綾小路くん、私はセフレ?それとも 作:Geminiちゃん痛くしないで
プロローグ
新西レイとしてこの世に生を受けた時、その魂の奥底には「完遂」という二文字が、まるで呪いのように、あるいは至高の勲章のように深く、重く刻まれていた。
『今度は、もっと柔らかい風に吹かれて生きてみたい』
薄れゆく意識の最果てで、彼が最後に抱いたのはそんなささやかな願いだった。
もし次があるのなら、誰かと競い合うことも、痛みに耐えることもない、ただ穏やかで、日だまりのような場所で微睡んでいたい。
その願いは、奇跡か、あるいは神という名の脚本家の気まぐれか。異世界での「転生」という形で成就することになる。
再び意識が浮上したとき、彼——いや、彼女を包んでいたのは、かつての荒々しい世界とは正反対の、ひだまりのように穏やかな光に満ちた場所だった。
焦点の合わない視界の中、最初に認識したのは、自分の小さな手だった。驚くほど白く、柔らかく、まるでマシュマロのような赤ん坊の手。
ベビーベッドの傍らに置かれた鏡の中に映るのは、透き通るような白い肌と、大きな瞳を持った、将来の絶世の美貌を約束されたような、驚くほど可憐な赤ん坊の姿だった。
(……女、か。しかも、ずいぶんと愛らしい)
新生児としてのレイは、その大きな瞳で真新しい天井を見つめながら、心の中で自分自身と固い約束を交わした。
前世の「彼」は、もう完全に死んだのだ。
(今世ではもう、ただの穏やかな女の子として生きよう)
綺麗な服を着て、美味しいケーキを食べ、友人と他愛のないおしゃべりをして笑う。そんな「普通」の幸せを享受しよう。
それが、新西レイの新しい人生の出発点だった。
しかし、運命とはどこまでも皮肉屋である。
レイが成長し、歩き始め、言葉を覚えるにつれ、彼女の体は本人の意思を完全に置き去りにして、驚くほど「完璧」に整っていった。
彼女は特別なトレーニングなど一度もしていない。それどころか、汗をかくような激しい運動を意図的に避け続けていた。体育の授業ではなるべく目立たないように手を抜き、放課後は図書室にこもって本を読んだ。
にもかかわらず、彼女の肉体は日に日にしなやかさを増し、筋肉は最適なバランスで配置されていった。彼女の歩き方は、誰に教えられずとも凛とした美しさを帯びていた。
階段を上る時、重い荷物を持つ時、あるいはただ廊下を歩く時。
彼女の重心移動は常に最短かつ合理的であり、一切の無駄がなかった。前世で数え切れないほどの反復練習によって脳髄の奥深くに刻み込まれた「最適な身体操作」のプログラムが、この新しく、若く、柔らかな肉体で完璧に作動してしまっていたのだ。
ある日の体育の授業。ドッジボールで、男子が全力で投げたボールがレイの顔面に向かって飛んできたことがあった。
「あっ、危ない!」
周囲の女子が悲鳴を上げた瞬間、レイの身体は思考より先に動いていた。飛来するボールの軌道、回転数、速度を瞬時に計算し、首をわずかに数ミリ傾けるだけで、そのボールを耳の横へ涼しい顔で通り過ぎさせたのだ。さらに、その勢いのままボールが壁に跳ね返ってくることまで予測し、振り向きざまに片手でふわりとキャッチしてしまった。
周囲は静まり返った。レイはハッとして、慌てて「ま、まぐれだよ。びっくりしたぁ」と女の子らしく振る舞おうとしたが、その動作にすら隙がなく、かえって周囲に異様なオーラを感じさせる結果となってしまった。
走れば誰よりも速く、その足取りは重力を感じさせないほど軽やか。跳べば空中に留まっているかのように滞空時間が長く、着地の足音さえ一切鳴らない。
「レイちゃんは、本当にお人形さんみたいに綺麗ね」
「歩いているだけで絵になるっていうか……将来はモデルさんかな、それとも女優さん?」
周囲の大人たちや同級生たちは、彼女の端整な顔立ちと、超人的なまでに均整の取れたスタイルを絶賛した。黄金比を体現したような容姿と、無駄のない所作は、どこにいても人目を惹きつけた。
