綾小路くん、私はセフレ?それとも 作:Geminiちゃん痛くしないで
R18シーンは②で、この回はR18シーンはありません
午後二時。
冬の気配を含んだ冷たい陽射しが、清隆の部屋のカーテンの隙間から差し込み、ベッドの上に倒れ伏している私の顔を容赦なく照らし出していた。
「……っ、いたぁ……」
身じろぎをした瞬間、全身の筋肉が悲鳴を上げた。
ただの筋肉痛ではない。関節の奥深くまで鉛を流し込まれたような重い疲労感と、筋肉が一本残らず細胞レベルで断裂してしまったかのような激痛。
特に下半身から腰にかけてのダメージは深刻で、ベッドから身を起こそうとするだけで、昨夜から今朝にかけて行われた『わからせ』の記憶がフラッシュバックし、足の先までビクンと震えてしまう。
(……信じられない。私、本当に朝まで……)
視線を落とすと、そこには凄惨な地獄の爪痕が広がっていた。
私と彼が昨晩から絡み合っていたベッドのシーツは、おもちゃによる強制的な絶頂で垂れ流した愛液、彼の執拗な正常位の連撃によって搾り出された私の涙と涎、そして、彼が何度も私の中へ解き放った濃密な白濁の跡で、文字通り『とんでもないこと』になっていた。
私が、一人の男の理不尽な暴力と快楽の前に完全に屈服し、自我を失って泣き叫んだ無様な証拠。
「……清隆が帰ってくる前に片付けなきゃ……」
私は痛む体を叱咤し、這うようにしてベッドから這い出した。
膝が笑い、まともに立つことすらできない。私は震える手で、色々な液体が染み込んで重くなったシーツを引っぺがし、ランドリーバッグへと押し込んだ。
クローゼットから替えのシーツを引っ張り出し、不器用な手つきでマットレスに被せていく。ただのベッドメイキングという日常的な動作でさえ、今の私にとってはフルマラソンを走るほどの苦行だった。
「はぁっ……はぁっ……」
何とかシーツの交換を終え、真新しい真っ白な布の上に再び身を投げ出した時、私は深い、深いため息を吐き出した。
清潔なシーツの匂いに包まれながら、私は天井をぼんやりと見つめ、昨夜の敗北、そして、自分の現状について、つらつらと考え始めた。
(……完全に、私が負けたわね)
十一月。
私は十月の『一勝』にすっかり浮かれ、自分がこの関係の主導権を握っていると勘違いしていた。
清隆を思いのままにコントロールし、私の体なしでは生きられないようにしてやる。そう本気で思っていた。
当初、私が掲げていた目標は何だったか。
夜のベッドで清隆を完膚なきまでに負かし、私から離れられない体にする。そして、最終的には彼を私の『恋人』として縛り付けること。
それが、私の描いていた青写真だった。
しかし、現実はどうだ。
離れられない体にされたのは、他でもない、この私自身だった。
昨夜、あれほど徹底的にプライドをへし折られ、意識が飛ぶほどの拷問のような快楽を与えられ、ゴミのように扱われたというのに。
私の心臓は、この痛む体を引きずりながらも、彼が再び帰ってきて私を抱きしめ、あの圧倒的な暴力で私を支配してくれることを、どこかで渇望してしまっている。
「……悔しい。本当に、悔しい……っ」
私は真新しいシーツをギュッと握りしめた。
体は完全に彼に支配された。彼の実力差と、逆らえないという恐怖は、消えない呪いのように私に刻み込まれてしまった。
しかし、私の心までもが、彼に隷属することをよしとしているわけではない。
「ただのセフレで終わるつもりはないわ。私が欲しいのは、あなたの『心』なんだから」
私は呟いた。
夜のベッドでの闘いは、もちろんこれからも続ける。私が与える快楽の質を高め、いつか必ず清隆を再びひざまずかせてみせる。
だが、今のまま力押しでベッドの勝負だけを挑み続けても、昨夜のように清隆の底知れない体力と冷徹な手腕にねじ伏せられるだけだ。
戦略を、根本から練り直す時期に来ている。
当初の目標――『綾小路清隆に、私のことを好きになってもらう(恋人になる)』という原点に立ち返り、彼をどう攻め落とすか。
痛む体を休ませながら、私の脳内は次なる盤面への戦略構築へと高速でシフトしていった。
まず、清隆をどう攻めるべきか。
夜の密室において、清隆は絶対的な君主であり、完全無欠だ。
どんなテクニックを用いようと、清隆はその超人的な処理能力と身体能力でいとも容易く対応し、カウンターを叩き込んでくる。夜の領域だけで清隆を陥落させるのは、もはや不可能に近いと悟るべきだ。
ならば、どうするか。
(……夜がダメなら、昼を攻めるしかない)
その時、私の脳裏にふと蘇ったのは、茹だるような暑さだった八月の終わりの日の記憶だった。
設備の故障で突発的な断水が起きた、あの夏の日。
『見ての通りだ。水筒を洗おうとしてスポンジと一緒に手を入れたら、抜けなくなった』
感情の一切抜け落ちた「凪」の表情のまま、ステンレス製の細長い水筒に右腕をすっぽりと食われ、床に座り込んでいた清隆の姿。
無人島でクラスを裏から操り、昨夜私を気絶するまで追い込んだあの清隆が、たかが水筒の口に手を挟まれて身動きが取れなくなっていたのだ。
「ふふっ……あははっ」
思い出すだけで、痛むお腹の筋肉がひきつるように笑ってしまう。
あれは、清隆という存在が垣間見せた、人間臭く、そして間抜けな隙だった。
そう、彼は完全無欠ではない。
夜のベッドや、特別試験においては恐ろしいほどの完璧さを誇るが、何気ない「日常」においては、驚くほど無頓着で、知識が欠如しており、時としてあのようなおかしな失敗を犯す。
昼間の時間、普通の高校生としての生活の中にこそ、清隆を揺さぶるためのアプローチの糸口が隠されているはずだ。
「ちょうどいいわね。……清隆、最近グループを作り始めたみたいだし」
十一月のペーパーシャッフル試験に向けた勉強会で、私が目撃した光景。
長谷部波瑠加、佐倉愛里、幸村輝彦、三宅明人たちと一緒にテーブルを囲み、清隆が談笑していたあのグループの存在。
これまでは、一人で行動している清隆を捕まえ、一対一で接触するしかなかった。
しかし、清隆がグループに属したということは、彼が「集団の中での自分の役割」を演じなければならないということだ。
一対一の勝負では鉄壁でも、グループという複雑な人間関係の網目の中であれば、清隆の行動には必ず何らかの変化や死角が生まれる。
「決まりね。私もあのグループに入れてもらおう」
どうやって入り込むかは、私の腕の見せ所だ。
学力や適度なコミュニケーション能力を偽装することは簡単だ。幸村の勉強の話題に食いつくか、長谷部の雑談に相槌を打つか。何らかの偶然を装って彼らの輪に入り込み、綾小路グループという内側から、清隆を観察するのだ。
昼間の清隆が友人たちにどんな顔を見せ、どんな会話をし、どんなことに興味を示すのかを知る。
清隆の日常を収集し、彼が本当に気を許せる相手としてのポジション――つまり「恋人」の座を、グループの人間関係の延長線上からじわじわと狙っていく。
昼と夜。
表と裏の両面から清隆を包囲し、私の存在を清隆の生活のすべてに浸透させていく。
それが、十二月以降の私の『昼の戦略』だ。
昼の戦略が固まったところで、次は本丸である『夜のベッドでの攻略』だ。
昨夜完敗したからといって、夜の闘いを諦めるつもりは毛頭ない。むしろ、昼のアプローチで清隆との距離を縮めつつ、夜のベッドで清隆を精神的に依存させる両輪が回ってこそ、私の勝利は確実なものとなる。
しかし、夜の攻め方をどう変えるか。
私はシーツの上で寝返りを打ちながら、これまでの清隆との情事を一つ一つ分析していった。
七月の飢餓の夜。無人島での野外プレイ。プールのシャワールーム。そして十月の私の「最終兵器」。
これまで、私は様々なシチュエーションや過激なプレイを自ら提案し、実行に移してきた。
清隆を挑発し、男としての本能を煽るアプローチは、一定の効果があった。現に十月は、物理的な快感のオーバードーズで清隆から降伏を引き出すことには成功したのだ。
だが、決定的な何かが欠けている。
私は、清隆の『性癖』や『本当の好み』を、実は何一つ分かっていないのではないか?
