「仮ボスと、みんなと帰るためです!」
デルタの声が響いた。
振り下ろされた爪が、床を砕く。
デルタはそこにいない。
『予測不能』
管理人の声が、初めて僅かに揺れた。
人工獣の背後。
デルタは片膝をついていた。
いつ移動したのか、俺にも見えなかった。
「ライザ」
俺は隣を見る。
「何をした?」
「私じゃない」
ライザも目を見開いている。
デルタの足元には、小さな橙色の光が残っていた。
織姫の盾に似ている。
「私の力?」
織姫が自分の手を見る。
「でも、何もしてないよ」
「力を使ったわけじゃない」
ムジナが起き上がる。
「守られた時の動きを覚えてたんじゃない?」
デルタは決勝戦で、織姫の盾に守られた。
盾が生まれる位置。
展開される瞬間。
守る側へ身体を預ければ、一歩遅らせられることを知った。
今の足運びは、その記憶を自分の魔力でなぞったのだ。
『既存記録に類似行動なし』
「当たり前です」
デルタが立ち上がる。
崩れた黒紫の外殻へ、細い光の紋様が浮かんでいた。
大地の亀裂。
錬金術の回路。
盾の六花。
剣の軌跡。
すべて一瞬で消える。
能力を奪ったわけではない。
同じ姿になったわけでもない。
共に戦った時間が、デルタの身体の中で別の動きへ変わっている。
『契約体間の能力伝播を検知できません』
「違う」
ライザが呟く。
「能力じゃない。経験だよ」
人工獣が振り向く。
右爪による突進。
デルタは正面から迎えない。
半歩だけ退く。
バーゲストが攻撃を受け流す時のように。
爪先を外側へ弾き、人工獣の身体を横へ流す。
続く左爪。
今度は身体を反らし、髪一本分だけ避ける。
ムジナが面倒そうに攻撃をかわす、あの最小限の動きに似ていた。
『予測精度、七十二パーセント』
数字が下がる。
人工獣が速度を上げる。
デルタは壁へ走った。
直線突進。
人工獣が先回りする。
その直前、デルタは壁を蹴らなかった。
壁の手前で床へ爪を立て、方向を九十度変える。
壌竜が地の流れを読むように、床の亀裂を足場へ変える。
「こっちです!」
人工獣の側面へ回る。
爪を振るう。
人工獣は記録どおり、後ろへ跳ぶ。
そこへ小瓶が転がった。
いや、小瓶ではない。
デルタが魔力で作った紫の塊だ。
人工獣の足元で破裂し、粘着質な光が脚へ絡みつく。
「ライザの真似です?」
デルタが笑う。
「調合はできないから、真似だけです!」
「雑すぎるけど、効いてる!」
ライザの声が弾む。
人工獣の動きが止まる。
デルタが懐へ飛び込む。
胸部の核へ爪を伸ばす。
人工獣は自分の左腕を犠牲にして受け止めた。
腕が裂ける。
すぐに再生が始まる。
『損傷は許容範囲』
「まだ治るです」
デルタは追撃しない。
一歩退く。
人工獣が腕を再生させる間、その流れをじっと見る。
以前のデルタなら、治る前に何度でも殴っていた。
今は待っている。
バーゲストのように。
壌竜のように。
相手の力がどこから来ているのかを見ている。
「仮ボス」
「何だ?」
「胸の光、床から来てるです」
「ああ」
「床を壊せばいいです?」
「全部壊したら、俺たちも落ちる」
「面倒です」
「ムジナみたいなこと言うな」
「じゃあ、必要なところだけ壊すです」
ライザが顔を上げた。
「今の、私の言葉!」
「借りるです!」
「返してよ!」
「勝ったら返すです!」
人工獣が咆哮する。
空っぽの声が、さっきより大きくなる。
『戦闘出力を上昇』
黒紫の外殻が膨張する。
爪が伸び、脚部が太くなる。
数値が画面を埋め尽くした。
筋力。
速度。
再生。
どれもデルタを上回る。
『勝率、再計算』
数字が一度消える。
九十。
八十。
七十。
表示が揺れる。
『算出不能』
「どうしてです?」
管理人の声が低くなる。
『人工個体は全項目で優位です。なぜ、勝率が確定しない』
「分かってないです」
デルタが姿勢を低くする。
「最強は数字じゃないです」
『精神論に戦闘結果を変える力はありません』
「あるです」
