綾小路くん、私はセフレ?それとも 作:Geminiちゃん痛くしないで
十二月二十四日、午後一時。
底冷えする冬の空気が肌を刺す中、私は高度育成高等学校の学生寮の前に立っていた。
吐く息は白く、どんよりとした薄雲の隙間から時折、冬の弱々しい陽射しがアスファルトを照らしている。
(……寒っ。でも、我慢よ。今日の私は完璧でなければならないんだから)
私は手袋の中で指先を擦り合わせながら、エントランスの自動ドアをじっと見つめた。
今日の私の服装は、清隆との特別な一日を意識して選び抜いたものだ。シルエットの美しい黒のタートルネックのニットに、冬らしい厚手のチェック柄のロングスカート。そして、私の勝負カラーである深いワインレッド――ボルドー色のチェスターコートを羽織っている。
学力も身体能力も関係なく、今はただ、待ち合わせ場所に立つ一人の『恋する女の子』として清隆を待っていた。
自動ドアが開き、見慣れた姿が現れる。
綾小路清隆。
普段の制服姿とは違う、落ち着いた色合いのピーコートに無地のタートルネックという、シンプルだが清隆の整った体躯を無駄なく引き立てる冬の装い。
「待たせたか」
「ううん、今来たとこ。……時間ぴったりね、清隆」
私は冷えた手をコートのポケットにしまいながら、清隆に向かってふわりと微笑んだ。
清隆にとって、今日はグループに対するアリバイ作りのための「ただの買い物の延長」かもしれない。だが、私にとっては、清隆を昼の日常から夜の底なしの沼へと引きずり込むための、重要な儀式の始まりだ。
「それじゃ、行きましょうか。ケヤキモール、今日は混んでそうだけど」
「クリスマスイヴだからな。人混みは避けられないだろう」
私たちは並んで歩き始めた。
触れ合うことはない、絶妙な距離感。しかし、夜のベッドで互いの体液が混ざり合うほどの濃密な時間を共有しているという隠された事実が、この数十センチの隙間を恐ろしいほどに甘く、熱いものに感じさせていた。
モール内は、予想通り浮き足立った生徒たちと、クリスマスソングの華やかなBGMで満ち溢れていた。
イルミネーションが点滅する中、私たちは最初の目的であるアパレルショップへと足を踏み入れた。
「ねえ、清隆。私、冬服の小物を少し買い足したかったの。……これ、どう思う?」
私は冬の新作が並ぶ棚から、柔らかなカシミアのストールを手に取った。選んだのは、私のコートと同じボルドー色だ。
鏡の前に立ち、それを肩にふわりと羽織って清隆を振り返る。
清隆は少し離れた場所から、無機質な瞳で私と鏡の中の姿を交互に見つめた。
「……悪くない。お前の雰囲気に合っていると思う」
短く、淡々とした感想。だが、他のお世辞ばかりを言う男たちとは違う、その嘘のない確かな肯定が、私の胸の奥を心地よく満たしていく。
「そう? じゃあ、これにするわ」
清隆が私の選んだものを認めてくれる。ただそれだけのことが、今の私には酷く嬉しかった。
次に訪れたのは、小洒落た生活雑貨やインテリアを取り扱うショップだ。
ここでの買い物は、綾小路グループのみんなに説明した「冬休みの備品の相談」というアリバイを補強するためのものだが、私の目的は別にあった。
「あ、このアロマキャンドル、すごくいい香り。清隆の部屋って、たまに殺風景すぎるから、こういうの置いてリラックスした方がいいんじゃない?」
私はシトラスとウッドが混ざった落ち着く香りのキャンドルを手に取り、清隆の鼻先に近づけた。
「……検討しておこう」と清隆は気乗りしない様子だったが、私はそのキャンドルと、ペアを思わせるような落ち着いた色合いのマグカップを二つ選び、半ば強引に彼のカゴに入れた。
夜、密室で二人きりになった時、この香りに包まれながら清隆が私にどんな「シチュエーション」を命じるのか。そんな淫らな想像をすれば、それだけで下腹部が熱を帯びてくる。
ショッピングの最後に向かったのは、大型の書店だった。
静かな活字の海。私たちは棚の間をゆっくりと歩きながら、背表紙を眺めて言葉を交わした。
「清隆、このミステリー小説、新しいのが出てるわよ。……あ、こっちの心理学の本も面白そう」
「レイは、そういう分析的な内容を好むな」
「あなたほどじゃないわよ」
夜のベッドでの暴力的な支配関係とは無縁の、知的で穏やかな時間。四月の頃の図書室での空気が蘇る。
昼の光の下で交わされるこのフラットな会話が、私にとってどれほど得難い安らぎであるか、清隆は知る由もないだろう。
「そろそろ、映画の上映時間だな」
清隆がスマートフォンで時間を確認し、私たちはシネマコンプレックスへと向かった。
クリスマスイヴの映画デート。普通なら、ここで甘いラブストーリーや、華やかなファンタジー映画を選ぶのが定石だろう。清隆がどんなロマンチックな映画を選んでくれたのかと、私は少しだけ期待に胸を膨らませていた。
しかし、スクリーンに映し出されたのは、私の予想を超えた、極めて前衛的な代物だった。
映画の幕が開くと同時に現れたのは、奇妙な『獏(バク)』の着ぐるみを着たマルコフと名乗る謎の案内人。
そして、主人公らしき男が薄暗い喫茶店でひたすらマキアートを飲みながら、案内人の獏と共に「もしあの時、別の選択をしていたら」という人生の分岐確率と統計学について、延々と、実に三時間にも及ぶ難解で哲学的な会話を繰り広げるのだ。
(……えっと。清隆、これ、本気で選んだの?)
