人工の獣が吠えた。
声は大きい。
管理室の壁を震わせ、赤く染まった画面へ細かなノイズを走らせるほどの音量だった。
それなのに、耳の奥には何も残らない。
腹を空かせた獣の声でもない。
敵を見つけて喜ぶデルタの声でもない。
ただ、咆哮という現象だけを再生した音だった。
「空っぽです」
デルタが牙を見せる。
織姫に支えられていた肩を外し、前へ出ようとする。
「待て」
俺はその腕を掴んだ。
薄い布の下で、巻かれた包帯が熱を持っている。決勝戦で受けた銃創は塞がりきっていない。
「傷が残ってる」
「あります」
「なら、下がってろ」
「嫌です」
「即答するな」
「これはデルタが倒すです」
目の前の人工獣が、ゆっくりと顔を上げる。
顔と呼べるものはなかった。
目も、鼻も、口もない黒い面。
その表面へ紫の線が走り、デルタの瞳に似た二つの光を形作る。
似ている。
耳の角度も。
長く伸びた爪も。
黒紫の外殻をまとった脚も。
けれど、似ているからこそ気味が悪かった。
鏡へ映った自分が、一拍遅れて違う動きを始めたような不自然さがある。
『戦闘出力、安定』
管理人の声が響く。
『人工再現個体――デモンタイプ・デルタ。起動を確認しました』
「名前まで取るなです」
デルタの喉から低い唸りが漏れる。
『名称は識別のために必要です』
「デルタは一人です」
『その認識が戦闘結果へ与える影響も観測します』
「やっぱり壊していいです?」
エリスが剣を肩へ担ぐ。
「管理人ごと」
『戦闘への外部介入は推奨しません』
「命令される筋合いはないわ」
『命令ではありません。警告です』
人工獣の胸部に光が灯った。
鼓動のように、一度。
次の瞬間、姿が消える。
「来るぞ!」
黒紫の線が床を走った。
俺の声より早く、デルタが前へ出る。
「分かってるです!」
両者の爪が、管理室の中央で衝突した。
音ではなく、圧力が来た。
空気の壁が膨らみ、俺たちへ叩きつけられる。
「三天結盾!」
織姫の声。
薄い橙色の盾が展開し、衝撃波を受け止めた。
盾の表面が大きく撓む。
ライザが小瓶を床へ投げつけた。
「伏せて!」
瓶が割れ、透明な膜が盾の内側へ広がる。
二重の防御を抜けた風が、髪と服を激しく揺らした。
「力だけなら、互角じゃない」
バーゲストが大剣を床へ突き立てる。
「押されているのはデルタです」
中心では、爪を組み合わせた二体が力比べをしていた。
デルタの足元へ亀裂が走る。
一歩。
押し戻される。
「ぐっ……!」
デモンタイプ・デルタは声を上げない。
呼吸もしない。
ただ、演算どおりに力を加え続ける。
『筋力出力、人工個体が十二パーセント上回っています』
「うるさいです!」
デルタが頭突きを放った。
額と黒い面がぶつかる。
人工獣の首が後ろへ傾く。
デルタは組み合った爪を外し、腹部へ蹴りを叩き込もうとした。
その脚が上がるより早く、人工獣の膝がデルタの腹へ入った。
「かっ……!」
デルタの身体がくの字に折れる。
動きを読まれた。
人工獣はそのままデルタの腕を掴み、床へ投げ落とす。
管理室全体が揺れた。
黒い床材が砕け、デルタの身体を中心に蜘蛛の巣状の亀裂が広がる。
「デルタ!」
飛び出しかけた足を、バーゲストの腕が止めた。
「今、近づけば巻き込まれます」
「だが!」
「彼女はまだ動いています」
床の窪みで、デルタの爪が動いた。
人工獣の足首を掴む。
「捕まえたです!」
引き倒す。
巨体が傾く。
デルタは回転しながら立ち上がり、黒紫の爪を人工獣の胸へ叩き込んだ。
外殻が裂ける。
黒い液体が噴き出した。
「入った!」
エリスが声を上げる。
しかし、デルタは追撃しなかった。
「……何です?」
裂けた胸の内部。
そこに肉も、骨もなかった。
紫色の光を放つ核と、そこから伸びる細い管。
管は床へ潜り、管理室の奥へ繋がっている。
『損傷率、七パーセント』
黒い液体が傷口へ戻る。
裂けた外殻が閉じていく。
「治ったです?」
「再生してる」
ライザが端末へ指を走らせる。
「自分の力じゃない。管理室から魔力を送られてる!」
「ならば、供給源を断てばいい」
壌竜が床へ掌を置く。
すぐ、眉間へ深い皺が刻まれた。
「流れが多すぎる」
「特定できない?」
「同じ力が、壁にも床にも満ちている。大河の中から一滴を探すに等しい」
人工獣がデルタの腕を掴んだ。
今度は投げない。
裂かれた胸をそのままデルタへ押しつける。
紫の核が光る。
「離れろ!」
爆発。
黒紫の魔力が至近距離で弾けた。
デルタが吹き飛ぶ。
床を転がり、俺たちの防御壁の直前で止まった。
「デルタ!」
俺が駆け寄る。
彼女は四つん這いになり、血を吐いた。
魔神の外殻が明滅している。
