――FINALIZATION PROCESS:START
白い文字が、黒い画面の中央で明滅している。
決勝戦の舞台だった廃校都市は、もうどこにもなかった。
沈み切った夕日も、砕けた校舎も、東郷美森も、彼女を支えていた少年も、黒いノイズに呑まれて見えなくなった。
「デルタ!」
俺は暗闇へ向かって手を伸ばす。
指先が掴んだのは、冷たい空気だけだった。
「仮ボス、ここです」
すぐ横から声がする。
振り向くと、デルタは床もない空間に仰向けで倒れていた。
魔神の外殻は消えている。破れた黒い衣服の下には、銃弾と散弾が刻んだ傷がいくつも残っていた。
それでも、紫の瞳は開いている。
「寝てたんじゃなかったのか」
「声が大きいから起きたです」
「誰のせいだと思ってる」
「美森は強かったです」
「会話になってないぞ」
膝をつき、デルタの肩へ手を回す。
重みがある。
幻でもデータでもない。確かにここにいる。
その事実を確かめるように抱き起こすと、デルタの尻尾が俺の腕へ弱々しく巻きついた。
「お腹すいたです」
「分かった。帰ったら食べさせる」
「いっぱいです?」
「食べきれないくらいだ」
「約束です」
「ああ」
返事をした瞬間、スマホが激しく震えた。
俺の手の中だけではない。
ライザが持つ解析用の端末も、床のない空間に漂っていた戦闘記録の文字も、一斉に白く発光する。
「始まる」
ライザが駆け寄ってくる。
彼女の頬にも、決勝戦の光がまだ残っている。鉛筆を耳に挟み、紙束を抱えたまま、俺のスマホへ顔を近づけた。
「最終処理か?」
「分からない。さっきまでと表示が違う」
画面の文字が消える。
代わりに、黒い染みが中央へ広がった。
液体のように膨らみ、画面の縁から溢れ出す。
「離れて!」
エリスが剣を抜く。
バーゲストが前へ出て、俺とデルタを庇うように大剣を構えた。
黒い染みは攻撃してこなかった。
スマホからゆっくりと滑り落ち、空中で四角い形へ整っていく。
紙だ。
いや、封筒だった。
宛名も、差出人も、切手もない。
光を吸い込むような黒い封筒の中央にだけ、銀色の文字が刻まれている。
――優勝者様へ。
「怪しいです」
デルタが俺の腕の中から顔を上げる。
「お前でも分かるくらい怪しいな」
「デルタは賢いです」
「今は張り合うところじゃない」
封筒は俺の胸の高さで静止していた。
誰も触れていないのに、黒い封蝋が淡く光っている。
「罠でしょうか」
織姫が俺の後ろから覗き込む。
「罠じゃなくても、ろくなものではないでしょうねぇ」
ルプスレギナが笑う。
口調は軽いが、両手は自由に動かせる位置に下ろしている。
「放っておいたら?」
ムジナが封筒を見たまま言う。
「どうせ向こうから次を始めるんじゃない」
「それもありそうだな」
俺は封筒へ手を伸ばした。
「待って」
ライザが手首を掴む。
指先にはまだ鉛筆の黒い汚れが残っていた。
「先に調べる」
「触れずに分かるのか?」
「分からないから調べるの」
ライザは封筒の周囲へ三本の細い器具を並べた。
錬金術で作ったのか、金属の針に小さなガラス球がついている。三つの球体へ違う色の光が灯り、封筒の表面をなぞった。
「魔力反応……あり。でも、契約を動かす術式じゃない」
「MEDESの一部ではないのか?」
「似てるけど、同じじゃない」
ライザは眉を寄せる。
「MEDESの表示って、全部が一本の太い管から流れてくるみたいだった。でも、これは横から割り込んでる」
「外部通信ということですか」
バーゲストが訊く。
「たぶん。この招待状を送った相手は、最終処理を直接動かしているものとは別」
「管理人とシステムが、別々に存在する」
俺が口にすると、ライザは僅かに頷いた。
「可能性はある」
黒い封筒を光へ透かす。
表面には何も見えない。
けれど、ライザのガラス球を通すと、銀色の回路が紙の奥に浮かび上がった。
複雑な線が封蝋へ集まり、中心に一つの記号を作っている。
人の目にも見える。
閉じた扉にも見える。
「仮ボス」
デルタが鼻を動かした。
「人間の匂いがするです」
「封筒から?」
「はいです」
狼耳が傾く。
「でも、生きてる匂いじゃないです」