暗闇の中で、私は隣に座る清隆の横顔を盗み見た。彼はスクリーンを真剣な目で見つめている。
イヴのデート映画で、三時間の哲学ファンタジー。普通なら完全に寝落ちするか、怒って席を立つコースだ。だが。
「……Aのルートを選択した場合の期待値と、Bのルートの分散……なるほど」
私は内心で毒づきながらも、スクリーンから流れてくる『ルート分岐の確率論』というテーマに、思いのほか自分の知的好奇心が刺激されていることに気づいていた。
もし四月に清隆に抱かれていなかったら? もし十月、私が清隆に指を入れなかったら?
私の人生のIFルートを無意識に計算し始めている自分がおかしくて、私はポップコーンを齧りながら、結局最後まで全く眠気を感じることなくその難解な映画を見終えてしまった。
エンドロールが終わり、明るくなったロビーに出た時、私の目は物販ブースの一角に釘付けになった。
「……なにこれ」
そこにあったのは、映画に登場したあの『案内人の獏、マルコフ』を模した、奇っ怪なぬいぐるみだった。
決して可愛くはない。どちらかと言えば不気味で、奇抜な色使いをしている。しかし、映画の中で三時間もその姿を見せられたせいか、はたまたその愛嬌のある不格好さのせいか、私はそのぬいぐるみが無性に欲しくなってしまい、ショーケースの前から動けなくなってしまった。
「……欲しいのか」
不意に、後ろから清隆の声がした。
「え? あ、いや、別にそういうわけじゃ……ただ、すごく変なデザインだなって思って見てただけで……」
私が言い訳をしている間に、清隆はスッとレジに向かい、その奇っ怪な獏のぬいぐるみを迷わず購入してしまった。
「はい」
「えっ……清隆、これ……」
「クリスマスプレゼントだ。何も用意していなかったからな」
ぽいっ、と無造作に渡された、少し大きめの獏のぬいぐるみ。
私はその不格好な顔を見つめ、それから清隆の無表情な顔を見上げた。
「……ありがとう。大切にするわ」
胸の奥が、きゅんと音を立てて締め付けられた。
清隆にとっては気まぐれかもしれない。けれど、私の視線の先を読み取り、何も言わずにプレゼントをしてくれた。その不器用な優しさが、痛いほどに愛おしかった。
映画館を出た私たちは、少し歩き疲れた足を休めるために、モール内の落ち着いたカフェに入った。
温かいアールグレイの紅茶を前に、私は膝の上に置いた獏のぬいぐるみの頭を撫でながら、ずっと気になっていたことを口にした。
「ねえ、清隆。……どうしてあの映画を選んだの? クリスマスイヴに見る映画としては、かなり……というか、相当トンチンカンなチョイスだったと思うんだけど」
「そうか? 俺なりに計算して選んだつもりだったんだが」
清隆はコーヒーカップに口をつけ、淡々と答えた。
「一般的な恋愛映画の展開は、お前のような人間には予測が容易すぎて、知的好奇心を満たせないと判断した。お前なら、単調なラブストーリーよりも、ああいう予測不能で論理的な会話劇の方が楽しめるだろうと推測したんだ」
「……っ」
私は、言葉を失った。
イヴのデートとしては確かに0点に近いチョイスだ。
だが、清隆は『私という人間が何を好むか』『私に最も適したものは何か』を、彼なりのロジックで一生懸命に計算し、私を楽しませるための『最適解』を導き出そうとしてくれていたのだ。
(ああ、もう。本当に……本当に、そういうところよ)
私は思わず吹き出し、口元を手で覆いながらクスクスと笑い続けた。
「何がおかしいんだ」
「ううん、何でもない。……ふふっ、清隆らしいなって思って。イヴに見る映画としてはどうかと思うけど、映画自体はすごく面白かったわ。それに……」
私は膝の上の獏のぬいぐるみを持ち上げ、清隆に見せるように微笑んだ。
「このプレゼント、とっても気に入ったから。マルくんって呼んで大事にするわ」
私の言葉に、清隆は「そうか」とだけ言い、視線を窓の外のイルミネーションへと逸らした。
清隆のその反応が照れ隠しなのかどうかは分からない。だが、今の私にとっては、彼が私を喜ばせようと計算してくれた事実こそが、最高のクリスマスプレゼントだった。
カフェを出る頃には、外はすっかり暗くなり、ケヤキモールは聖夜のきらびやかな光に包まれていた。
「さて、そろそろ夕食の準備をしましょうか」
「外で食べないのか」
「イヴの夜に、予約もなしにまともなレストランに入れるわけないじゃない。今日は……私の部屋で、一緒に作って食べましょう」
清隆が『夜のプレイ内容』を指定する前に、私の方から舞台を私の部屋へと誘導する。
清隆の部屋ではなく、私のテリトリーである私の部屋に彼を招き入れること。それもまた、彼の日常に深く根を下ろすための重要なステップだ。
私たちはモール内の大型スーパーに立ち寄り、ディナーの買い出しをした。
「ローストチキンとか、時間のかかるメイン料理は出来合いのものを買っちゃいましょう。その代わり、サラダとスープは私が作るわ。清隆も手伝ってね」
「分かった。野菜を切るくらいならできる」
食材の詰まった袋を清隆に持たせ、私たちは女子寮にある私の自室へと向かった。
私の部屋は、清隆の殺風景な部屋とは違い、落ち着いたインテリアで統一されている。清隆が私の部屋に入るのは初めてではないが、こうして二人で生活感のある時間を過ごすのは新鮮だった。
「はい、エプロン。……似合わないわね」
「文句を言うなら脱ぐぞ」
キッチンで並んで立つ二人。
清隆が思いのほか器用な手つきでトマトを切り、私が手鍋でポタージュスープを温める。漂ってくる料理の匂いと、清隆と肩が触れ合うほどの距離感。
まるで、本物の恋人同士……いや、新婚の夫婦のような錯覚に陥りそうになる、甘く温かい時間。
「よし、完成ね」
テーブルには、買ってきたローストチキンと、彩り豊かなリース風のサラダ、そして温かいポタージュスープが並べられた。
シャンパングラスにノンアルコールのスパークリングワインを注ぎ、私たちは軽くグラスを合わせた。
「メリークリスマス、清隆」