(思い返してみれば……清隆の方から「こうしてほしい」「こういうプレイがしたい」って要求してきたこと、一度もないわよね)
清隆は常に、私が仕掛けたシチュエーションに乗り、私が用意したルールの中で、ただ圧倒的なスペックで私を叩き潰しに来るだけだ。
清隆が勝負事において相手を蹂躙し、完膚なきまでにへし折ることに快感を覚える(あるいはそういう教育を受けてきた)サディスティックな一面があることは、昨夜の『わからせ』で骨の髄まで理解した。
だが、それはあくまで「勝負に対する姿勢」であって、純粋な「性的な好み」とは違うはずだ。
清隆は、本当はどんなシチュエーションで興奮するのか。
私がどんな服を着て、どんな言葉を囁き、どんな顔を見せた時に、清隆のあの凪いだ瞳の奥に「欲情」の炎が宿るのか。
それが分からない限り、私は永遠に清隆の本当の急所(心)を突くことはできない。
(……なら、答えは簡単じゃない)
私はニヤリと、唇の端を吊り上げた。
「次は、あなたに選ばせてあげるわ、清隆」
これまでは、私が全てを主導しようとして空回りし、結果的に清隆に力でねじ伏せられていた。
ならば、今度は私が一歩引き、清隆にプレイのシチュエーションや内容を『提案』させるのだ。
「今日は清隆の好きなようにしていいよ」「どんなことしてみたい?」と、従順な雌のふりをして清隆に手綱を預ける。
清隆が自らシチュエーションを指定するということは、そこに必ず彼の「無意識の欲求」や「隠された性癖」が反映される。
清隆が私のどこを触りたがるのか。どんな辱めを与えたがるのか。あるいは、意外と甘やかしたい願望があるのか。
清隆が選んだプレイを通じて、私は綾小路清隆というブラックボックスの内部構造(性癖)を収集し、完璧にマッピングしていく。
これは『受動的支配』だ。
表面上は清隆に主導権を握らせ、従順に振る舞いながら、裏では清隆が何を好むのかを徹底的に分析し、清隆にとって「最も居心地が良く、最も狂える女」へと私自身を最適化していく。
清隆が私の体で己の性癖を満たすことに慣れきってしまえば、もはや彼は他の女の体では満足できない、私の虜となる。
「ふふっ……昨夜あんなに調教されたんだから、少し従順なふりをするのも不自然じゃないし」
私は痛む体を丸めながら、次なる夜の戦いに向けた冷酷な算段を胸に秘めた。
昼の『綾小路グループ加入作戦』。
夜の『性癖データ収集作戦』。
二つの強固な戦略方針が打ち立てられ、私の心は昨夜の絶望から立ち直りつつあった。
だが、天井を見つめる私の眉間には、まだ微かな皺が寄っていた。
(……戦略は完璧。でも、問題は私自身の『キャパシティ』ね)
私は優秀だ。学力も思考力も、この学校でトップクラスだと自負している。
しかし、相手は清隆だ。清隆を相手に二正面作戦を展開し、彼の行動の裏を読み解きながら立ち回る。
それを、私一人で完璧にこなし切れるだろうか。
これまでは、完全に一人で清隆に立ち向かってきた。
十月の作戦も、一人でネットを漁って知識を詰め込み、一人でシミュレーションを重ねた。
しかし、一人の知恵には限界がある。自分の思考の癖や、思い込みによる盲点。それらを客観的に指摘してくれる存在がいなければ、昨夜のように、清隆にカウンターを食らって私はまた致命傷を負いかねない。
「……相談相手、か」
私は小さく呟いた。
清隆を攻略するための、戦略的なアドバイスをくれる頼れる相談先。
とはいえ、そんな相手を簡単に見つけることなど不可能に近い。
まず第一に、私と清隆が『夜のベッドで狂ったように肌を重ねている』という前提を話せる相手など、この学校に存在するはずがない。
『ねえ、無表情で影の薄いあの綾小路くんと毎晩セックスしてるんだけど、彼を本気で惚れさせるにはどういうプレイで攻めればいいと思う?』
……そんな相談、誰にできるというのか。クラスの女子に聞かれた日には、私の「優等生」としての社会的な立場は一瞬で崩壊する。
第二に、清隆という人間の異常性を理解できる人間でなければならない。
清隆の思考の深さ、合理性、そして冷酷さ。それを前提とした上で、清隆をどう絡め捕るかという高度な議論できる頭脳を持つ人間。
堀北鈴音?
論外だ。彼女は生真面目すぎて、男女の機微など全く理解できないだろう。
軽井沢恵?
絶対にあり得ない。彼女は平田の恋人だが、おそらく私の恋のライバルになりうる。清隆と裏で何らかの繋がりを持っている気配を感じる。
櫛田桔梗?