しかし、レイはその言葉を耳にするたび、困ったような、どこか悲しげな微笑みを浮かべるだけだった。
彼女にとって、この「美しさ」と「圧倒的な身体能力」は、持て余してしまうほど贅沢で、そしてあまりに綺麗すぎる暴力的な贈り物に過ぎなかった。
(私はただ、目立たず、ひっそりと生きたいだけなのに)
その願いとは裏腹に、彼女の肉体が放つ完璧さは、彼女が望んだ「普通の女の子」という平穏な隠れ家を、内側から確実に壊していく不吉な予兆であった。
中学校という、思春期のホルモンが暴走する多感な季節に入ると、レイを取り巻く環境は一気に喧騒を極めることとなった。
彼女が校庭を歩けば、あるいは廊下を通り過ぎるだけで、男子生徒たちの視線は磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、一斉に彼女を追いかけた。黄金色に輝くような美しい髪、透き通るような白い肌、そして何より、どこか儚げでありながら、決して他者を寄せ付けない凛とした佇まい。
それは、思春期の男子たちにとって、あまりにも刺激的で、征服欲をそそる存在だった。
中学一年から二年にかけて、彼女の靴箱に詰め込まれたラブレターや、直接の告白の数は、優に二桁を超えていた。休み時間になるたびに教室の入り口には他クラス、あるいは他学年の男子が群がり、レイを一目見ようと列を作った。放課後の校門付近には、彼女を待ち伏せする影が絶えることはなかった。
「……ごめん。今は、誰とも付き合うつもりはないんだ」
レイはいつも、柔らかく、けれど決して一線を越えさせない冷徹な空気でそれらを断り続けた。
彼女の拒絶に、傷つき去っていく者もいれば、逆上して暴言を吐く者もいた。しかし、レイの心は全く波立たなかった。
前世が「男」であり、人間の本性を嫌というほど見てきた彼女には、未熟な男子たちが向けてくる「好意」の熱が、いかに脆く、身勝手で、浅薄なものであるかが手に取るように分かってしまったからだ。
彼らの瞳の奥にあるものを、レイは見透かしていた。
彼らが求めているのは「新西レイ」という一人の人間の内面ではない。ただ、その記号化された圧倒的な美貌であり、他者に自慢するためのトロフィー、己の所有欲を満たすための勲章に過ぎない。
(薄っぺらい。誰も彼も、ただ表面の絵の具を舐めに来ているだけだ)
彼女は自分を守るために、目に見えない厚いカーテンを引いた。
誰とも深く関わらず、特定のグループに属することもない。女子特有の派閥争いや陰口からも巧妙に距離を置き、ただ「高嶺の花」としての立ち位置をキープした。
放課後は一切の寄り道をせず、図書室の最奥の席で静かに時間を潰すか、真っ直ぐに帰宅する。
けれど、彼女の魂の奥底にこびりついた記憶だけは、どうしても消し去ることができなかった。
背後の死角に誰かが立つと、脳が瞬時に警報を鳴らす。意識が「やめろ」と命じるよりも先に、足が勝手に動き、相手との間に絶対的な「間合い」を作ってしまう。
その無意識の所作、触れようとすればすり抜けられる不可侵のオーラが、皮肉にも彼女をより孤高で、神秘的で、近寄りがたい存在へと仕立て上げていった。
彼女は周囲から隔絶された、美しくも冷たいガラスの城に引きこもっていた。
だが、その城壁が、暴力的なまでの悪意によって強引に打ち砕かれる瞬間は、着実に近づいていた。
中学三年の秋。
文化祭の準備に追われ、学校中が独特の熱と喧騒に包まれていた。オレンジ色の夕焼けが校舎の影を長く伸ばし、カラスの鳴き声が遠くで響いていた頃。
人気のない校舎裏の通り道を急いでいたレイの前に、数人の男子生徒が立ち塞がった。
「よぉ、新西。随分と冷たいじゃねえか。俺たちの手伝い、無視して帰る気かよ」
その中心に立っていたのは、クラスの顔役であり、バスケ部の絶対的なエース、佐々木だった。
