の上で白く光っている。
少年は俺を見た。
次に、俺の後ろへ並ぶ契約体たちを見る。
デルタ。
バーゲスト。
ムジナ。
壌竜。
ルプスレギナ。
エリス。
織姫。
ライザ。
視線が一人ずつをなぞるたび、少年の肩が下がっていった。
「……無理だ」
風へ溶けそうな声だった。
「こんなの、勝てるわけない」
スマホを持つ手が、膝から滑る。
黒髪の少女が屈み込み、その手首を支えた。
「持っていてください」
声は柔らかい。
叱りつける響きはない。
それでも、少年の手からスマホを落とさせなかった。
「でも、東郷さん……」
「はい」
「もう、やめよう」
少年は顔を上げない。
「決勝まで来たんだし、もう十分だよ。僕たちは誰も消したくなかった。なのに、ここまで来る間に……」
言葉が途切れる。
少女――東郷美森は、少年の手を包んだまま黙っていた。
否定もしない。
慰める言葉も口にしない。
赤い風が二人の髪と服を揺らす。
少年はそれを許可だと思ったのかもしれない。
「向こうの人たちも、きっと同じだよ」
彼は俺を見た。
「巻き込まれただけなんでしょう?」
「ああ」
答えると、少年の顔が歪んだ。
「だったら戦わなくていいじゃないか」
俺も、そう言えたらよかった。
最後の敵が、見るからに悪意を持った人間なら。
勝利のためなら誰が消えても構わないと笑う相手なら。
もっと簡単だった。
倒さなければならない理由を、相手の中に置いておけた。
けれど、目の前の少年は、スマホを握ることすら嫌がっている。
俺と同じだ。
初めてMEDESを手にした日の俺と。
何も分からないままデルタを呼び出し、戦わなければ消えると告げられた俺と。
違うのは、彼の隣にいる少女が、最初から自分の役目を知っていることだけだった。
「立ってください」
美森が言った。
少年は小さく首を振る。
「嫌だ」
「立ってください」
「東郷さんまで消えるかもしれないんだよ」
「ですから、立つのです」
声は変わらない。
だが、少年の手首を支えていた指が、少しだけ強く締まった。
「私たちがここで戦わなければ、終わるのは私たちだけではありません」
美森は俺たちを見た。
柔らかかった目が、まっすぐこちらへ向く。
「向こうの方々も、決勝を終えられない。MEDESが何をするかも分からないまま、全員がこの場に置かれる可能性があります」
「でも、勝ったらあの人が……」
「消えます」
美森は言い切った。
少年の肩が跳ねる。
夕焼けの中へ、空き缶がまた転がった。
「あるいは、私たちが消える」
美森は少年の腕を自分の肩へ回す。
腰を支え、半ば持ち上げるように身体を起こした。
「東郷さん、待って」
「足に力を入れてください」
「僕は――」
「あなたは、ここまで私と来ました」
少年の靴底が道路へ触れる。
膝が震えていた。
美森はその震えを止めようとはしない。ただ、倒れないように横から支えている。
「怖いままで構いません」
「……」
「戦いたくないままでも構いません」
少年の顔が上がる。
美森は笑っていなかった。
「ですが、立ってください」
言葉は静かだった。
それなのに、道路へ杭を打つように響いた。
「私が戦います。あなたは、私を見ていてください」
「そんなの、ずるいよ」
少年の声が掠れる。
「全部、東郷さんにやらせるなんて」
「でしたら、私が迷った時には叱ってください」
「僕が?」
「はい。私はあなたの勇者ですから」
美森は少年の手にあるスマホを、胸の高さまで持ち上げた。
その指が承認欄の近くへ添えられる。
「勝たなければ、ここでは終われません」
少年は画面を見る。
指先が震える。
押せない。
美森は急かさなかった。
ただ、手を離さない。
俺の隣で、デルタの尻尾が止まった。
さっきまで嬉しそうに揺れていた耳も、真っすぐ前を向いている。
「仮ボス」
「分かってる」
何が、と聞く必要はなかった。
あの二人は、俺たちに近い。
マスターが戦いを嫌い。
契約体が前へ出る。
消えたくないから戦い、相手を消すことに慣れないまま、勝つしかない場所まで来た。
似ているから分かり合える。
そんな都合のいい話ではない。
似ているからこそ、どちらも譲れない。
俺のスマホが震えた。
少年の指が、画面へ触れていた。
――FINAL MATCH:ACCEPTED
白い文字が夕焼けの中へ浮かぶ。
続けて、新しい表示が現れた。
――FINAL MATCH
――FIRST BATTLE:ONE ON ONE
――SELECT YOUR UNIT
「一対一……」
ライザがスマホを覗き込む。
「最初の戦闘だけ、ほかの契約体は介入できないみたい」
エリスが眉を寄せた。
「また勝手なルールを」
「誰を出す?」
織姫が俺を見る。
尋ねられる前から、答えは決まっていた。
画面に選出候補が並ぶ。
その一番上にある名前。
最初に契約した少女。
このゲームの最初から隣にいた相棒。
俺が指を動かすより先に、デルタが画面へ顔を寄せた。
「デルタです!」
「近い」
「最初はデルタが行くです!」
「まだ選んでない」
「選ぶです」
「勝手に決めるな」
「仮ボス、さっき約束したです」
「何をだよ」
「デルタが最強になるです」
牙を見せて笑う。
その目に、目の前の事情への迷いはなかった。