相談先として適任に思えるが、なぜか、相談先にしてはいけないという悪寒を感じる。
「……現状、適任者はゼロね」
Dクラスの中には、私の胸の内を明かし、共に戦略を練ってくれるような相手はいない。
他クラスの人間……例えば一之瀬帆波や坂柳有栖といったリーダー格に接触するのも、リスクが高すぎる。
しかし、一人で戦略を練るのにはいつか限界が来る。
今はまだ具体的な相手の目星はつかないが、「私の目的(綾小路の恋人になること)を客観的に支援し、時には夜の戦略のアドバイスすらできる、口が固く有能な相談先」の確保。
これを、十二月以降の長期的なサブミッションとして、頭の片隅に強く留めておくことにした。
もしそんな都合のいい人間が見つかれば、私の『清隆攻略』の勝率は跳ね上がるはずだ。
「……さてと」
私はゆっくりと、痛みで軋む体をベッドから起こした。
シーツの交換を終え、戦略の構築を済ませたことで、頭の中は驚くほどクリアになっていた。
時計を見ると、時刻は午後五時を回ろうとしていた。
そろそろ、学校の授業が終わり、生徒たちが寮へと帰ってくる時間だ。
「清隆が帰ってくる前に、シャワーを浴びて、完璧な私に戻っておかなくちゃね」
私は立ち上がり、ふらつく足取りでシャワールームへと向かった。
鏡に映る自分の体は、首筋から胸元、そして太ももにかけて、清隆が付けた無数の赤い痕と、強く握られた指の形に青黒く変色した痣だらけだった。
客観的に見れば、暴行を受けた被害者のような痛々しい姿だ。
だが、私はその鏡の中の自分を見て、誰にも屈しない『新西レイ』としての、不敵な笑みを浮かべた。
「昨日の今日で、私がボロボロになって泣いているとでも思ったかしら、清隆」
温かいシャワーを浴びながら、私は体に残る清隆の痕跡を丁寧に洗い流していく。
体は清隆に支配された。心にも、恐怖と甘い依存が根付いた。
それでも、私の『清隆を私のものにする』という想いの炎は、昨夜を経て、むしろ研ぎ澄まされた青白い炎となって燃え上がっている。
昼は、綾小路グループに潜り込み、清隆の日常を把握する。
夜は、清隆にプレイを選択させ、性癖を丸裸にする。
そしていつか、私のこの戦略を後押ししてくれる相談先を見つけ出す。
「覚悟していなさいよ、清隆。十二月は、私の反撃の狼煙よ」
シャワーを終え、身だしなみを完璧に整えた私は、清隆が帰ってくるのを待つために、再び彼の部屋のベッドに優雅に腰を下ろした。
痛みはまだある。歩くのも辛い。
それでも、私は清隆がドアを開けた瞬間、これまでで一番美しく、そして従順な『恋人候補』としての極上の微笑みを向けてやるのだ。
壁掛け時計の針が、ゆっくりと、だが確実に午後六時を回った。
学校の喧騒からは遠く離れた、高度育成高等学校の男子寮。その一室である清隆の部屋は、秋の終わりの冷たい西日に照らされ、静寂に包まれていた。
ベッドの上に身を横たえている私は、真新しいシーツの感触に包まれながら、かすかに聞こえてくる廊下の足音に耳を澄ませていた。
(……そろそろ、帰ってくる時間ね)
昨夜から今朝にかけて行われた、言葉にするのもおぞましい『わからせ』の拷問。
そのダメージは、夕方になっても私の肉体を深く蝕んでいた。筋肉はズタズタに引き裂かれたように痛み、特に下半身と腰回りは、少し寝返りを打とうとするだけで鉛のように重く、鈍い激痛が走る。
自力でシャワーを浴び、清隆が帰ってくる前に完璧な姿を取り戻そうと、昨日着てきたボルドー色のワンピースになんとか袖を通したものの、立って彼を出迎える気力も体力も残されていなかった。
ガチャリ。
無機質な金属音が響き、ドアの鍵が開けられる。
「……」
ゆっくりとドアが開き、学校の制服を完璧に着こなした清隆が、何食わぬ顔で部屋へと足を踏み入れた。
息一つ乱れていない。疲労の欠片も見当たらない。数時間前まで私を白目を剥くまで抱き潰していた人と同一人物とは到底思えない、いつも通りの「目立たない普通の男子生徒」の仮面。
「……おかえりなさい」
私はベッドのヘッドボードに背中を預けたまま、清隆に向けて声をかけた。
本当なら優雅に立ち上がり、余裕の微笑みで出迎えてやるつもりだったのに、体を動かすだけで顔が歪んでしまう。
清隆は私を一瞥し、手にした鞄を机の脇に置いた。
「まだ動けないか」
「……誰のせいだと思ってるのよ」
私は清隆をキッと睨みつけ、冗談交じりの恨み節を口にした。
「私も調子にのりすぎたかもしれない……それにしても、限度ってものがあるでしょう? 私の体、まだ腰から下が自分のものじゃないみたいに重いのよ。どうしてくれるつもり?」
「お前が『最後まで起きていられたら勝ち』というルールを承諾したんだ。俺はそれに則って、お前が起きていられなくなるまで『労った』だけだが」
「あれのどこが労いよ! シーツなんてもはや殺人現場みたいな状態だったから!」
私はワンピースの裾を握りしめながら、わざとらしく唇を尖らせた。
痛いのは事実だ。だが、この恨み節は本気の怒りではない。
清隆に完全に支配されてしまった肉体の疼きを隠し、あくまで「対等な女」としてのポジションをギリギリで保つための、私なりの強がりだった。
私の抗議を聞いた清隆は、凪いだ瞳で私をじっと見つめた。
怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ私の体の状態を精密機械のようにスキャンしているかのような視線。
やがて、彼は小さく息を吐いた。
「確かに、少し加減を間違えたかもしれないな。……想定以上にダメージが残っているようだ」
(……は? 今、なんて言った?)
私は耳を疑った。
清隆が「加減を間違えた」と、自身の非を(ほんのわずかとはいえ)認めるような発言をしたのだ。
驚いている私をよそに、清隆は持っていたレジ袋の中から、小さな可愛らしい箱を取り出した。
それは、ケヤキモールの中にある、女子生徒に人気の高いパティスリーのケーキ箱だった。
「これは……?」
「学校の帰りに買ってきた。お前の好みが分からなかったから、適当に見繕ったが。……まあ、昨夜の『埋め合わせ』だ」
そう言って、清隆はケーキ箱を机の上にコトリと置いた。
(埋め合わせ……っ!)