「ああ」
ディナーを食べながら、私たちは映画の話や、今後の試験のことなど、他愛もない会話を楽しんだ。
清隆の食の好みや、フォークの動かし方。そんな些細な日常の断片を観察し、私のデータに書き加えていく。
食事が終わり、清隆がテーブルの上の皿を片付けてくれている間。
私は、先ほど買ってもらった『獏のぬいぐるみ』を手に取り、部屋の壁際に備え付けられた、少し高めの棚の上へと歩み寄った。
「ここにしようっと」
私はその奇っ怪なぬいぐるみを、部屋全体……特に、部屋の奥にあるベッドが一番よく見渡せる特等席に、ちょこんと座らせた。
「……レイ。そんなところに置いてどうするんだ」
手を拭きながらリビングに戻ってきた清隆が、怪訝そうに棚の上のぬいぐるみを見上げる。
「いいじゃない。せっかく清隆に買ってもらった記念のプレゼントだもの。部屋のどこからでも見える、一番目立つ場所に置いておきたいの」
私は棚から振り返り、ソファに腰を下ろす彼に向かって、ゆっくりと歩み寄った。
「改めて……今日はありがとう、清隆。すごく、すごく楽しいイヴのデートだったわ」
私は清隆の目の前に立ち、彼の首に腕を回して、その耳元で甘く、熱い吐息を吹きかけた。
「……さあ。昼の時間は、これでおしまい。ここからは……清隆が予約してくれた、『夜の予定』の時間よ」
私の声が一段低く、そして淫らな色を帯びる。
「約束通り、今日はあなたがすべてを決めていいわ。私がどんな服を着て、どんな風に扱われて、どんな声を出せばいいのか……あなたが望む『シチュエーション』を、私に命じてちょうだい」
部屋の明かりは、メインの照明を落とし、先ほどケヤキモールで買ったばかりのアロマキャンドルの揺らめく灯りだけになっていた。
シトラスとウッドが混ざり合った、深く落ち着く大人の香りが密室を満たしている。シャンパングラスに残ったノンアルコールの甘い香りと、暖房で温められた部屋の空気が、私の肌をじっとりと湿らせていた。
腰掛けたままの清隆の前に立ち、私は彼を挑発するように見下ろした。
清隆の無機質な瞳が、黒いタートルネック、そしてチェックのロングスカートへと、まるで精密なスキャナーのようにゆっくりと滑っていく。
先月の地獄のような「わからせ」の夜。あの時、清隆は私のプライドを粉々に打ち砕き、私が気を失うまで凶悪なピストンをやめなかった。
今日の清隆は、この絶対的な権限を与えられた聖夜の盤面で、一体どんなプレイを要求してくるのか。私は下腹部の奥でチリチリと燃え上がる恐怖と、それに相反する強烈な期待と快感の予感に震えていた。
「……そうだな」
数秒の沈黙の後。
清隆はソファからゆっくりと立ち上がり、私とつま先が触れ合うほどの距離まで近づいてきた。
清隆の体温が、冬の分厚い服越しに伝わってくる。
「せっかくのクリスマスイヴだ。互いに予定を合わせて、一日中一緒に過ごしてきた」
「……ええ、そうね」
「だから、今日は……急いで終わらせるような、暴力的なことはしない」
「え……?」
思いがけない言葉に、私は思わず目を見開いた。
ローターやバイブを使った責め苦や、両手を拘束しての強引な蹂躙。そんなハードなプレイを指定してくるものだとばかり思っていた私の予想は、見事に裏切られた。
「今日は、前戯の時間を長く取ろう。ただ激しく突き合うのではなく、お互いの肌の感触や、体温の変化をゆっくりと確かめ合うような……そういう時間にしたいと思う」
清隆の口から紡がれたのは、あまりにも『普通』で、そして甘い、恋人同士のような提案だった。
清隆のその言葉の裏にどんな計算があるのか、瞬時に私の脳内スーパーコンピューターが作動する。
(私の体力を温存させるため? それとも、焦らして精神的な依存度を高めるための罠? ……いや、深く考えるのはやめましょう。清隆が『普通に愛し合いたい』と言っているのなら、そのデータは私にとって何よりも貴重なものなんだから)
「……いいわよ。私も、清隆とゆっくり触れ合うのは好きだから」
私は清隆を見つめ返し、心の底から嬉しそうに、そしてとびきり甘く微笑んでみせた。
異論などあるはずもない。清隆が私をただの「肉便器」や「拷問の対象」ではなく、時間をかけて慈しむべき存在として扱おうとしている。その事実だけで、私の胸は甘い蜜で満たされていくようだった。
「なら、まずは……服を脱ごう」
清隆の大きな手が、私の襟元に触れる。
布擦れの音が、静かな部屋に色っぽく響いた。
清隆の手によって、黒のタートルネックがゆっくりと捲り上げられ、私の白い肌と、黒いレースのランジェリーが露わになった。
「ふふっ……私も、脱がせてあげる」
私も清隆に手を伸ばし、タートルネックのセーターを剥ぎ取った。
現れたのは、無駄な脂肪が一切なく、鋼のように鍛え上げられた完璧な肉体。
私はその胸板に手のひらを這わせ、清隆の熱を直接肌で感じ取った。
私たちは、そのまま吸い寄せられるように、広いベッドへと倒れ込んだ。
「んっ……ちゅ、あ……っ」
唇が重なる。
いつものような、息の根を止めるような強引なディープキスではない。
唇の輪郭を確かめ、舌先を甘く絡ませ、お互いの唾液をゆっくりと交換し合うような、ねっとりとした甘いキス。
「清隆……っ、ん、きもち、いい……」
清隆の手が、私の背中から腰、そして太ももへと、まるで宝物を扱うかのように優しく滑っていく。
清隆の手のひらが体に触れるたびに、ビクッ、ビクッと甘い痙攣を引き起こす。
激しいピストンがなくとも、ただ撫でられるだけで、私の体は先月の恐怖と快楽の記憶を呼び起こし、勝手に熱を帯びて愛液を滲ませ始めていた。
「ハァッ……清隆、もっと……触って……っ」
私は清隆にすがりつき、その広い背中に腕を回した。
首筋に清隆の顔が埋められ、熱い吐息と、吸い付くようなキスの感触が降ってくる。
気分は最高潮に盛り上がり、私の頭の中は清隆への愛おしさと快感で完全に溶けかかっていた。
(ああ、もうダメ……そろそろ、次に進んでほしい……!)