少年が善人かどうか。
美森が誰を守ろうとしているか。
デルタはたぶん、全部分かっていない。
けれど、理解していないから軽く見ているわけでもない。
彼女は相手が強いと嗅ぎ取った。
なら、正面から戦う。
それだけだ。
「……任せる」
「はいです!」
俺がデルタの名前を押す。
画面が白く輝いた。
――SELECTED UNIT:DELTA
向こうの画面にも表示が出る。
少年は美森を見る。
選択を求めるような目だった。
美森は彼の肩へ置いていた手を離した。
「私が参ります」
「東郷さん」
「大丈夫です」
今度は、柔らかな笑みが戻っていた。
けれど、ほんの僅かだった。
「あなたは、そこから動かないでください」
「でも」
「射線へ入られる方が困ります」
穏やかな言い方なのに、拒否を許さない。
少年は唇を噛み、やがて小さく頷いた。
美森が道路の中央へ進み出る。
車椅子はない。
両足で歩き、赤い光の中を進んでくる。
一歩。
また一歩。
足取りは静かだ。
だが、彼女が少年から離れるほど、空気が張り詰めていく。
デルタも前へ出た。
跳ねるような歩調で美森へ近づき、道路の中央で止まる。
「強いです?」
いきなり聞いた。
美森が目を瞬かせる。
「自分では、そうありたいと思っています」
「なら、デルタが勝つです」
「正直な方ですね」
「デルタは最強になるです」
「それは、困りました」
美森の微笑みが少しだけ深くなる。
「私も、負けるわけにはいきませんので」
MEDESの文字が、二人の間へ浮かぶ。
――BATTLE FIELD:ABANDONED CITY
――COMBAT RANGE:UNRESTRICTED
――INTERFERENCE:PROHIBITED
赤い光が街路を走る。
透明な壁が俺たちと戦場を分けるように立ち上がった。
「デルタ!」
俺が呼ぶと、彼女は振り返らずに手を上げた。
「任せるです!」
言葉が違う。
いつもなら「任せるです」ではなく、「任せるです!」と同じでも、もっと自分勝手に飛び出していた。
けれど今の声には、俺が後ろにいることを確かめる響きがあった。
向こうでは、美森が少年を一度だけ振り返る。
少年はスマホを胸元で握り締めていた。
「東郷さん」
「はい」
「……帰ろう」
美森の目が僅かに細くなる。
「必ず」
それだけ言い、前を向いた。
柔らかな表情が消える。
肩の力が抜け、重心が低くなる。
右手に短銃。
左手には散弾銃。
背後の空間が僅かに歪み、長い銃身を持つ狙撃銃が現れた。
三種。
距離に応じて使い分ける武器。
美森はまず狙撃銃を選んだ。
銃床を肩へ当て、スコープ越しにデルタを捉える。
少女の姿は上品なままだ。
だが、銃口の先には一片の柔らかさもない。
「デルタ、射線から外れろ!」
「分かってるです!」
銃声。
乾いた破裂音が、廃校都市を貫いた。
デルタが右へ跳ぶ。
彼女がいた場所のアスファルトが砕け、石片が赤い光の中へ舞った。
二発目。
着地点を狙っている。
デルタは着地せず、壁を蹴った。
住宅の外壁へ足跡が残り、身体が斜め前へ飛ぶ。
三発目。
今度は進行方向。
「止まれ!」
俺の声と同時に、デルタが空中で身を捻った。
弾丸が頬の横を抜ける。
黒髪が数本切れ、夕焼けの中へ散った。
「速いですね」
美森の声は平静だった。
狙撃銃の装填を行いながら、すでに次の位置へ下がっている。
「ですが、真っすぐすぎます」
四発目。
デルタの前ではなく、左後方の道路へ着弾する。
逃げ道を消すための射撃。
五発目が右。
六発目が正面。
弾丸が地面を削り、デルタの走路を細く絞っていく。
「撃って倒すんじゃない」
ライザが透明な壁の向こうを見つめる。
「進む場所を選ばせてる」
「あの先には何がある?」
俺が尋ねる。
ライザの視線が、黒く沈んだ校舎の窓へ向く。
「狭い道。散弾銃を使う気だよ」
「デルタ、そっちへ行くな!」
「でも、前は撃たれるです!」
「上へ行け!」
デルタが校舎の外階段へ跳ぶ。
手すりを掴み、勢いのまま身体を引き上げる。
美森の狙撃銃が追う。
デルタは階段を上がらない。
一段目を蹴った瞬間、手すりの外へ飛び出す。
校舎二階の窓へ一直線に飛び込んだ。
ガラスが砕ける。
黒い窓の奥へ、デルタの姿が消えた。
美森は狙撃銃を下ろした。
「入られた」
少年が声を上げる。
「東郷さん、後ろ!」
「分かっています」
美森は走り出す。
狙撃銃が消え、代わりに散弾銃を両手で構える。
校舎と道路の間。
美森が狙っていた狭い通路へ、デルタが二階の窓から飛び降りてきた。
「見つけたです!」
真上。
美森が銃口を持ち上げる。
轟音。
散弾が空中へ広がる。
デルタは両腕を交差させた。
魔力が黒い獣毛のように腕を覆う。
弾丸がぶつかり、火花と血が同時に飛んだ。
それでもデルタは落ちない。
「この程度です?」
牙を剥く。
美森が一歩下がる。
二発目を撃つには近すぎる。
デルタの爪が散弾銃へ迫る。
美森は銃を捨てた。
迷いはない。
空いた右手に短銃が現れる。
デルタの爪。
美森の銃口。
二つが、互いの顔の前へ届く。
「デルタ!」
「東郷さん!」
俺と少年の声が、同時に響いた。
爪が銃身を弾く。
銃声が鳴る。
火花が、沈みかけた夕日の中へ散った。