デルタの尻尾が立つ。
「仮ボスが叫ぶと、デルタは強くなるです」
『契約共鳴は記録済みです』
「織姫が守ると、もっと動けるです」
『防御支援は解析済み』
「ライザが変なもの作ると、面白いです」
「変なものじゃない!」
『錬金術による環境変化も――』
「エリスはうるさいです」
「はあ!?」
「でも、立てって言うです」
エリスの口が閉じる。
「バーゲストは待つのが上手です。壌竜は地面を見るです。ムジナは面倒でも助けるです。ルプスレギナは笑ってても敵を見てるです」
ルプスレギナの目が僅かに細くなる。
「それで」
デルタは牙を見せた。
「みんな、毎回違うです」
管理室から機械音が消えた。
管理人は答えない。
「昨日と今日で違うです。怪我したら違うです。お腹が空いても違うです。だから、同じにならないです」
『……』
「偽物は、ずっと同じです」
人工獣が地面を蹴った。
姿が紫の線になる。
最速。
最大出力。
過去のデルタが最も多く選んだ、真正面からの突撃。
デルタは動かない。
「デルタ!」
俺は隔壁へ手を置く。
「行けとは言わない」
紫の瞳がこちらを向く。
「一緒に帰るぞ」
デルタの口元が上がった。
「はいです!」
人工獣の爪が届く。
デルタは正面へ一歩出た。
避けない。
受け止めない。
人工獣の腕へ自分の腕を絡める。
力比べでは勝てない。
だから、力の向きを変える。
バーゲストの受け流し。
足元へ魔力を流す。
壌竜の地脈。
人工獣の身体が僅かに浮く。
そこへ橙色の小さな盾を作り、足場にする。
織姫の守り。
盾を蹴る。
軌道が変わる。
人工獣の予測線から、デルタが消えた。
『記録に存在しない行動』
「今、作ったです!」
人工獣の背後へ回る。
右爪を振るう。
一撃目。
人工獣の巨大な爪が根元から砕けた。
「自然の掟!」
人工獣が再生を始める。
床から伸びる管へ、黒紫の液体が流れる。
デルタの左爪が胸部を切り裂く。
二撃目。
人工再生核が露出する。
『再生出力、最大』
核が強く輝く。
黒紫の液体が傷口へ集まる。
デルタは核を狙わない。
人工獣の背中から床へ伸びる、最も太い光の管へ爪を突き立てた。
三撃目。
「本物です!」
光の管が切断される。
人工獣の身体が止まった。
再生しかけていた右腕が、途中で崩れる。
胸部の核が明滅する。
『供給経路、断絶』
デルタはその核へ拳を当てた。
「これは、お前の心じゃないです」
人工獣は動かない。
「だから、壊すです」
拳を押し込む。
核へ亀裂が走る。
光が一度、強く膨らんだ。
人工獣の腕が持ち上がる。
デルタの顔へ伸びる。
攻撃なのか。
助けを求めたのか。
顔がないから分からない。
デルタは避けなかった。
伸びてきた手を、自分の手で掴んだ。
「次は、お腹が空くように生まれるです」
核が砕けた。
人工獣の身体が、黒紫の粒子へ変わる。
掴んでいた手も、指先から崩れていく。
デルタは最後まで離さなかった。
粒子がすべて消えた後、空になった手を一度握る。
それから、こちらを振り返った。
「勝ったです」
隔壁が消える。
俺は走った。
デルタが一歩踏み出す。
膝が崩れる。
倒れる前に抱き止めた。
「重いです?」
「重い」
「失礼です」
「生きてる重さだ」
デルタの耳が動く。
俺の胸元へ顔を寄せ、目を閉じた。
「お腹すいたです」
「知ってる」
「お肉です」
「帰ったらな」
「いっぱいです」
「分かった」
管理室の画面が、一つずつ赤から白へ変わっていく。
『人工進化再現試験――失敗』
管理人の声が響く。
さっきまでの確信はない。
淡々とした報告の形を保ちながら、言葉と言葉の間が僅かに長くなっている。
『能力、出力、肉体構造、契約共鳴率。全てを再現した』
「一番大事なものが抜けてた」
俺はデルタを支えたまま空席を見る。
『力を選択する理由』
「違う」
『では、何ですか』
「関係だ」
『関係性も記録しました』
「記録できると思ってる時点で違う」
スマホを掲げる。