私の脳内のスーパーコンピューターが、恐るべき速度で回転を始めた。
清隆が手土産を買ってきた理由。それは「罪悪感」などという感情からではないだろう。「このまま私の機嫌を損ねて関係が拗れるのは、今後の彼自身の学校生活において不利益になる」という合理的な計算が働いたからに違いない。
要するに、清隆は私を「メンテナンス」し、関係を円滑に保つために、スイーツという餌を与えてきたのだ。
だが。
理由はどうあれ、清隆が私に対して負い目を作った形になったという事実は揺るがない。
清隆が自ら「埋め合わせ」と言い出した。これは、私が清隆に対して要求を通すための、またとない、そして降って湧いた『ゴールデンチケット』だ。
(ふふっ……いいわ。このチャンス、活かさない手はないわ)
私は内心で勝利の笑みを浮かべながらも、表面上は何食わぬ顔で、少しだけ毒気を抜かれたような「素直な女の子」の表情を作ってみせた。
「……スイーツくらいで、私のこの筋肉痛がチャラになると思ってるの?」
「足りないか」
「当然よ。あの地獄みたいな夜を、ケーキ一個で清算しようだなんて、都合が良すぎるわ」
私は痛む腰を庇いながら、ベッドからゆっくりと足を下ろし、清隆を見上げた。
「もし本当に埋め合わせをしてくれるつもりがあるなら……私のお願いを聞いてほしいわ」
清隆は私の言葉に動じることなく、「言ってみろ」とだけ促した。
私は頭の中で構築したばかりの『昼と夜の戦略』を、この千載一遇のチャンスに一気に叩き込むことにした。
「一つ目。……来月の、クリスマスイヴの日」
私は清隆の目を見つめ、あえて少しだけ頬を染め、上目遣いで言葉を紡いだ。
「イヴの日は、昼から夜まで、私と一緒にいてほしいの。ケヤキモールでショッピングデートをして、一緒に映画を見て、寮の部屋で一緒に夕食を食べる。そんな普通の恋人同士みたいなデートがしたいわ」
クリスマスイヴという、恋人たちにとって最も特別で象徴的な日。
その丸一日を私が独占することによって、清隆に「新西レイは特別な存在である」という事実を刷り込む。これが昼の戦略の第一段階だ。
「……クリスマスイヴか。まだ一ヶ月も先の話だな」
「一ヶ月前だからこそ、早めに予約を押さえておくのよ。それとも、他に誰か一緒に過ごす予定の女でもいるの?」
「いや。特にはない」
「なら決まりね」
私はさらに一歩踏み込み、本命である『夜の戦略』へと切り込んだ。
「そして、デートが終わった後の夜……そのまま、私を抱いてほしいの」
「……」
「ただし、お願いがあるわ」
私は人差し指を立て、清隆の顔の前にスッと突き出した。
「昨夜みたいに、朝まで私を抱き潰すのは絶対に禁止よ。その代わり……『どんなプレイで、どんな風に私を抱きたいか』、そのシチュエーションは全部、清隆に決めてもらいたいの」
「俺が、決める?」
凪いでいた清隆の瞳の奥に、ほんのわずかな波紋が広がったのを見逃さなかった。
「ええ。私がどういう服を着て、どんな言葉を言って、どういう風に扱われたいか。……清隆の『本当の好み』で、私を好きにしていいわ。私が、あなたの思い通りの人形になってあげる」
これぞ、私が考え抜いた『受動的支配』の罠。
清隆にシチュエーションを選択させることで、彼の隠された性癖、無意識の欲望を丸裸にする。清隆がどんな状況に興奮し、どんな支配を好むのかを知るための、極上のデータ収集。
清隆が私という体を使って己の理想の快楽を満たすことに慣れれば、もはや他の女では代替できなくなる。
「朝まで抱き潰すのは無し。だが、プレイの内容は俺が自由に設定していい、ということだな」
「そういうこと。……どう? 悪くないでしょう?」
清隆はしばらく沈黙し、頭の中で私の提案のメリットとデメリットを天秤にかけているようだった。
やがて、清隆は小さく頷いた。
「分かった。少し先の話だが、その条件で埋め合わせとしよう。12月24日は、予定を空けておく」
(……よしっ!)
私は内心で小さくガッツポーズをした。
これで、12月の最大のイベントの独占と、清隆の性癖を探るための夜の確約という、二つの巨大なアドバンテージをもぎ取ることに成功したのだ。
だが、私の要求はこれで終わりではない。
私は清隆が買ってきたケーキ箱の紐をほどきながら、ふと思い出したかのような、自然なトーンで次の矢を放った。
「あ、そうだ。……もう一つだけ、お願いがあるんだけど、いいかしら?」
「まだあるのか。ずいぶんと強欲だな」
「女の子を朝まで気絶させた代償は、海よりも深くて重いのよ」
私はふんぞり返るように胸を張り、言葉を続けた。
「私ね、最近少し交友関係を広げてみようかなって思ってるの。ずっと一人でいるのも気楽でいいんだけど、クラスの情報をもっと集めておきたいなと思って」
「……なるほど。それで?」
「清隆、最近『グループ』みたいなものを作ったじゃない。長谷部さんや幸村くんたちと。……結構居心地が良さそうに見えたから」
私はケーキの箱を開け、中に入っていた美しいモンブランを見つめながら、何食わぬ顔で核心を突いた。
「できれば、私を清隆たちのグループに加われるように、橋渡ししてくれないかしら?」
ピタリ、と。
清隆の空気が、ほんの一瞬だけ止まったように感じた。
清隆にとって、あのグループは彼自身が目立たずにクラス内で平和な日常を送るための、いわば『隠れ蓑』であり、平穏の象徴だ。
そこに、私を放り込むこと。それがグループにどのような影響を与えるか、清隆が計算しないはずがない。
「レイを、俺たちのグループに……か」
清隆の声は平坦だったが、その背後で恐ろしいほどの思考が巡っているのが手に取るように分かった。
「嫌かしら? 私、長谷部さんたちと喧嘩するつもりなんてないわよ。ただ、一緒にお茶を飲んだり、勉強を教えてあげたりするくらいの、普通の友達が欲しいだけ。……それに、清隆と昼間も堂々と一緒にいられる口実ができるじゃない?」
私は清隆を見つめ、少しだけ甘えるように微笑んだ。
これは単なる交友関係の拡大ではない。清隆を日常のあらゆる角度から観察し、昼間の顔から「隙」を見つけ出すための、私の作戦なのだ。
清隆は私から視線を外し、窓の外の暮れゆく空をじっと見つめた。
数秒の、いや、数十秒の沈黙。
私が清隆にとってただの厄介者であれば、彼は適当な理由をつけて断っただろう。グループの平穏を乱すリスクが高すぎるからだ。
しかし、清隆にとって私はすでに、夜のベッドで互いの底を知り、彼自身が「埋め合わせ」を用意してまで関係を維持しようとする程度には意識している。
「……分かった」
沈黙を破り、清隆が静かに答えた。
「俺の口から、お前がグループに入りたがっていると打診してみよう。ただ、最終的に受け入れるかどうかは長谷部や幸村たちの判断になる。俺が強制することはできない」