清隆の下半身の熱も、すでに限界近くまで硬く、熱く膨張しているのが、太ももにあたり、伝わってくる。
「清隆……入れて……私の中、もう……」
私がそう口走り、清隆にさらに身を寄せようとした、その時だった。
――ジィィィィィィッ。
ふと、私の視界の端に、強烈な『違和感』が飛び込んできた。
私の上に覆い被さっている清隆の、その広い肩越し。
部屋の壁際に設置された、高めの棚の上。
先ほど私が、このベッドが一番よく見える特等席に置いた、あの奇っ怪な『獏のぬいぐるみ』。
その、無機質で、丸く、どこか不気味な黒い瞳が、ベッドの上で裸で絡み合う私と清隆の姿を、じっと、穴が開くほど見つめ下ろしているように見えたのだ。
「……っ!」
ただの綿と布の塊だ。生きているはずがない。
しかし、映画の中で三時間も『哲学的な案内人』として語り続けていたその姿のせいか、薄暗いキャンドルの灯りの中で見下ろしてくるそのぬいぐるみは、まるで意志を持って私たちの性行為を「観測」しているかのように感じられたのだ。
「待っ……ちょっと、待って、清隆」
私は思わず、清隆の広い胸板を両手で押し返した。
「……どうした。痛かったか」
清隆が動きを止め、少しだけ不思議そうな顔で私を見下ろす。
「違うの、痛くないんだけど……その……」
私はベッドから身を乗り出し、棚の上のぬいぐるみを指差した。
「マルくんに……見つめられてるような気がして。なんか、すごく恥ずかしくなっちゃって……」
自分でもバカバカしいとは思いながらも、どうしても気になってしまう。
私は慌ててベッドから立ち上がり、裸のまま棚まで小走りで向かうと、ぬいぐるみの体をクルッと反転させ、壁の方を向かせた。
「ふぅ……これでよし。ごめんなさい清隆、変なところで止めちゃって。さあ、続きを……」
私がベッドに戻ろうと振り返ると。
清隆はベッドの上に胡座をかいたまま、ピタリと動きを止め、何かを深く、恐ろしいほどの速度で演算しているような、鋭い瞳で私を見つめていた。
「……清隆?」
清隆の様子がおかしい。
普段なら「くだらないことを気にするな」と一蹴するか、あるいは私の行動を無視して強引に続きを始めるはずだ。
しかし今の清隆は、顎に手を当て、壁を向いた獏のぬいぐるみと、恥じらいで頬を赤くしている全裸の私を交互に見比べながら、何事かを思案しているようだった。
やがて、清隆の凪いだ瞳の奥に、暗く『異質な光』が灯った。
「……レイ」
「な、なに?」
「さっきお前は、あのぬいぐるみに『見られているようで恥ずかしい』と言ったな」
「え、ええ。だって、目が合ってるみたいで……」
清隆はゆっくりとベッドから降り、私が壁に向けたばかりのぬいぐるみのもとへと歩み寄った。
そして、その奇っ怪な獏を片手で掴み上げると、再びベッドの方へと振り返った。
「プレイの内容を、変更しよう」
「……へ?」
「前戯を長く取るという方針は取り下げる。今から、設定を変える」
清隆の口から飛び出した言葉に、私はポカンと口を開けた。
「今から、このぬいぐるみはお前を深く愛し、お前と付き合っている『本当の彼氏』のマルくんだ」
「……はあ!?」
「そして俺は、その彼氏の目の前で、彼氏の愛する女を無理やり奪い、凌辱する『間男』だ。……お前は、大好きな彼氏の目の前で、俺のテクニックに逆らえず、快感に堕ちていく淫乱な女を演じろ」
しんと静まり返った部屋の中で、キャンドルの火がパチッと音を立てた。
(……はあぁぁぁっ!?)
私の脳内処理が、完全にフリーズした。
「見られていて恥ずかしい」という私のささやかな乙女心を、清隆は一体どう解釈したのか。
『見られて恥ずかしい』=『他者の視線に羞恥心を抱く』=『ならば、その羞恥心を最大限に増幅させるシチュエーションを構築すれば、より深い精神的負荷と快感を与えられる』。
おそらく、清隆の合理主義の脳内では、そんな狂ったロジックが瞬時に組み上がってしまったに違いない。
(清隆……壊れちゃった?)