「関係は固定されたデータじゃない。今も変わる」
ライザが俺の横へ立つ。
「見たでしょ。デルタは戦ってる間にも、今までしなかったことをした」
織姫も隣へ来る。
「守られたことを覚えてくれてた」
エリスが剣を肩へ戻す。
「私のことをうるさいって言ったのは余計だけど」
「事実です」
「元気になったら殴るわよ」
「勝負です!」
「休め!」
バーゲストが小さく息を吐く。
口元が僅かに緩んでいた。
『観測後も変化する』
管理人が呟く。
『固定した瞬間、過去になる』
「ようやく少し分かったみたいですねぇ」
ルプスレギナが笑う。
「遅すぎますけど」
『では、再現は不可能だと?』
「知らない」
俺は答えた。
「できるのかもしれない。いつか、誰かが別の方法で」
中央の空席へ歩く。
「でも、お前のやり方では無理だ」
『命懸けの戦いがなければ、魔神デルタは生まれなかった』
「そうかもしれない」
否定はしない。
あの瞬間。
俺が死にたくないと叫び、デルタが応えたこと。
それ自体をなかったことにはできない。
「でも、それはお前が正しかった証明じゃない」
空席の背後。
床が開き、巨大な黒い核がせり上がってくる。
無数の細い光の管が、壁の画面や俺たちのスマホへ繋がっていた。
「命を崖から落として、飛んだ奴がいた」
核の表面へ、消えたマスターたちの名前が流れている。
「だからって、次も誰かを落としていい理由にはならない」
『MEDESを停止すれば、契約維持機能も失われます』
管理人の警告。
ライザが核へ駆け寄り、器具を押し当てた。
「全部じゃない!」
「分かるのか?」
「契約を作った部分と、契約を管理してる部分が別になってる」
紙を広げ、光の流れを目で追う。
「管理部分を切れば、今ある契約は残る。少なくとも、すぐには消えない」
「その後は?」
「分からない」
ライザは俺を見る。
「でも、調べる時間は作れる」
以前なら、分からないという言葉の後に、俺の命令を待っていたかもしれない。
今は違う。
自分の手で器具を核へ突き刺している。
「出口を開ける」
「ああ」
「壊さずに?」
核から警告音が響く。
壁へ亀裂が走る。
白い画面が黒へ変わり始めた。
「必要なところだけ壊せ」
「了解!」
壌竜が床へ両手をつく。
「流れを止める」
存在しないはずの地が、管理室の下で唸った。
光の管が持ち上がり、核との接続が露出する。
バーゲストとエリスが左右へ回る。
「どれを斬る?」
エリスが訊く。
「赤くなった三本!」
ライザの指示。
剣が振るわれる。
二本が同時に切断された。
残る一本へ、ルプスレギナの爪が食い込む。
「こういう細かい作業、得意なんですよぉ」
笑いながら引き裂く。
核が大きく脈打った。
管理人の声が乱れる。
『停止処理を確認。契約体の維持を保証できません』
「保証なんて最初からなかっただろ」
俺はスマホを核へ向ける。
契約一覧が表示される。
デルタ。
バーゲスト。
ムジナ。
壌竜。
ルプスレギナ。
エリス。
織姫。
ライザ。
一人ずつ名前が点灯している。
「みんな、自分で決めてくれ」
俺は全員を見る。
「MEDESとの接続を切る。何が起こるか分からない」
「切るです」
デルタが俺の腕の中で言う。
「早いな」
「帰ってお肉です」
バーゲストが剣を胸へ掲げる。
「既に答えは決まっています」
「ここまで来て、今さら残る理由ないでしょ」
エリスが鼻を鳴らす。
「面倒だから早く帰りたい」
ムジナが欠伸をする。
「地は、器の外にも続く」
壌竜が目を閉じる。
「帰ってから、続きを調べたい」
ライザが核から目を離さず言う。
織姫は小さく頷いた。
「今度は、誰も消えない道を探したいです」
ルプスレギナが肩を竦める。
「面白そうなので、賛成です」
「理由が一人だけ軽いな」
「大事なのは結論ですよぉ」
全員の名前が明るく光る。
画面に確認表示。
――DISCONNECT FROM MEDES ADMINISTRATION?