決勝戦で壊れた箇所を、無理やり魔力で覆い直しているだけだ。
「もういい」
肩へ手を伸ばす。
「交代だ」
デルタが俺の手を払った。
強くはない。
けれど、拒否するには十分な動きだった。
「まだです」
「相手は壊しても治る」
「なら、治らなくなるまで壊すです」
「お前の身体の方が先に壊れる!」
声が管理室へ響いた。
デルタの耳が横へ倒れる。
俺の手も止まった。
まただ。
守るつもりで、言葉を押しつけている。
前のマスターがライザへしたように。
勝てという命令と、戦うなという命令。
方向が違うだけで、相手の意思を置き去りにすれば同じになる。
「……どうしても戦うのか」
「戦うです」
「命令だからじゃないな?」
「仮ボス、命令してないです」
「そうだな」
デルタが立ち上がる。
足が僅かに揺れた。
織姫が手を伸ばす。
デルタは一瞬だけその手を見ると、今度は振り払わなかった。
肩を借り、身体を起こす。
「ありがとうです」
織姫が目を丸くする。
「う、うん」
「もう大丈夫です」
「大丈夫じゃないけど……立てるなら、離すね」
織姫がゆっくり手を離す。
デルタは自分の足で立った。
「これはデルタが倒すです」
同じ言葉。
けれど、さっきより声が静かだった。
「偽物に、デルタの強さを取られたくないです」
「分かった」
俺はスマホを構える。
「ただし、帰ることを忘れるな」
「忘れてないです」
デルタの尻尾が一度、俺の脚を叩く。
「お肉もです」
「それも忘れてない」
「いっぱいです」
「分かったから行け!」
「はいです!」
黒紫の魔力が再びデルタを包む。
傷口から立ち上る光が、爪と外殻を形作った。
人工獣も腰を落とす。
二体が同時に走る。
同じ姿。
同じ踏み込み。
同じ爪の角度。
右からの一撃。
互いに避ける。
左足による薙ぎ払い。
同時に跳ぶ。
空中で身体を捻り、爪を振り下ろす。
爪同士がぶつかり、火花が散る。
「全部、同じです」
バーゲストが目を細める。
「いいえ」
ムジナが言う。
「向こうが少し早い」
その言葉どおりだった。
デルタが動く直前に、人工獣は次の場所へ爪を置いている。
右へ避ければ、右にいる。
飛べば、着地点にいる。
低く潜れば、膝が待っている。
「過去の記録です」
ライザが画面を指差す。
人工獣の周囲へ、無数の映像が浮かんでいる。
デルタの戦闘。
突進。
回避。
爪を振るう癖。
敵が強いほど正面から行く性格まで、行動予測へ組み込まれている。
『予測精度、九十一パーセント』
「デルタは数じゃないです!」
デルタが叫び、右爪を振るう。
人工獣は左へ避けた。
デルタの次の蹴りが来る場所へ、先に腕を置く。
脚を掴む。
そのまま振り回し、壁へ叩きつける。
モニターが砕けた。
青白い破片が雨のように降る。
『過去の戦闘傾向と一致』
人工獣が追う。
壁へ埋まったデルタへ爪を突き出す。
デルタは身を沈めて避けた。
黒い爪が壁を貫く。
その腕へデルタが噛みついた。
牙が外殻を砕く。
人工獣は抵抗しない。
噛みつかれた腕を切り離し、残った左腕でデルタの顔を殴った。
「っ……!」
デルタがよろめく。
切り離された右腕は、床から伸びた黒い液体を吸い上げ、すぐに再形成されていく。
「痛くないから、捨てられる」
織姫が口元へ手を当てる。
「身体を、道具みたいに」
『人工個体に痛覚は不要です』
「だから空っぽなんです」
織姫は画面を睨んだ。
「痛くないことと、強いことは違います」
『戦闘継続能力は人工個体が上回っています』
「そういう意味じゃありません!」
管理人は答えない。
人工獣が両爪を広げる。
黒紫の魔力が、三本の巨大な軌跡へ集束した。
「嘘でしょ」
ライザの指が止まる。
「自然の掟まで……」
『戦闘記録から再構築しました』
「デルタ、来るぞ!」
人工獣が踏み込む。
一撃目。
デルタの右爪が砕ける。
二撃目。
胸部の外殻が引き裂かれる。
三撃目。
デルタの身体が床へ叩き伏せられた。
衝撃で管理室の灯りが落ちる。
暗闇の中、紫の光だけが二つ浮かんでいた。
一つは立っている。
一つは倒れている。
『模倣・自然の掟。正常に機能』
人工獣が、倒れたデルタの頭上へ爪を振り上げる。
『勝率、九十七・四パーセント』
数字が、赤い画面に大きく表示された。
デルタの爪が床を掻く。
立ち上がれない。
それでも、人工獣から目を逸らさない。
「デルタ」
俺は透明な隔壁へ掌を置いた。
いつの間にか、俺たちと戦場の間に壁が立っている。
管理人が観測のために分けたのだろう。
「聞こえるか」
「聞こえるです」
声は小さい。
「お前は、何のために最強になる?」
人工獣の爪が振り下ろされた。