「それはどういう意味だ?」
「人がいた匂いです。でも、今はいないです」
説明になっているようで、完全には分からない。
ただ、デルタが冗談を言っていないことだけは、紫の瞳を見れば伝わった。
俺は封筒へ指を掛けた。
今度はライザも止めなかった。
触れた瞬間、封蝋が勝手に割れた。
音は小さい。
けれど、誰も言葉を発していない空間では、骨が折れたように響いた。
中から白い紙が滑り出す。
黒い空間の中で、それだけが妙に清潔だった。
「読んでください」
バーゲストの声に促され、紙を開く。
文字は縦でも横でもない。
最初は意味のない記号に見えたが、目を向けると自然に日本語として頭へ入ってきた。
――MEDES優勝者、並びに契約体の皆様へ。
――決勝戦の勝利を、心よりお祝い申し上げます。
指が止まる。
「心より、ねぇ」
エリスが鼻で笑う。
「人を消しておいて、随分と丁寧じゃない」
俺は続きを読む。
――皆様は、当管理者が設定した全ての試練を突破されました。
――その戦闘、判断、契約、変化は、いずれも当初の予測を上回る成果です。
ライザの視線が鋭くなる。
予測。
成果。
書かれているのは、勝者へ向けた言葉ではない。
実験を終えた観察者の報告だ。
紙を持つ指へ力が入る。
白い紙の端が僅かに折れた。
「続きは?」
ムジナが言う。
俺は息を吐き、次の行へ目を移した。
――ゲームの開催理由をお知りになりたい場合、下記の管理領域までお越しください。
――管理人が直接、皆様の疑問に回答いたします。
――招待を受諾されない場合、最終処理は予定どおり実行されます。
「予定どおり?」
織姫の声が揺れる。
「やっぱり、招待を受けなくても最終処理は止まらない」
ライザがスマホを覗き込む。
画面の端に新しい数字が現れていた。
十。
九。
八。
秒ではない。
数字の横には、見慣れない単位が表示されている。けれど減少の間隔から、おそらく十分単位だ。
「制限時間です」
バーゲストが剣を握り直す。
「考える時間まで指定するとは」
「罠にしては親切ですねぇ」
ルプスレギナが封筒へ顔を寄せる。
「断ったら予定どおり何かをされる。受けたら、別の場所へ連れていかれる。どちらを選んでも、向こうの手の内です」
「だったら行かない方がいいんじゃない?」
エリスが俺を見る。
「最終処理をここで止める。ライザが調べるって言ったんでしょ」
「調べる。でも、時間が足りない」
ライザは即座に答えた。
悔しさを口にする代わりに、招待状へ器具を強く押し当てる。
「これまで集めた記録だけじゃ、出口の位置が分からない。管理領域へ行けるなら、MEDESの中枢に近づけるかもしれない」
「近づけば、向こうの拘束も強くなる」
バーゲストが言う。
「はい。全員の契約を同時に切断される可能性もあります」
「では、罠である可能性は高い」
「高いよ」
ライザは顔を上げた。
「でも、何もしなければ最終処理が始まる」
暗闇の中で、数字が一つ減った。
全員の視線が俺へ向く。
マスターだから。
勝者だから。
俺が決める立場だから。
その視線が、以前なら肩へ重く積み上がっていた。
けれど今は、誰も命令を待って立っているようには見えなかった。
エリスは剣を抜いている。
バーゲストはいつでも前へ出られる姿勢を取っている。
織姫はデルタの傷へ小さな盾を重ね、治療を始めていた。
ライザは既に招待状の解析を続けている。
壌竜は目を閉じ、存在しない地面を探っていた。
全員が、自分の意思で準備している。
「地はない」
壌竜が低く告げた。
「足元に何もないのか?」
「何もないのではない。地として語るものがない。ここは、土も石も持たぬ器だ」
「人工空間?」
ライザが尋ねる。
「そう呼ぶならば、そうだ」
壌竜は暗闇へ掌を向ける。
「外へ続く流れは一つ。封書の先のみ」
「行かせたいなら、向こうにも都合があるんだろうね」
ムジナが欠伸を噛み殺す。
「完成品を直接見たいとか」
完成品。
その言葉と同時に、スマホへ表示された「UNIT EVOLUTION:ACQUIRED」が頭をよぎった。
魔神デルタ。
俺たちが生きるために掴んだ変化を、向こうは成果と呼んだ。