私は内心でそう思った。
いくらなんでも、ただの獏のぬいぐるみを「彼氏」に見立てて、その前で寝取られ(NTR)プレイをしようだなんて。異常すぎる。変態の域を遥かに超えている。
私は思わず、その思いを口に出してしまっていた。
「ちょっと、清隆! いくら何でもそれは……」
私の抗議に対し、清隆は全く悪びれることなく、むしろ真剣な顔で答えた。
「お前が『俺の好きなシチュエーションを命じていい』と言ったんだ。俺は、お前が最も羞恥心を感じ、心を乱す設定にしただけだ。……それとも、今さら約束を反故にするのか」
「うっ……」
痛いところを突かれた。
確かに私は、清隆にすべての決定権を委ねた。「どんなプレイで、どんな風に扱われてもいい」と宣言したのは私自身だ。
それに。
(……冷静に考えなさい、レイ)
私は瞬時に頭を切り替えた。
今日の私の本来の目的は、『彼にシチュエーションを選ばせ、彼の隠された性癖を丸裸にすること』だ。
そして今、清隆は自ら「寝取られ」「視姦」「他者への見せつけ」という、極めてマニアックで倒錯したシチュエーションを提案してきた。
(なるほど……清隆の奥底にある欲望は、単なる暴力的な支配だけじゃない。誰かから『奪う』ことや、他者の視線を感じながら相手を『堕とす』ことに興奮を覚える、支配欲……!)
これは、大きなデータだ。
このロールプレイに完璧に付き合い、清隆の望む通りに「彼氏の目の前で狂っていく女」を演じ切れば、彼はこのシチュエーションに依存し、私から離れられなくなるはずだ。
「……分かったわ」
私は大きく息を吸い込み、不敵な、そして淫らな笑みを浮かべ直した。
「あなたがそこまで言うなら、付き合ってあげる。……大好きな彼氏の目の前で、間男にめちゃくちゃにされる可哀想な女の子。最高の演技で、あなたを満足させてあげるわ」
「言質は取ったぞ」
清隆は満足げに頷くと、手に持っていたぬいぐるみを、ベッドの足元のスツールの上に置いた。
ぬいぐるみの顔が、ベッドのど真ん中――ちょうど私たちの行為の全貌が見渡せる位置へと、真っ直ぐに向けられる。
「座れ」
清隆の命令に従い、私はベッドの中央に、ぬいぐるみに正面を向ける形でペタンと座り込んだ。
清隆は私の背後に回り、私の背中に自分の広い胸板を密着させるようにして、後ろから私をすっぽりと抱きしめる体勢を取った。
「さて……ゲームの始まりだ」
清隆の低く、冷たい声が、私の右耳のすぐ傍で囁かれた。
私の視界の正面には、薄暗い部屋の中で、丸い黒い瞳を不気味に光らせている獏のぬいぐるみが鎮座している。
「おい、見ているか」
清隆が、突然ぬいぐるみに向かって話しかけた。
その声は普段の彼とは違う、意地悪で、酷薄な『奪う男』の演技が乗っていた。
「お前の大切な彼女は、今俺の腕の中にいるぞ。お前が触れられないこの女の体を、今から俺が隅々まで味わい尽くしてやる」
「あっ……やめっ……」
私は演技として、弱々しい抵抗の声を上げた。
清隆の大きな手が、背後から私の両胸を包み込み、キャンドルの灯りに照らされた白い肌を、容赦なく揉みしだき始める。
「やめろ、だと? 嘘をつくな。お前の彼女、俺に触られただけで、もうこんなに胸の先端を尖らせているぞ」
指先で乳首を摘まれ、コリコリと弾かれる。
「ひっ……あぁんっ!」
「おい、よく見ておけ。お前の彼女は、俺の指先一つでこんなだらしない声を出す、淫乱な雌だ」
「や、やめて……っ! 見ないで……マルくん、見ないでぇっ!」
私は首を横に振りながら、正面のぬいぐるみに向かって涙声で叫んだ。
最初は、こんな茶番劇、おかしさが勝っていた。ただの綿の塊に向かって彼氏を呼ぶような声で「マルくん」と呼びかけ、背後から撫で回されるだけのロールプレイ。
しかし。
(……な、なにこれ。どうして……)
私の体は、私の理性の予想を遥かに超えて、異常なほどの熱を帯び始めていた。
正面に置かれたぬいぐるみ。
その無機質で動かない目が、キャンドルの炎の揺らぎによって、まるで本当に「絶望しながら私を見つめる彼氏の瞳」のように錯覚し始めてきたのだ。
『見られている』という強烈な意識。
自分の最も恥ずかしい部分、快感に溺れていくだらしない顔を、愛する人に特等席で観測されているという、極限の背徳感。
「ああっ……んんっ……だめぇっ……!」
「声が大きいぞ。彼氏に、お前が俺に感じていることがバレてもいいのか?」
清隆の手が、胸から下腹部へと滑り降りる。
私の股間は、先ほどまでの甘い前戯のせいもあるが、それ以上にこの「見せつけプレイ」による異常な羞恥心のせいで、すでに経験したことのないほどの大量の蜜を溢れさせていた。