「ええ、それで十分よ。きっかけさえ作ってくれれば、あとはうまくやるわ」
私は満面の、そして心からの勝利の笑顔を浮かべた。
清隆の了承を得た。これでもう、私がグループに潜り込むための最大の障壁は取り除かれたも同然だ。
「交渉成立ね。じゃあ、遠慮なく埋め合わせを頂かせてもらうわ」
私は箱からモンブランを取り出し、付属の小さなフォークでクリームをすくって口に運んだ。
上質な栗のペーストと、控えめな甘さの生クリームが、疲労困憊の体に染み渡っていく。
「ん……美味しい。どこのお店の?」
「ケヤキモールの二階に新しくできたカフェだ。佐倉が話題にしていたのを聞いてな」
「へえ、佐倉さんが。……そういう情報も、グループに入ればたくさん聞けそうね」
私はわざと佐倉の名前を強調し、清隆に軽く牽制を入れながら、もう一口ケーキを頬張った。
痛む下半身のダメージはまだ深刻だ。しかし、私の心の中は、これからの十二月に向けての希望と、ドロドロとした暗い情熱で満ち溢れていた。
(一旦、これで計画の第一歩は完全クリアね)
クリスマスイヴという特別な日の独占。
夜のベッドにおける、清隆の性癖探求への切符。
そして、清隆の昼の聖域である『綾小路グループ』への潜入の足がかり。
一見すると、私は清隆に対して「従順な女の子」として甘えているように見えるだろう。
清隆もまた、スイーツを与えて私の要求を適当に呑んでおけば、私という手駒をうまくコントロールできると考えているはずだ。
しかし、これは私から清隆に仕掛ける甘い毒だ。
清隆が私にシチュエーションを命じ、私がそれを完璧に演じきるたびに。清隆がグループの中で私という存在を「日常の一部」として認識するたびに。
清隆は、気づかないうちに私という毒を飲み込み、私なしでは生きられない体へと作り変えられていくのだ。
「……清隆も、食べる?」
私はフォークでケーキの一部をすくい、清隆の口元へと差し出した。
清隆は私の顔とフォークを交互に見つめ、わずかに躊躇った後、小さく口を開けてそれを受け入れた。
「……甘いな」
「そう? 私にはちょうどいい甘さだけど」
同じフォークを使い、狭い部屋で身を寄せ合ってスイーツを食べる。
それは、昨夜の血みどろのような狂気の情事からは想像もつかないほど、穏やかで、微笑ましい「普通の恋人同士」の光景だった。
だが、その平穏の裏には、互いを支配し、己の所有物にしようとする、二人の果てしない盤面が広がっている。
私はボルドーのワンピースの裾を直しながら、清隆に見えない角度で、ひっそりと冷たい笑みをこぼした。
(見ていなさい、清隆。……あなたが私に依存して、足元にひざまずくようにしてあげるんだから)
痛みで軋む肉体の奥底で、私の清隆に対する歪な愛と反逆の炎は、モンブランの甘い香りとともに、静かに、そして確実に燃え盛り始めていた。
十二月初旬の金曜日。
期末試験に向けた足音が徐々に近づきつつある中、放課後のケヤキモールは、週末の解放感を味わう生徒たちでいつも以上の賑わいを見せていた。
私は清隆の少し後ろを歩きながら、モール内にある広めの休憩スペースへと向かっていた。
清隆と並んで歩く私の足取りは、優雅で、それでいて隙がない。先日、清隆から引き出した『綾小路グループへの橋渡し』という約束。それが今日、実行に移されるのだ。
「あそこだ」
清隆が短く言い、視線を向けた先。
休憩スペースの円形テーブルを囲むようにして、すでに四人の男女が集まっていた。
長谷部波瑠加、佐倉愛里、幸村輝彦、三宅明人。Dクラスの中で独自のコミュニティを形成し、平穏な日常を謳歌している『綾小路グループ』の面々だ。
「清隆、私のこと、ちゃんと自然に紹介してよね」
「善処する」
相変わらずの無機質な返答に内心で軽く舌打ちをしながら、私は美しい優等生としての仮面を顔に貼り付けた。
私たちがテーブルに近づいていくと、最初に気づいたのは長谷部だった。
「あ、きよぽん遅ーい。……って、あれ?」
長谷部の目が、清隆の後ろから姿を現した私を捉え、パチリと瞬きをした。
それに釣られて、幸村、三宅、佐倉の三人も一斉にこちらを振り向く。Dクラスでも上位の成績と容姿を持つ私が、清隆と共に現れたことに、彼らの顔には明らかな『驚き』と『戸惑い』が浮かんでいた。
「悪い、少し遅れた」
清隆は全く悪びれる様子もなく、空いていた椅子に手をかけながら言った。
「今日は、一人連れてきた。新西だ」
「……えっと、それは見れば分かるんだけど。新西さんがどうしてきよぽんと?」
長谷部が、グループを代表するように探るような視線を向けてくる。
「彼女から、交友関係を広げたいと相談されてな。俺たちのグループに加われないかということらしい」
「えっ」
「マジか」
清隆のあまりにも直球すぎる説明に、私は内心で(もっとマシな言い訳を考えなさいよ!)と毒づきながらも、すかさず愛想笑いを浮かべて彼らの前に進み出た。
「急にお邪魔してごめんなさい。……綾小路くんの言う通りなの。私、クラスでも特定の人としか話さなくて、少し視野が狭くなってるんじゃないかって悩んでて。それで、綾小路くんたちがいつも楽しそうに勉強したりお茶したりしてるのを見て、思い切ってお願いしてみたの。……迷惑、だったかしら?」
少しだけ伏し目がちに、恥じらいと不安を交えた声で告げる。
孤独を持て余した優等生の、ささやかなSOS。男も女も、こういう「実は寂しかった」というギャップには弱いものだ。
私のその言葉を聞いて、四人は顔を見合わせた。
無理もない。私には普段、特定の親しい友人と呼べる存在がほとんどいない。強いて言えば、時折一緒に遊ぶ清隆くらいのものだ。そんな私が、このグループに自ら入りたいと言い出したのだから。
しかし、数秒の沈黙の後、最初に口を開いたのは幸村だった。
「……いや、迷惑なんてことはない。むしろ、新西が加わってくれるなら歓迎する」
「幸村くん?」
「新西は学力テストでも常に上位に入っているからな。俺のほうが上ではあるが、堀北と同等かそれ以上に優秀だ。期末に向けての勉強会でも、新西がいればお互いに教え合えるし、綾小路グループ全体の学力底上げにも繋がる」
幸村は眼鏡を押し上げながら、いかにも幸村らしい合理的な理由で私の加入を肯定した。
「啓誠の言う通りだな」
それに続いたのは、三宅だった。
「俺も新西にはちょっと興味があったんだ。体育祭の時、お前、女子の競技でぶっちぎりだっただろ。あの運動神経……どこの部活にも入ってないなんて、絶対もったいないって思ってたんだよな」
「ふふっ、ありがとう三宅くん。でも、私は運動はあくまで趣味の範囲で楽しみたいから」
私は三宅の言葉に微笑みで返しつつ、心の中でガッツポーズをした。
幸村は私の『学力』に。三宅は私の『身体能力』に。
彼らはそれぞれ、私がこれまでに学校生活で見せつけてきたスペックの一部を評価し、すでに私に対して明確な興味を抱いてくれていたのだ。