ゲーム中に消えていった顔が浮かぶ。
バカラ。
ライザの前のマスター。
東郷美森の隣にいた少年。
少年と美森がどうなったのか、まだ表示すらされていない。
記録には残っている。
けれど、その先は分からない。
理由を知らずに帰れたとして。
俺は、スマホを捨てて眠れるのだろうか。
翌朝、何事もなかったように肉を焼けるのか。
デルタが差し出した皿を見ながら、消えた人間のことを考えずに済むのか。
「行く」
俺は招待状を折り畳んだ。
エリスの眉が上がる。
「罠でも?」
「罠だろうな」
「即答するのね」
「管理人は俺たちを呼びたい。呼んだ先で何かをするつもりだ」
スマホを握り直す。
「なら、向こうの都合があるうちに聞く」
「何を?」
「全部だ」
「招待状には、質問をいくつ許すとも書かれてないけど」
「答えるまで帰らない」
エリスはしばらく俺を見た。
やがて、剣を肩へ担ぐ。
「それでこそ、ここまで勝ってきたマスターね」
「褒めてるのか?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「無謀」
「否定できないな」
「仮ボスが行くなら、デルタも行くです」
織姫に治療されながら、デルタが腕を上げる。
すぐに顔をしかめた。
「動いちゃ駄目だよ」
「もう治ったです」
「治ってないよ」
「戦えるです」
「それと治っているのは別!」
織姫が珍しく声を強める。
デルタの耳が伏せられた。
「……歩くくらいなら平気です?」
「私の近くにいてね」
「分かったです」
素直に頷いたデルタを見て、エリスが小さく吹き出した。
「織姫の方がマスターらしいじゃない」
「違います!」
「デルタのご飯をくれるなら、ボスでもいいです」
「もっと違うよ!」
暗闇の中へ、短い笑い声が広がる。
それはすぐに消えた。
けれど、スマホの数字が一つ減るまでの間だけ、この空間はMEDESのものではなかった。
俺たちが自分で作った時間だった。
「どうやって行く?」
俺がライザを見る。
「招待状を画面に重ねるみたい」
「壊れないだろうな」
「それを今から確かめる」
「時間は?」
「減ってる」
「急いでくれ」
「急かすと失敗するよ」
「頼むから成功してくれ」
「そのつもり」
ライザは招待状をスマホの上へ重ねた。
白い紙が黒い画面へ触れる。
水へ沈むように、紙の端から画面の中へ吸い込まれていく。
最後の一片が消えた瞬間、暗闇が縦に裂けた。
光が漏れる。
細い線だったものが左右へ開き、白い扉の形になる。
取っ手はない。
扉の中央には、招待状にあった目のような記号が刻まれていた。
――INVITATION:ACCEPTED
スマホへ表示が出る。
――ROUTE TO ADMINISTRATIVE DOMAIN:OPEN
「開いた」
織姫が呟く。
「罠の入り口が、ね」
ムジナが立ち上がる。
「戻る道はありますか?」
バーゲストの問いに、ライザが画面を確認する。
「表示されてない」
「入れば閉じると考えるべきです」
「なら、先に配置を決める」
俺は全員を見た。
「デルタは織姫の近く。バーゲストとエリスが前衛。壌竜は空間の変化を探ってくれ。ムジナとルプスレギナは後ろを警戒。ライザは俺と一緒に招待状の経路を追う」
「仮ボス」
デルタが不満そうに耳を立てる。
「デルタも前がいいです」
「今は駄目だ」
「戦えるです」
「帰って肉を食う約束をしただろ」
「しました」
「なら守れ」
デルタは頬を膨らませる。
それでも織姫の隣から動かなかった。
「仮ボスも約束を守るです」
「ああ」
バーゲストが白い扉の前へ立つ。
大剣の切っ先で、扉の表面へ軽く触れた。
抵抗はない。
光の膜が、水面のように揺れる。
「参ります」
バーゲストが扉を抜ける。
エリスが続く。
数秒後、向こう側から声がした。
「通れるわ。今のところは何もいない」
俺たちも一人ずつ扉を越えた。
白い光が視界を覆う。
眩しさへ目を細め、一歩踏み出す。
靴底へ、初めて床の感触が返ってきた。
そこは、真っ白な回廊だった。
天井と床、壁の境目がない。
影がなければ、自分たちが立っていることさえ分からなくなりそうな空間だ。