「おい、彼氏。お前の彼女のここ……信じられないくらい濡れてるぞ。俺が触る前から、俺に抱かれることを想像して発情してたってわけだ」
「ちがっ……ちがうの、これは……っ!」
「何が違うんだ? ほら、証拠を見せてやる」
背後から私を抱きかかえたまま、清隆は私の濡れそぼった秘部へと、中指と薬指をゆっくりと、しかし容赦なく沈め込んだ。
「あ゛ッ――――!!」
背筋を突き抜けるような快感に、私は弓なりに体を反らせた。
「ぐちゅっ、ずちゅっ」と、卑猥な水音が部屋に響き渡る。
清隆は私の内側の最も敏感なスポットを的確に捉え、彼氏(ぬいぐるみ)に見せつけるように、わざと大きく指を出しいれし始めた。
「ひぃっ、あひぃっ! だめ、だめぇっ! マルくんが見てるのにっ、あぁぁっ!!」
「見てるから感じるんだろう? 違うか?」
「ちが、あっ、ちがうっ……感じるわけないのに、ああっ! きもち、いいっ!」
頭の中が、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。
これはただのプレイだ。ただのぬいぐるみだ。
なのに、私の心は完全にこのシチュエーションに呑み込まれ、「愛する彼氏を裏切って、力づくで侵してくる間男のテクニックに屈服してしまう哀れな女」へと成り下がっていく。
「はぁっ……はぁっ……もう、やめて……っ」
「やめない。お前がどれだけ俺の指で狂っているか、彼氏に最後まで見届けてもらわないとな」
清隆の指のストロークが加速する。
私の体は、彼氏(ぬいぐるみ)の視線という見えない鎖でベッドに縛り付けられながら、背後からの暴力的な快感にただただ翻弄されていた。
全身の肌が、羞恥心と興奮で燃えるような桜色に染まっていく。
「あ゛っ、あ゛ぁぁぁっ! いく、いくぅっ!!」
清隆の指先が、私の子宮口を激しく弾いた瞬間、私は堪えきれずに一度目の絶頂を迎えた。
ガクガクと体を痙攣させ、涎を垂らしながら、私は正面の彼氏に向かって情けなく泣き叫んだ。
「ごめんなさいっ……マルくん、ごめんなさいぃっ……! 私、こんな男の指でっ……あぁぁぁっ!」
「……よく鳴く女だ」
絶頂の余韻でぐったりと寄りかかる私の耳元で、清隆が低く笑うような息を吐いた。
ズチュッ。
清隆が、私の中から指を引き抜いた。
そして、私の肩越しに手を伸ばし、自らのその指を――私の愛液が照明を反射していやらしく光り輝く二本の指を、正面の彼氏の目の前へと突きつけたのだ。
「見ろ。これが、お前の愛する彼女の中から溢れ出した蜜だ」
「あ……ぁ……っ」
自分の体液を、彼氏の目の前で見せつけられる。
その圧倒的な視覚的凌辱に、私の残されたわずかな理性は完全にメルトダウンを起こした。
「これだけじゃ足りないな。……おい、次は俺のモノがお前の彼女の奥深くまで突き刺さる様を、特等席で見学させてやるよ」
清隆はそう言い放つと、座り込んでいる私の脇の下に両腕を差し入れ、強引に私を抱き抱えて立ち上がった。
「きゃっ……!? なに……っ!」
私の体は宙に浮き、清隆の強靭な腕力によって、いわゆる『背面抱っこ』の体勢で固定された。
私の両脚は大きく開かされ、最も無防備で、最もいやらしい秘部の全貌が、真正面にいる彼氏の目に、一切の遮蔽物なく晒される形となった。
「ひっ……! い、いやっ! そんなに開かないでっ! 丸見えになっちゃうっ!」
私は羞恥のあまり、両手で顔を覆い隠そうとしたが、清隆に手首を掴まれ、強引に彼氏の顔を見据えさせられた。
「逃げるな。お前を愛している男の目を、しっかり見ていろ」
そして。
一切の前触れもなく。
私を宙に抱え上げたままの清隆の下半身から、凶悪なまでの熱量と質量を持った彼の楔が、私の最奥へと、一息に、根元まで叩き込まれたのだ。
「あ゛――――――――――ッッ!!!!」
声帯が千切れるほどの絶叫。
立位での背面挿入。重力に逆らって清隆に抱え上げられているため、私自身の体重が加わり、普段のベッドの上よりも遥かに深く、えげつない角度で私の子宮が貫かれる。
「どうだ、彼氏。お前の彼女、俺のモノを根元まで咥え込んで、めちゃくちゃ喜んでるぞ」
ズンッ! ズンッ! ズンッ!
「あ゛っ、あがっ! ぁぁぁっ! むり、むりぃっ!!」
「ほら、彼氏に言ってやれ。『あなたのモノより、この俺のモノの方が大きくて気持ちいいです』ってな」
「いやっ、言わないっ……そんなこと、あ゛あ゛っ! そこっ、深く入りすぎっ!!」
私の体は、清隆の腕の中でただの肉の振り子と化していた。
打ち付けられるたびに、私と清隆の結合部が、ぐちゅ、ぱちゅ、という卑猥な破裂音を立て、愛液が空中に飛沫を上げて飛び散る。
そのすべてを、正面の彼氏が無言で見つめている。
(あ、ああ……私、本当に……彼氏の目の前で、寝取られてる……っ!)
