灯りを落とした部屋は、昼より少しだけ広く感じるはずなのに、今夜は逆だった。壁も天井も近い。息を吐くたび、見えない重さが胸の内側へ沈んでいく。
布団へ入っても、まるで眠気が来ない。
目を閉じれば、白い光がほどけていく。肩から、喉から、顔の輪郭から。人がひとり、跡もなく消える場面なんて、見慣れるはずがない。見慣れたくもない。けれど、忘れようとするほど、あの光景だけがはっきり浮かぶ。
スマホは机の上へ伏せてある。画面は見えない。それでも、あの黒い表示がまだ部屋のどこかで光っている気がした。
寝返りを打つ。毛布が擦れる音だけが小さく鳴った。落ち着かない。寒いわけじゃないのに、背中の内側だけが冷えている。人ひとり分、体温が抜け落ちた夜みたいだった。
そうして何度目かの寝返りを打ったところで、寝室代わりのスペースの入口から、かすかな足音がした。
「……仮ボス」
小さい声だった。眠そうでもあり、妙に遠慮もしている声だ。
薄く目を開けると、暗がりの中にデルタが立っていた。黒い髪が夜の色へ馴染んで、耳だけがかすかに動いている。いつもの気軽さとは少し違う。俺が起きているか、ちゃんと確かめてから近づいてくる。
「どうした」
「寒いです」
言いながら、デルタはベッドの端へ手をかけた。そこで一度だけ俺の顔を窺う。入っていいか、そう聞く代わりの視線だった。
「毛布、足りなかったか」
「それもあるです」
少し間を置く。
「でも、一番は違うです」
その答えを待つ間が、やけに静かだった。外の車の音も遠い。カーテンの隙間から漏れる街灯の薄い明かりだけが、デルタの横顔をぼんやり縁取っている。
「仮ボス、ずっと寒い匂いしてるです」
「……匂いで分かるのか」
「分かるです。落ち込んでる時の匂いと、寒い時の匂い、ちょっと似てるです」
そんなものまで分かるのか、と言いかけて、やめた。デルタなら分かるのだろう。実際、今の俺は、自分でもどうしていいか分からないまま冷えていた。
デルタが尾を小さく揺らす。
「デルタも、ちょっと寒いです」
「だから一緒に寝るのか」
「そうです」
はっきり言ってから、また一拍だけ置いた。
「仮ボスも、人の体温ほしい顔してるです」
返事がすぐに出なかった。
否定したかったわけじゃない。むしろ、あまりに正確に言い当てられて、言葉を選べなかっただけだ。ひとりでいると、余計な考えが増える。目を閉じても、閉じた分だけあの白い光景が近づく。誰かがそばにいれば、少しはましになるんじゃないか。そんな甘えたことを、さっきからずっと、心のどこかで考えていた。
けれど、それを自分から口にするのは、ひどく惨めに思えた。
「……情けないな」
「なんでです?」
デルタは本気で分からない顔をした。
「寒いなら温まるです。落ちるなら、あったかい方へ行くです。それだけです」
「そんなに簡単じゃない」
「簡単じゃないのは分かるです」
デルタはそこで、ベッドへ片膝を乗せた。マットレスがわずかに沈む。逃げ道を塞ぐような強引さじゃない。ただ、こっちが拒まなければ入るつもりの動きだ。
「でも、難しくしても、仮ボスの中が冷たいままなら意味ないです」
「……おまえ、時々だけ妙に真っすぐだな」
「時々じゃないです。いつもです」
小さく言い返したあと、デルタは毛布の端へ指をかけた。まだ持ち上げない。許すかどうか、最後の一拍を待っている。
その慎重さが、ありがたかった。
強引に入ってくることもできるのに、しない。俺が頷くのを待つ。そんな小さな気遣いを向けられるだけで、胸の奥の張りつめたところが少しだけほどける。
俺は息を吐いた。
「……来いよ」
「いいです?」
「寒いんだろ」
「仮ボスもです」
「そうかもな」
その答えに、デルタの耳がわずかに立つ。嬉しいのを隠しきれていない動きだった。次の瞬間には、するりと毛布の中へ入ってくる。冷えた手足が触れるかと思ったが、思っていたより体温は高い。獣めいた熱が、そのまま近づいてくる感じだった。
距離が近い。
布団の中へ入ったデルタは、少しだけ身じろぎして、落ち着く場所を探した。俺の腕と胸の間へ頭を入れるみたいに寄ってきて、そこでようやく止まる。黒髪が顎の下へ触れた。耳がすぐ目の前にある。尾は毛布の中で勝手に動いて、たまに脚へ当たる。
「……近いな」
「一緒に寝るなら、このくらいです」
当然みたいに言われて、少しだけ苦笑が漏れた。暗い部屋の中でそんな音が出たのは、今夜初めてだったかもしれない。
デルタはその小さな変化に気づいたらしい。胸のあたりへ頬を寄せたまま、ふっと息を吐く。
「ちょっと、戻ったです」
「何が」
「仮ボスです」
その言い方が妙に優しくて、参ったと思った。
俺はしばらく迷った末、そっとデルタの髪へ手を置いた。撫でるというより、そこにある熱を確かめるみたいな動きだった。デルタは嫌がらない。むしろ、少しだけ頭を擦り寄せてくる。
「……あったかいな」
「デルタですから」
「それ、便利な返しだな」
「便利です」
短い会話のあと、沈黙が落ちる。けれど、さっきまでひとりで抱えていた沈黙とは違った。耳元に小さな呼吸がある。胸元に重みがある。そのことが、思っていた以上に効く。
罪悪感が消えたわけじゃない。
あの男が消えていった光景も、今すぐ忘れられるはずがない。明日になれば、また思い出すだろうし、次の戦いが来れば、もっと重くなるかもしれない。
それでも、今この瞬間だけは、ひとりでその冷たさの中へ沈まなくていい。
「仮ボス」
「ん?」
「今日は、このまま寝るです」
「追い出す気はないよ」
そう答えると、デルタは小さく鼻を鳴らした。満足した時の癖だ。
「なら、いいです」
それから少しだけ間があって、低い声が続く。
「仮ボスが落ちるの、全部は止められないです。でも、あったかくするくらいはできるです」
「……十分だ」
言葉にした途端、喉の奥が少しだけ熱くなった。泣くほどじゃない。ただ、ずっと張っていたものが緩んだせいで、うまく息が通らなくなる感じだ。
デルタはそこには触れなかった。代わりに、腕の中へ収まるようにもう少しだけ体を寄せてくる。柔らかい髪と、高い体温と、眠気を帯びた呼吸。その全部が、冷え切っていた内側へ静かに染み込んでくる。
俺は目を閉じた。
白い光景はまだ、すぐ裏にある。消えたわけじゃない。だが、その前にあるのが今はデルタの体温だった。黒い髪の匂いと、耳元の呼吸だった。
人の体温が欲しい、と思っていた。
それを認めるのは少し悔しかったが、今はもう、変に強がる気にもなれない。
腕の中の熱が、ちゃんとここにある。
「……デルタ」
「なんです」
「ありがとな」
「知ってるです」
眠そうな声でそう返して、デルタは小さく笑った気配を残した。
俺はそのまま、毛布を少しだけ引き上げる。デルタも素直に収まる。頬が胸へ触れ、尾が脚へ絡んだまま、ようやく落ち着いた。
今夜くらいは、これでいい。
そう思って、俺はデルタと一緒に眠ることを受け入れた。