だが、残る女子二人の視線は、男子たちとは全く異なる方向から私と清隆を観察していた。
「ふーん……」
長谷部はストローを咥えながら、私と清隆の顔を交互に、ねっとりと見比べた。
「新西さんが優秀なのは大歓迎なんだけどさ。……私としては、きよぽんと新西さんの『関係性』の方がめちゃくちゃ気になるかなー、なんて」
「関係性、ですか?」
「だって、新西さんがわざわざきよぽんに相談するって、なんか意外っていうか。二人って、本当にただの『お友達』なわけ?」
その鋭い指摘に、ビクッ、と肩を揺らしたのは佐倉だった。
佐倉はおどおどとした視線で、まるで怯える小動物のように私を見つめている。佐倉が密かに清隆に想いを寄せていることは、少し観察すれば明らかだった。
(……なるほど。この二人は、私と清隆の距離感に違和感を覚えているわけね)
あの距離感で、男女の友情が成立するのか。
水面下でどんな関係を持っているのか。
長谷部の好奇心と、佐倉の隠された嫉妬心。それらをどう躱し、どう利用するかが、このグループで私がうまく立ち回るための鍵になる。
私は一切の動揺を見せず、クスッと可笑しそうに笑ってみせた。
「長谷部さんが疑うのも無理はないわね。でも、本当に変な関係じゃないのよ? 綾小路くんとは、たまに勉強のことで話したり遊びに行ったりするくらい。ただ……綾小路くんって、何を言っても動じないから、逆に変な気を遣わずに相談しやすかったっていうのはあるかも」
「へえ……動じない、ね。確かにきよぽんはいつも鉄面皮だけどさ」
長谷部はまだ少し疑っているようだったが、これ以上追及するのは野暮だと判断したのか、「ま、いっか! 新西さん、これからよろしくね。私のことは波瑠加でいいよ」と、気さくに笑いかけてくれた。
「ありがとう、波瑠加さん。私のことも、レイって呼んでね」
こうして、私は意外なほどあっさりと、そして歓迎される形で『綾小路グループ』の席に座る権利を獲得したのだった。
「でさー、次の期末の範囲なんだけど、あそこの古典の解釈ってどうなるの?」
「あそこは先生の癖からして、おそらく引っかけ問題が出るはずだ。レイ、お前はどう思う?」
「そうね、啓誠くんの言う通りだと思うわ。過去問の傾向から見ても……」
円形テーブルに座り、コーヒーや紅茶を飲みながら、私たちはごく普通の高校生らしい会話を交わしていた。
綾小路グループの雰囲気は、私が想像していたよりもずっと温かく、フラットだった。誰もマウントを取ろうとせず、互いの個性を認め合っている。
私は会話の中心でうまく相槌を打ち、幸村の勉強の相談に乗り、長谷部と他愛もない噂話に花を咲かせながら、視線の端で清隆を観察し続けていた。
「きよぽん、聞いてる? 今度の休み、みんなで映画でも見に行こうって話」
「……ああ。別に構わないが、ジャンルによる」
「もう、相変わらずノリが悪いんだから。愛里はどう?」
「わ、私は……清隆くんが行くなら、行きたい、かな……」
長谷部に話を振られ、佐倉が顔を真っ赤にしながら清隆をチラチラと見つめる。
それに対する清隆の反応は、「そうか」という素っ気ないものだった。
(……不思議な感覚ね)
私は紅茶のカップに口をつけながら、そっと息を吐き出した。
夜のベッドで、私を気絶するまで蹂躙し、支配し尽くす絶対君主が。
今、目の前で、コーヒーのストローを弄りながら、女子の世間話に巻き込まれて少し居心地が悪そうにしている『普通の高校生』を演じている。
清隆がこのグループで見せる顔は、今の私が知っている彼とは全く違う。仲間に対しては適度に気を許し、目立とうとせず、しかし決して和を乱さない。
(……ううん。違うわ。私だって、この顔をよく知っていたはずじゃない)
ふと、私の脳裏に蘇ったのは、彼と歪な肉体関係を持つようになるずっと前――四月の頃の記憶だった。
図書室や、放課後の人気のない教室。まだお互いの腹を探り合いながらも、隣に座ってただ静かに本を読んだり、他愛のない会話を交わしたりしていた、あの穏やかな時間。
今の狂ったような愛憎と快楽の渦に呑み込まれる前、私は確かに、あの静かで温かい空気に心地よさと安らぎを感じていたのだ。
『綾小路グループ』の面々が作り出す、このフラットで優しい空気。
清隆が佐倉に向けた視線や、長谷部と交わした言葉。それらに対して、今の私は嫉妬や独占欲を感じるどころか……私自身が、このグループの空気に深く安らぎ、張っていた肩の力がゆっくりと抜けていくのを感じていた。
(私、こんな風に損得抜きで誰かと普通に笑い合うのなんて、いつ以来かしら……)
「……ねえ、清隆」
私は会話の切れ目を狙って、ごく自然なトーンで彼に呼びかけた。
全員の視線が、私と清隆に集まる。
「さっきの映画の話だけど。清隆って、どういう映画が好きなの?」
「俺か?……特にこだわりはない。アクションでもミステリーでも」
「ふーん。じゃあ、今度オススメの映画があったら教えてよ。……私、清隆の『好み』には、すごく興味があるから」
ニコリと、私はごく普通の女子高生らしい、けれど清隆にだけは夜の約定のダブルミーニングだと伝わるような、絶妙な微笑みを向けてみせた。
「……」
清隆の瞳が、一瞬だけ私を捉える。
テーブルの下で、私の足の爪先が、清隆のスネに軽く触れて、すぐに離れた。
それは毒を盛るような悪意ではない。清隆と私が共有している「秘密」の、ささやかな確認作業だ。
「えー、レイちゃん、きよぽんに映画のオススメ聞くの? 絶対つまんないドキュメンタリーとか言ってくるよ!」
「そうかな? 意外とロマンチックなのが好きかもしれないわよ?」
長谷部が笑い飛ばし、佐倉がオロオロとする中、私は心からの笑い声をこぼした。
(……悪くないわね、こういうのも)
綾小路グループという、温かで平穏な聖域。
ここでの居心地の良さを存分に味わいながら、私は清隆の日常に根を下ろしていく。
夜の暴力的な支配関係だけじゃない。四月の頃のような、穏やかで確かな心の繋がりも、もう一度この手で紡ぎ直したい。
そして、クリスマスイヴの夜。清隆自身の『性癖』という奥底に触れることで、今度こそ清隆を心身ともに私の恋人にしてみせる。
休憩スペースに流れる明るいBGMと、友人たちの温かい笑い声。
その眩しい白日の下で、私という折れない華は、かつての純粋な安らぎを胸に抱きながら、静かに、そして確実に清隆との未来を引き寄せようとしていたのだった。
十二月も中旬に差し掛かり、冷たい木枯らしが校庭の木々を揺らすようになった頃。
放課後のケヤキモールのカフェで、私たち『綾小路グループ』はいつものように円形テーブルを囲んでいた。
期末試験が近づいていることもあり、話題は勉強のことが多いのだが、今日は少し空気が違った。長谷部がストローを弄りながら、唐突にふふっと笑い出したのだ。