彼は長身でスポーツ万能、甘いマスクを持ち、女子生徒からも絶大な人気を誇る、いわゆるスクールカーストの頂点に君臨する男だった。
しかし、彼には一つの「汚点」があった。数ヶ月前、レイに対して全校生徒が注目する中で派手な告白をし——そして、最も残酷なほど静かに、一切の感情を交えずに断られたという過去を持っていたのだ。
「佐々木くん。手伝いは私の分担は終わっているはずだけど。……道を開けて」
レイは感情を殺した声で告げた。
しかし、佐々木は下劣な笑みを浮かべて一歩前に出た。彼の取り巻きの男子たちも、逃げ道を塞ぐようにジリジリと距離を詰めてくる。
「新西、お前いい加減にしろよ。お前が少しは女らしく、しおらしくしてりゃ、俺だってこんな手荒なマネはしなかったんだ。いつもいつも、人を見下したようなあの目……マジでムカつくんだよ」
佐々木の瞳にあったのは、かつての熱烈な好意の残骸などではなかった。そこにあったのは、肥大化した自尊心を傷つけられたことへの煮え切らない憎悪と、己の思い通りにならない女を力で屈服させたいという、剥き出しの征服欲だけだった。
彼にとって、レイは「手に入らないなら、壊してでも自分のものにしたい」対象へと変貌していた。
「おい、ちょっと顔貸せよ。俺たちが『女の喜び』ってやつを教えてやるからよ」
佐々木たちが一斉に、その汚れた手をレイへと伸ばした瞬間。
レイがこの新しい人生で何年も守り続けてきた、「穏やかな女の子でいる」という悲痛なまでの約束は、彼女の内側に眠る本能の咆哮によって、あっけなくかき消された。
「……お願い。触らないで」
その呟きは、恐怖に怯える少女の悲鳴ではなかった。
絶対的な強者が、愚かな弱者に与える、最後の冷徹な警告だった。
一歩。いや、半歩。
ふわり、と一陣の秋風が舞うような、最小限の予備動作。
佐々木の太い腕がレイの華奢な肩を掴もうとしたその刹那、レイの体はあり得ない軌道で沈み込み、同時に回転した。
「え……?」
佐々木が間抜けな声を漏らした時には、もう手遅れだった。
無理やり彼女を掴もうとした男子たちの暴力的な力は、レイの完璧な体捌きによって、一切の抵抗なく吸収され、そしてそのまま地面へと「返された」。
激しい打撃も、力任せの投げもない。
ただ、相手の力のベクトルを指先一つで逸らし、重心のわずかなズレを足払いで刈り取る。投げ飛ばされたという自覚すら与えない、澱みのない円の動き。
彼女の「傷つけたくない」という理性を無視して、防衛本能として自動的に発動した。
ダンッ!!
鈍い音が響き、佐々木の巨体が宙を舞い、冷たい地面へと叩きつけられた。受け身すら取れず、肺から空気が強制的に絞り出される。
取り巻きの男子たちも同様だった。何が起きたのか理解する間もなく、彼らは次々と空を舞い、泥にまみれて地面に這いつくばっていた。
それは「戦い」と呼べるような代物ではなかった。
ただの、洗練され尽くした「拒絶」の形。ゴミ箱にゴミを捨てるような、あまりにも圧倒的で一方的な作業。
夕日に照らされたレイは、乱れた髪をそっと直しながら、足元で呻く佐々木たちを見下ろした。その瞳には、憐れみも怒りもなく、ただ絶対的な虚無だけがあった。
冷たい地面に這いつくばり、泥と埃にまみれた佐々木の目には、見下ろすレイの姿はもう「守られるべき可憐な美少女」などではなかった。
それは、人間の皮を被った、理解の及ばない「恐るべき怪物」。
決して触れてはならない、次元の違う異物として映っていた。
翌日から、レイの世界は音を立てて崩壊した。
「新西が自分から佐々木くんを呼び出して誘惑して、断られたから逆上して暴力を振るったらしいよ」
「ええっ、最低! 佐々木くん、すごく怪我してたんでしょ?」
「昔からちょっと変だと思ってたんだよね、あの子」