見られてはいけない。感じてはいけない。
でも、見られているからこそ、頭がおかしくなるほどに気持ちいい。
強烈な背徳感と、清隆の容赦のないピストンの物理的な快感が、私の思考を完全にホワイトアウトさせていった。
「あ゛あ゛あぁぁぁっ!! もう、もう許してぇっ! マルくん、助けてぇっ!!」
私は狂ったように首を振り、涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにしながら、正面の彼氏に命乞いをした。
「助けて、だと? お前、さっきから俺のモノを中からギュウギュウ締め付けて、離そうとしないくせに」
「ちが、これはっ……体が勝手にっ、ああっ! ぁぁぁっ!!」
清隆のストロークが、さらに速度と重さを増していく。
立位で私を支えているというのに、清隆の呼吸は全く乱れていない。この異常なまでの体力と体幹の強さが、清隆の打ち込む楔に圧倒的な破壊力を生み出している。
「おい、彼氏。よく見ておけ。お前の彼女が、完全に俺の雌に堕ちる瞬間をな」
「あ゛っ、あ゛っ、あ゛ぁぁぁっ!! だめ、だめぇっ!!」
私の中で、何かが完全に弾け飛んだ。
もう、演技でも何でもない。私は清隆に心身を支配され、快楽の波に呑み込まれるだけの淫乱な肉袋だった。
「ごめんなさいっ! マルくん、ごめんなさいぃっ! 私、もうだめっ……清隆の大きいので、いっちゃうっ! いっちゃうぅぅぅっ!!」
私は両目で彼氏をしっかりと見据えながら、自ら敗北と裏切りの言葉を叫んだ。
「――いくぞ」
清隆の低い声が耳元で響いた瞬間。
私の子宮の最奥、最も深い場所を、清隆が全霊の力で突き上げた。
「あ゛――――――――――ッッ!!!!!!」
同時に、彼の中で限界を迎えていた熱く濃密なマグマが、私の胎内へと勢いよく、何度も何度も叩きつけられるように解き放たれた。
その信じられないほどの熱量と、子宮が内側から膨張するような圧倒的な侵入感に、私の神経は完全に焼き切れた。
「あ゛ぁぁぁぁぁぁっ……!! あ、ああっ……!!」
極限の絶頂。
私の体は彼の腕の中で激しく痙攣し、私の体液が決壊したダムのように、秘部から激しく、そして美しく噴き出した。
プシューッ、という水音とともに。
「あ……ぁ……あ……っ」
私は白目を剥き、口からよだれを垂らしながら、完全に意識を手放した。
「……んっ、ぁ……」
意識の底から浮上するように、重い瞼をゆっくりと押し上げた。
間接照明の薄暗い光と、シトラスとウッドが混じり合ったアロマキャンドルの香りが、霞む視界と鈍った嗅覚にじわじわと流れ込んでくる。
全身の筋肉は、限界を超えた運動の後のようにダルく、指先一つ動かすのにも億劫なほどの気だるさに包まれていた。特に下半身から腰にかけては、痺れるような熱と、使い物にならないような脱力感が支配している。
(……私、また……気を失ってたのね……)
脳裏に、先ほどの狂気じみたロールプレイの記憶がフラッシュバックする。
『大好きな彼氏の目の前で、間男に寝取られ、力ずくで堕とされる女』。
清隆が即興で作り上げたその異常なシチュエーションと、背面抱っこでの強引な蹂躙。圧倒的な羞恥心と背徳感が私の理性を粉々に吹き飛ばし、私は清隆に言われるがままに、みっともなく潮を吹いて絶頂したのだ。
「……目覚めたか」
すぐ隣から、静かな声が降ってきた。
顔だけを動かしてそちらを見やると、シーツに身を預け、腕枕のような形で私を抱き寄せている清隆の姿があった。
清隆の体も汗ばんでおり、私が残した爪痕が背中や肩にうっすらと赤く浮き出ている。だが、その瞳は相変わらず凪いでおり、先ほどまでの荒々しい猛獣のような姿が嘘のように静まり返っていた。
「……清隆、あなたねぇ……いくらなんでも、あれは……っ」
抗議しようとした私の声は、ひどく掠れていた。喉の奥がカラカラに乾いている。
私が体を起こそうとした、まさにその時だった。
視界の端、ベッドの足元に置かれたスツールの上に、何かが転がっているのが見えた。
「……え?」
私は目を凝らした。
そこにあったのは、映画館で清隆がプレゼントしてくれた、あの奇っ怪な『獏のぬいぐるみ』だった。
清隆が「彼氏」の役として特等席に座らせた、あのぬいぐるみ。
その顔の半分と、丸みを帯びた胴体部分が。
私が絶頂の瞬間に盛大に噴き出した潮によって、べったりと、しっとりと濡れそぼっていたのだ。
「――――ッ!!」
私の思考回路が、一瞬だけ完全に停止した。
そして次の瞬間、怒りと羞恥心が、一気に全身を駆け巡った。
「ちょ、ちょっと清隆ぁっ!! なにこれ! 何してくれてるのよ!!」
私は痛む腰を庇うことも忘れ、シーツを跳ね除けてベッドから身を乗り出した。
スツールの上に無残に転がっているぬいぐるみは、水分を吸って少し重たげにぐったりとしている。
見間違えようもない。私が噴出した体液の直撃を受け、見るも無惨な姿に成り果てていた。
「なにって。見れば分かるだろう。お前が絶頂のあまり、自らの意志で彼氏を汚したんだ」
清隆はベッドに寝転がったまま、どこ吹く風といった様子で淡々と事実を述べる。
「違うわよ! 私が自分で狙ってやったわけないじゃない! あなたがわざと……そう、私が潮を吹くタイミングを見計らって、マルくんの正面に私を向けたんでしょう!? 絶対狙ってやったわね!」