後ろを振り返る。
全員が通過した瞬間、白い扉が音もなく閉じた。
中央の記号が消える。
壁と見分けがつかなくなった。
「帰り道、消えたです」
デルタが鼻を近づける。
「無理に開けられそう?」
エリスが剣の柄へ手を置く。
「待って」
ライザが壁へ器具を当てる。
「ここで壊すのは危ない。空間そのものが契約に繋がってるかもしれない」
「また壊せないものが増えたわね」
「壊さずに開けるって決めたでしょ」
「分かってるわよ」
回廊の奥へ足を進める。
足音だけが、どこまでも反響した。
一歩。
二歩。
三歩。
誰も話していないのに、音だけが人数以上に増えていく。
やがて、右側の壁へ映像が現れた。
突然だった。
白い壁へ色が滲み、過去の戦場が映し出される。
デルタが最初の敵へ飛びかかる場面。
バーゲストの剣が振り下ろされる場面。
ムジナの怪獣が街を覆う場面。
壌竜が地面を隆起させる場面。
俺たちの戦いだ。
「全部、残ってる」
ライザが壁へ近づく。
映像には音がない。
俺の指示も、デルタの叫びも、銃声も消されている。
戦闘だけが、標本のように切り取られていた。
「趣味が悪いです」
バーゲストが映像へ鋭い視線を向ける。
「自分の戦いを見るのは好きです」
デルタが身を乗り出す。
「デルタ、強いです」
「今は見なくていいよ」
織姫が尻尾を掴んで引き戻す。
「でも、次にもっと強くなるために見るです」
「体が治ってから!」
映像が切り替わる。
敗北したマスター。
契約体。
消滅直前の姿。
黒いノイズ。
そして、空白。
「消えた後がない」
俺は足を止めた。
どの記録も同じだ。
マスターが消える瞬間、映像は黒く乱れる。
次に映る時には、契約体だけが勝者側へ登録されている。
「記録できなかったのかな」
織姫が言う。
「違うと思う」
ライザは壁へ手を伸ばさず、目だけで映像を追う。
「わざと隠してる」
「根拠は?」
「ノイズの形が全部同じ。通信が途切れたんじゃなくて、同じ処理で上から覆ってる」
「消滅ではなく、転送されている可能性は?」
バーゲストが訊く。
「ある。でも、どこへ送ったかは表示されてない」
「管理人なら知っている」
俺の声が、白い回廊へ長く響いた。
映像が再び切り替わる。
廃工場。
ライザ。
彼女の前のマスター。
男が黒いノイズへ包まれる直前で、映像が一度止まった。
ライザの足も止まる。
画面の中の彼女は、消えていく男へ手を伸ばしていた。
今のライザは紙束を抱えたまま、その手を見ている。
鉛筆が一本、束の隙間から抜け落ちた。
床へ転がる。
乾いた音が白い空間を走った。
俺は何も言わず、鉛筆を拾った。
ライザへ差し出す。
彼女はすぐには受け取らなかった。
壁の映像が黒いノイズへ変わる。
空白。
そこまで見届けてから、鉛筆へ手を伸ばした。
「ありがとう」
「ああ」
「……行こう」
ライザは前を向く。
俺も隣を歩く。
映像は背後へ流れていった。
やがて壁の映像が消え、再び白一色へ戻る。
「仮ボス」
先頭近くを歩くデルタが振り返る。
「匂いが近いです」
「人間の匂いか?」
「はいです」
鼻を動かす。
「でも、やっぱり変です」
「生きていない?」
「生きてないのに、ずっといる匂いです」
回廊の先に、黒い扉が見えた。
白い世界の中で、そこだけが穴のように浮かんでいる。
扉の上には文字があった。
――ADMINISTRATOR ROOM
「そのままですねぇ」
ルプスレギナが笑う。
「管理人室。隠す気もないようです」
「見つけさせるための場所だからだろ」
俺はスマホを確認する。
最終処理の表示は一時停止していた。
――FINALIZATION PROCESS:PAUSED
――AWAITING ADMINISTRATOR INTERVIEW
会話が終われば、再開する。
管理人が答えを拒めば。
俺たちが納得しなくても。
「開けるぞ」
「私が先に」
バーゲストが前へ出る。
「いや」
俺は首を横に振った。
「俺への招待状だ」
「しかし」
「何かあれば、頼む」
バーゲストは口を閉じた。
やがて一歩横へ移る。
「必ず、私の間合いから離れないでください」
「ああ」
扉へ手を置く。