「ねえねえ、もうすぐクリスマスだしさ。ぶっちゃけ、この中に今、恋人がいる人っているの?」
そのド直球な質問に、幸村がむせてコーヒーを吹き出しそうになり、三宅が苦笑し、佐倉は顔を真っ赤にして俯いた。
当然、視線は「いかにも恋愛経験がありそう」に見える私や、感情の読めない清隆にも向けられる。
「俺はいないな。そういうの、よく分からないし」
清隆は、五月の頃の勉強会で池たちに答えていた時と全く同じ、平坦で無機質なトーンで即答した。
(……っ)
その瞬間、私の胸の奥でチクリと、愛憎入り交じった鋭い痛みが走った。
私が目の前にいるというのに。毎晩のように私の体を気絶するまで抱き潰し、私の口内で何度も果てているというのに、清隆は白日の下では迷いなく「恋人はいない」と言い切るのだ。
分かっていたことだ。私たちの関係は、まだそんな甘い名前で呼べるものではない。だが、言葉にして突きつけられると、やはり私のプライドは激しく軋んだ。
(……いいえ、焦ることはないわ)
私はカップの縁を指でなぞりながら、内心で冷たく息を吐き出し、乱れかけた心を立て直した。
清隆がそんなに簡単に落ちる男なら、私はとうに清隆の『恋人』の座に収まっている。清隆がまだ私を恋人と認めないのなら、私はただ諦めずに、立てた計画を遂行して彼を絡め捕るだけだ。
「レイはどうなんだ? モテそうだけど」
三宅が話を振ってくる。私はクスッと小さく笑い、わざとらしくため息をついてみせた。
「私? 恋愛にはもちろん興味あるわよ。普通の高校生だもの。でも……寄ってくる男の人って、みんな私の『体』ばっかりに興味があるみたいで。なかなか、私の心まで見てくれるような真剣な恋愛にならないのよね」
私はそう言いながら、清隆の方をチラリと流し見た。
清隆は私の視線を受け止めたが、その凪いだ瞳は微塵も揺れることはなかった。
「うわー、レイちゃんレベルの美人だと、そういう悩みになるんだね……。あ、じゃあさ、クリスマスはどうするの?」
長谷部が興味津々で話題を転がす。
「……ああ。クリスマスイヴは、レイと一緒にケヤキモールへ買い物に行く予定だ」
清隆が事も無げに、あまりにも淡々と事実を告げた。
その瞬間、テーブルを囲む空気が一変した。
「……え、ちょっと待って。それって二人っきり?」
長谷部が身を乗り出す。幸村も眼鏡を押し上げながら、驚きを隠せない様子で私たちを見つめた。
「そうだけど。それがどうかしたか」
「どうかしたかって……きよぽん、あんた分かってて言ってる? クリスマスイヴに二人っきりで遊びに行くなんて、それはもう実質的に『そういうこと』でしょ!」
長谷部の追求に、佐倉が今にも泣き出しそうな視線を私に送ってくる。
グループの面々からの、「二人は付き合っているのか」という無言の、しかし強烈な圧力が私を刺した。
(……っ。清隆、もっと言い方があるでしょうに)
私は内心で舌打ちをしながらも、すぐに「優等生」の仮面を完璧に調整し、クスッと可笑しそうに笑ってみせた。
「みんな早合点しすぎよ。私と清隆くんが付き合ってるなんて、そんなわけないじゃない」
私はわざとらしく首を振って、恋人関係を真っ向から否定してみせた。
「実はね、前から清隆くんに買い物に付き合ってほしいってお願いしてたの。冬休みに必要な備品とか、ちょっと相談したいことがあって。でも、お互いのスケジュールを合わせようとしたら、たまたま空いてるのがイヴの日だけだった……ただ、それだけよ」
淀みのない嘘。私は自分の声を、これ以上なく自然な「ただの友人」のトーンへと落とし込んだ。
「本当なの、きよぽん?」
長谷部が確認するように清隆を見る。
「ああ。レイが言う通りだ。俺に特別な予定はなかったし、たまたま日が重なっただけだ」
清隆の無機質な肯定。その冷徹なまでの「予定の処理」という響きに、グループの面々は「……なんだ、そういうことか」と、どこか拍子抜けしたように、しかし安堵したように息を吐いた。
私は紅茶の香りを楽しみながら、内心で勝利の優越感に浸っていた。
表向きは、たまたま予定が合っただけのショッピング。
だが、その実態は。
一日中、私が清隆を独占し、ショッピング、映画……そして夜は、清隆自身の性癖に貫かれながら抱き潰されるという、狂おしいほどに濃密な『デート』なのだ。
清隆が白日の下で私を「恋人」と呼んでくれないことへの愛憎は、今でも胸をチリチリと焼いている。
けれど、このグループの誰も知らない清隆の本性を、私だけが独占しているという事実は、何物にも代えがたい蜜の味だった。
「……じゃあ、イヴは買い物だけなのね? その後は?」
なおも探るような長谷部に対し、私は優雅に微笑んだ。
「もちろん、買い物が終わったら解散よ。それとも、私が清隆くんを無理やり連れ回すとでも思ってるの?」
私の言葉に、三宅が「まあ、レイならありえそうだけどな」と笑い、ようやく和やかな空気が戻った。
クリスマスイヴ。
グループの平穏を守りつつ、私はその裏側で、清隆を逃げられない迷宮へと引きずり込む準備を、着々と進めていた。
終業式が近づくにつれ、Dクラスの周辺は妙にきな臭い空気に包まれ始めていた。
Cクラスのリーダーである龍園翔とその取り巻きたちが、Dクラスの生徒たちに執拗にちょっかいをかけてくるようになったのだ。
「龍園の奴ら、最近やけに絡んでくるよな。俺たちのクラスの『隠れた黒幕』を探してるって噂だけど……」
グループの集まりの中で、幸村が渋い顔で呟く。
「黒幕って、一体誰なんだろうね? 堀北さんじゃないの?」
長谷部が首を傾げる。
無人島試験などで、Dクラスを裏から操っていた真の黒幕。
それは、今私の目の前で「さあな、俺には分からない」と惚けている、清隆その人だ。
夜のベッドで私を絶望の淵まで追い込む、規格外の能力を持つ清隆を出し抜けるわけがない。万に一つも敗れることはないだろうという確信があったため、私は龍園たちの暗躍を全く気に留めていなかった。
もちろん、私が黒幕の正体を知っていることなど誰にも言うつもりはない。
だが、ある日の放課後。
一人で校舎の裏手からケヤキモールへ向かおうとした時、私は予期せぬ光景を目撃することになった。
「……あれは」
渡り廊下の死角。冷たい風が吹き抜ける陰で、清隆が、担任である茶柱先生と向かい合っていたのだ。
ただの進路相談ではない。二人の間の空気は、氷のように冷たく、そして極めて『真剣』だった。
私は足音を殺し、壁の陰に身を隠して二人の会話に耳を澄ませた。
風の音に遮られ、すべてを完璧に聞き取ることはできなかったが、断片的な言葉が私の鼓膜を叩いた。
『……あんたはオレを退学にできない』
『……おまえはAクラスを目指すことを放棄すると?』
『……とりあえず、今はおとなしく見守ってくださいよ』
(……っ! そういうことだったの!)