俺は指を置いた。
『停止後、私は皆様を観測できなくなります』
管理人の声。
「それでいい」
『進化の記録も失われる』
「デルタはここにいる」
『同じ奇跡を、二度と再現できない可能性があります』
「奇跡を量産しようとするな」
指へ力を込める。
「一度きりだから、大事なんだ」
承認。
画面が白く弾けた。
デルタが俺の手へ自分の手を重ねる。
「仮ボス」
「何だ?」
「ゲーム、終わりです?」
「ああ」
「デルタが勝ったからです?」
「みんなで勝ったからだ」
デルタの尻尾が弱々しく、それでも確かに揺れた。
巨大な核へ亀裂が走る。
一つ。
二つ。
無数に。
内側から白い光が溢れ出す。
壁の画面が順番に消えていく。
戦闘記録。
契約数値。
感情波形。
勝率。
名前。
人を数字へ変えていたものが、闇へ戻っていく。
『最後に、一つ』
管理人の声が途切れながら響く。
『私は、間違っていたのでしょうか』
誰もすぐには答えなかった。
管理室の奥で、現実世界へ続く白い扉が開く。
暖かい光が差し込み、青白かった仲間たちの顔へ色を戻していく。
「知らない」
俺は言った。
「お前が何を失って、こんなものを作ったのかも知らない」
核の亀裂が広がる。
「ただ、俺たちを戦わせたことは許さない」
『……』
「それでも答えが欲しいなら、自分で考えろ」
誰かを崖から落とさずに。
誰かの命を数字へ変えずに。
「それができるなら、お前にもまだ可能性はある」
管理人は答えなかった。
声がノイズへ変わる。
最後に、中央の空席が一度だけ白く照らされた。
そこへ誰かが座っていたような影が浮かぶ。
すぐに消えた。
スマホへ最後の文字が現れる。
――MEDES GAME:TERMINATED
核が崩れた。
音はなかった。
黒い粒子となり、光の中へ溶けていく。
「終わった……?」
織姫が呟く。
ライザがスマホを覗き込む。
「アプリが消えてる」
俺も画面を見る。
MEDESのアイコンはない。
契約一覧も。
戦闘履歴も。
消滅表示も。
どこにも残っていなかった。
「デルタ」
腕の中を見る。
「いるです」
狼耳が動く。
「バーゲスト」
「ここに」
「ムジナ」
「呼ばなくてもいるよ」
「全員いるな」
「点呼が雑です!」
エリスが怒鳴る。
その声を聞いた瞬間、胸の奥に張っていた糸が切れた。
膝が揺れる。
デルタを抱えたまま座り込みそうになり、バーゲストが背中を支えた。
「マスター」
「大丈夫だ」
「その言葉は、今は信用できません」
「織姫と同じこと言うな」
「正しい判断です」
白い扉の向こうから、朝の匂いがした。
冷えた空気。
街の音。
遠くを走る車。
俺たちが出てきた時と同じ日常が、何事もなかったように続いている。
「帰るぞ」
俺が言う。
デルタが目を閉じたまま、手を上げた。
「お肉です」
「分かってる」
「いっぱいです」
「分かってるって」
「みんなでです」
俺は仲間たちを見る。
誰も拒まなかった。
「みんなでだ」
白い扉へ歩き出す。
後ろでは管理室が光に呑まれていく。
もう振り返らなかった。
デルタの重みが腕にある。
隣を歩く足音がある。
それだけで、出口の向こう側が帰る場所になっていた。