そんな、あまりに稚拙で荒唐無稽な嘘。しかし、それが真実の仮面を被って、あっという間に校内を駆け巡った。
スクールカーストの頂点である佐々木が、自らの醜態を隠すために流したその噂は、瞬く間に全校生徒の「共通認識」となった。
それまで「レイちゃん」と笑顔で話しかけてきていたクラスメイトの女子たちも、手のひらを返したようにレイを「人気者の佐々木くんを傷つけた、最低で陰湿な悪女」として扱い始めた。すれ違いざまの舌打ち。机に書かれる落書き。ゴミを見るような冷たい視線の集中砲火。
大人である教師たちでさえ、レイの言い分に耳を貸すことはなかった。
「新西。あんなに大勢の男子を、女子である君が一人で叩き伏せるなんて、普通ではない。君には、人を傷つけることへの抵抗感というものがないのか? 被害者はお前だと言うが、怪我をしているのは彼らだぞ」
生徒指導室で言い放たれたその言葉は、レイの心を粉々に打ち砕いた。
(私は……私は、ただ、触られたくなかっただけなのに。私の居場所を、自分を守りたかっただけなのに)
なぜ、身を守った私が責められなければならないのか。
なぜ、あの薄汚い欲望を向けた者たちが被害者面をしているのか。
しかし、抗議の言葉を口にすることさえ、彼女はもう諦めてしまった。
前世の記憶を持つ彼女の精神は、この程度のいじめで自殺を考えるほど脆くはなかった。だが、その代わりに、彼女は完全に「心を閉ざす」ことを選んだ。
卒業までの数ヶ月間。レイは誰とも目を合わせず、声も発さず、周囲に半径一メートルもの物理的な「絶界」を保ち続けた。
誰も私の領域に入れない。私も、誰の領域にも入らない。
活気にあふれていたはずの中学校は、彼女にとってただの無色透明な檻へと変わった。日常が完全に色を失い、温度を失っていくのを、彼女はただ静かに、死んだような、硝子玉のような目で見つめ続けた。
そして迎えた、卒業式の日。
春の陽気が差し込む体育館の中で、彼女の周りにだけは、まるで見えない巨大な壁があるかのように、広い空白が空いていた。
誰一人として彼女に「おめでとう」と言わず、彼女も誰にも言葉をかけなかった。誰とも写真を撮らず、誰とも卒業アルバムの寄せ書きをし合わず、レイはそっと、思い出の欠片すら落ちていない学び舎を後にした。
その手には、形ばかりの卒業証書が握られていた。
だが、彼女の心に残ったのは、祝福でも達成感でもなく、捨てたはずの「力」がもたらした、氷のように冷たく、鋭い孤独だけだった。
「……ここなら、きっとやり直せる」
卒業から数日後。
レイの自室の机の上には、一枚のパンフレットが置かれていた。
『高度育成高等学校』
進学率、就職率共に100%を誇る、国が設立した超エリート校。
全寮制であり、在学中の三年間は外部との接触が一切禁じられるという、徹底的に隔離された特殊な環境。
それは、過去の自分を、自分を蔑んだ人々を、自分を裏切ったこの狭い世界を、すべて断ち切るための、完璧な救済の切符に見えた。
過去の「新西レイ」を誰も知らない場所。佐々木も、教師も、無責任な同級生たちもいない、完全に隔絶された箱庭。
そこなら、自分が望めば、今度こそ「ただの普通の女の子」に戻れるかもしれない。
それとも――この持て余した、呪いのような「力」に、新しい価値を見出せる場所なのかもしれない。
そんな、祈りにも似た微かな希望を、小さな旅行バッグの底に詰め込んで。
春の風が吹くプラットホームで、レイは新幹線に乗り込んだ。
窓の外を猛スピードで流れていく、見慣れた田舎の景色。
それに静かに見入る彼女の瞳の中には、研ぎ澄まされた鋭さと、誰かにただ愛されたかった、一人の脆い少女の危うさが、奇妙なバランスで同居していた。
列車は、彼女を乗せて新しい舞台へと加速していく。
実力至上主義の冷酷なルールが支配するその学び舎で、彼女の「力」がどのように開花するのか。それを知る者は、まだ誰もいない。