私の脳内で、これまでの清隆の不可解な行動のピースが一つに繋がった。
清隆が本来目立つことを嫌いながらも、無人島や体育祭などで裏からクラスを勝利に導くために暗躍していた理由。
それは、茶柱先生が何らかの手段で清隆を利用し、DクラスをAクラスに導くための手駒として強制的に働かせていたからなのだ。
そして今日、その契約が決裂した。
「……なるほどね」
私は壁に背中を預け、静かに息を吐いた。
清隆が学校の盤面で動いていた理由が分かったことは大きな収穫だ。だが、それ以上に私の心を強く叩いたのは、もう一つの事実だった。
(茶柱先生は、清隆の本性の一端を知っている)
この学校で、清隆がただの平凡な生徒ではないと知っている大人。
数日前に私が思い悩んでいた、『綾小路清隆の異常性を理解した上で、戦略的な相談に乗ってくれる有能な相手』。
私は、最高の相談役の背中を、ついに見つけ出したのだ。
冬休みが目前に迫ったある日のホームルーム終了後、龍園たちCクラスの生徒が唐突にDクラスの教室に現れた。
他クラスのリーダーの突然の訪問に教室の空気が張り詰める中、真っ先に動いたのは血の気の多い須藤だった。「おい、何しに来たんだ」と敵意を剥き出しにして龍園を睨みつける。
しかし龍園は悪びれる様子もなく、「くくっ、Dクラスに警告をしに来てやっただけだ」と不敵な笑みを浮かべて返した。
その不穏な言葉に、クラスのまとめ役である平田が冷静に間に入り、「……どういう意味だい?」と真剣な表情で問い質す。
そんな緊張感に包まれたやり取りの最中、我関せずとマイペースに帰り支度を済ませていた高円寺六助が、悠然とした足取りで教室を出て行った。
すると龍園たちは平田の問いに答えることなく、最初から高円寺だけが目的であったかのように、高円寺を追いかけてすぐに教室を出ていってしまった。
「ちょっと様子を見に行かないか?」
三宅が清隆に声をかけ、綾小路グループの男性陣で高円寺、龍園たちを追いかけることになる。
「待って、私も行くわ」
「ダメだレイ、お前は女子なんだぞ! あいつらは手荒な真似も平気でする。ここは俺たち男子に任せろ」
幸村が私を気遣って制止する。
だが、私は自信に満ちた笑みを浮かべて首を振った。
「心配ありがとう、啓誠くん。でも、私の運動神経、体育祭で見てるでしょ? 自分の身くらいは守れるわ」
「……分かった。でも絶対に無理はするなよ」
私たちは、高円寺を囲む龍園たちのもとへと足を踏み入れた。
だが、その場はカオスと化していた。龍園が高円寺を黒幕だと挑発する中、なんとAクラスのリーダーである坂柳有栖までもが杖をついて現れ、三つ巴の様相を呈し始めたのだ。
高円寺が黒幕ではないことを知る私は、清隆の横顔をチラリと盗み見ながら、この茶番劇を傍観していた。
しかし、その直後。高円寺の口から飛び出した言葉が、私の不意を突いた。
「フッ、君は面白いねえ……ドラゴンボーイ」
「あ?」
「そしてそこの君も、そう絡まないでくれ、リトルガール」
龍園を『ドラゴンボーイ』。坂柳を『リトルガール』。
「……ぷっ」
緊張感に包まれたその場で、私は思わず吹き出してしまった。
手で口を覆うのが一瞬遅れた。
高円寺がつける変なあだ名。以前、無人島試験の際、私をあだ名で呼んだことを思い出し、(なんだ、変な呼び方するの、私にだけじゃなかったのね。しかも的確すぎてウケる)と、我慢できなかったのだ。
「……あァ? 何がおかしいんだ」
「あら、何か面白いことでもありましたか?」
龍園の鋭い蛇のような眼光と、坂柳の冷たく見透かすような視線が、同時に私を射抜いた。
空気が一気に凍りつく。幸村たちが息を呑む中、私は一切の動揺を見せず、優等生としての完璧なすまし顔を作った。
「いいえ、ごめんなさい。ちょっと喉に引っかかっただけ。お気になさらずに」
私が飄々と誤魔化すと、高円寺はその場をマイペースに切り抜け、騒動はうやむやのまま散会となった。
私は隣の清隆に向かって「高円寺くんって、本当に自由ね」と肩をすくめてみせた。
翌日。
私は、一人で職員室の奥にある生徒指導室のドアをノックした。
「入れ」という短い返答を聞き、中に入ると、茶柱先生がデスクで書類仕事のペンを止めてこちらを見ていた。
「新西か。お前がここに来るとは珍しいな。進路の相談か?」
「いいえ。……今日は、先生に個人的な『恋愛の相談』があって伺いました」
「恋愛、だと?」
茶柱先生が眉をひそめる。無理もない。私が担任に恋愛相談など、あまりにも唐突すぎる。
「はい。……私、同じクラスの綾小路清隆くんに恋をしているんです」
私がその名前を出した瞬間、茶柱先生のペンを持つ手がピタリと止まり、その瞳に明らかな警戒と驚きの色が浮かんだ。
「……綾小路に、だと?」
「ええ。でも、彼って何を考えているのか全く分からなくて。私なりに、彼に振り向いてもらうために色々とアプローチはしているんです」
私は、夜のベッドでの清隆への戦略を、オブラートに包んで語り始めた。
「彼がどういう状況を好むのか、私がどんな服を着て、どんなシチュエーションでアプローチすれば彼が喜ぶのか、そういう『彼の本当の好み』を一生懸命探っている最中なんです。でも、彼はいつも表情を変えなくて……どうすれば彼の心に踏み込めるのか、分からなくて悩んでいます」
肉体関係というワードは一切出さず、あくまで「彼好みのシチュエーションを探り、恋愛対象として見てもらうための努力」という体裁で、私の『夜の計画』を伝えた。
茶柱先生は腕を組み、深く息を吐き出した。
「……なぜ、それを私に相談するんだ。お前なら、クラスの女子にでも相談すればいいだろう」
「クラスメイトには、こんなこと恥ずかしくて言えません。茶柱先生なら大人ですし、人生経験も豊富だと思いましたから」
私は真っ直ぐに彼女の目を見つめ返した。
「それに……最近、彼に注目する女子が増えてきている気がして、私、藁にもすがる思いなんです。……茶柱先生は綾小路くんのことを、他の生徒や教師よりも『よく知っている』ように見えましたから」
「……っ」
私の最後の一言に、茶柱先生の目が僅かに見開かれた。
先日、私が二人の密会を目撃したことには触れない。しかし、「私はあなたが清隆に特別な関心を持っていることに気づいている」という暗黙のメッセージは、確実に彼女に伝わったはずだ。
長い沈黙が指導室に落ちた。
茶柱先生はしばらく葛藤するように目を閉じていたが、やがて観念したように小さくため息をついた。
「……あの男に、一般的な恋愛のアプローチが通用するかは私にも分からない。だが、一般論としてなら、一つアドバイスできる」
茶柱先生は、過去を思い出すような、少しだけ遠くを見るような目をした。
「特別試験などで、クラスが一丸となって真剣に闘う。その過酷な状況下で背中を預け合うことで、人と人との関係が、普通の日常では考えられないほど深く結びつくことがある。……綾小路とも、お前が一緒に特別試験に真剣に向き合い、困難を共有することができれば、関係が大きく進展することもあるのではないか」
(……一緒に闘い、困難を共有する)
それは、夜のベッドで清隆にシチュエーションを委ねる『受動的支配』や、昼のグループで安らぎを共有することとは違う。
清隆と私が、同じ目標に向かって知略を巡らせ、共闘する『パートナー』としての立ち位置。
「……なるほど。一緒に闘う、ですね」
私はそのアドバイスを深く咀嚼し、確かな手応えを感じながら微笑んだ。
「ありがとうございます、茶柱先生。すごく参考になりました。……進展があったら、また相談に乗ってくださいね」
私は深々と一礼し、生徒指導室を後にした。
有能な相談役を確保し、新たな『共闘』という視点も得た。
十二月、クリスマスイヴに向けて。私と清隆の盤面は、ますます複雑に深く絡み合い始めていた。