「……人聞きの悪いことを言うな。俺はただ、俺が設定したシチュエーションの『ロールプレイの完成度』を極限まで高めただけだ」
「完成度って何よ! 自分の彼女が間男にめちゃくちゃにされて、おまけに体液までぶっかけられる彼氏の身にもなりなさいよ!」
「だからこそ、最高の絶望感を演出できたはずだ。お前も、あの瞬間が一番声を出して感じていたじゃないか」
「うっ……! そ、それは……っ!」
言い返そうとしたが、清隆の言う通り、あの瞬間の快感と背徳感は私の人生で経験したことのないレベルに達していた。その事実が、私の怒りの矛先を鈍らせる。
「でも! でもね!」
私はスツールからぬいぐるみをそっと持ち上げた。布地に染み込んだ生温かい水分が、手のひらに伝わってくる。
「これ……清隆が、せっかく私にプレゼントしてくれたものなのに……。イヴの記念にって、あなたが自分で買ってくれたのに……それを、こんな風にするなんて、あんまりじゃない」
声が、少しだけ震えてしまった。
自分でも予想外だった。ただの変なぬいぐるみだ。でも、清隆が、私を楽しませるために計算して映画を選び、私の視線の先を読んで無言で買ってくれた、不器用だけれど確かな『優しさ』の証。
それを、こんなプレイの小道具として汚してしまったことが、純粋に悲しかったのだ。
私がぬいぐるみを抱え、本気で泣きそうな顔をしているのを見たからだろうか。
清隆はベッドの上で、少しだけ居心地が悪そうに身じろぎをした。
あの冷徹な合理主義の塊である清隆が、私の『プレゼントを大切にしたい』という感情の重さを、ほんの少しだけ測りかねているような、そんな表情だった。
やがて、清隆は小さく息を吐き、ベッドからゆっくりと立ち上がった。
「……悪かった」
「え……?」
「まさか、お前がそこまでそのぬいぐるみに愛着を持っているとは思わなかった」
清隆はそう言うと、私の手から湿ったぬいぐるみをそっと受け取った。
「俺も綺麗にするのを手伝う。風呂場に行くぞ」
「き、清隆……?」
「そのまま放置すれば、カビが生えるか異臭を放つことになる。今すぐ洗えば、元通りになるはずだ」
事も無げに言ってのける清隆。
私は唖然として清隆を見上げた。あの綾小路清隆が、自分のプレイで汚したぬいぐるみを、わざわざ一緒に洗おうと提案してきているのだ。
清隆なりの、不器用すぎる『罪滅ぼし』。
「……っ、ふふっ」
私は、さっきまでの怒りも悲しみも忘れ、思わず吹き出してしまった。
「何がおかしい」
「ううん。……清隆って、本当に変なところで几帳面というか、律儀よね。分かったわ、一緒に洗いましょう」
私たちはバスローブを羽織り、連れ立ってバスルームへと向かった。
クリスマスイヴの夜。
豪華なディナーを食べ、映画を見て、狂気的な寝取られプレイで絶頂を迎えた後。
その締めくくりが、「二人で風呂場にしゃがみ込み、体液で汚れたぬいぐるみを洗う」という、あまりにもシュールで生活感に溢れた光景になるとは、昨日の私には到底予想できなかっただろう。
「……おしゃれ着用の、中性洗剤がいいわね。生地が傷むといけないから」
「これか」
洗面器にぬるま湯を張り、洗剤を少しだけ垂らす。
その中に、獏のぬいぐるみをそっと沈めた。
「ほら、清隆。ゴシゴシ擦っちゃダメよ。優しく、押し洗いするようにして汚れを出すの」
「こうか?」
「そうそう。……ちょっと、力が強いわよ! もっと優しく!」
清隆の大きな手が、不器用な手つきでぬいぐるみをモミモミと押している。
私はその隣にしゃがみ込み、清隆の手に自分の手を重ねて、洗い方を教えた。
泡立った洗剤のいい香りが、バスルームに広がっていく。清隆の指先から伝わってくる確かな体温と、水と泡が立てる柔らかい音。
(……なんだか、不思議な気分)
先ほどまで、あんなに残酷で冷徹な「間男」を演じ、私の理性をメチャクチャに破壊していた清隆が。
今は真剣な顔をして、私のために、ぬいぐるみの汚れを一生懸命に落とそうとしている。
この極端な落差。狂気と日常のシームレスな行き来。
それが清隆という男の底知れない魅力であり、私がどうしようもなく惹きつけられ、逃れられなくなっている理由なのだ。
「……落ちたか?」
「うん、だいぶ綺麗になったみたい。あとは何回かすすいで、水気を切るだけよ」
シャワーのぬるま湯で丁寧に泡を洗い流し、バスタオルでぬいぐるみを包み込んで、優しくポンポンと叩くようにして水分を吸い取る。
「よし、これで第一段階はクリアね。次はドライヤーよ」
私たちはバスタオルに包まれた獏を抱えて、再び洗面台の前へと戻った。
「はい、清隆。ドライヤー係をお願い」
私は清隆にドライヤーを渡し、ぬいぐるみを両手で支え持った。
「熱風でいいか」
「ダメよ! 熱風を当てすぎると、化学繊維が縮んだりゴワゴワになっちゃうの。時間がかかってもいいから、『冷風』で少しずつ乾かしてちょうだい」
「……やけに手がかかるな。了解した」
清隆はドライヤーのスイッチを入れ、冷風のモードに切り替えた。
ブォォォォ……という単調なモーター音が、深夜の洗面所に響き渡る。
清隆は文句を言いながらも、私が支えるぬいぐるみに対して、均等に風が当たるように丁寧にドライヤーを動かしてくれた。
「もっとこっち側。お腹のあたりがまだ湿ってるわ」
「お前が回せ」
「はいはい」
ドライヤーの風を浴びながら、私たちは他愛もない会話を交わした。
「……そういえば、清隆。この映画、どうやって見つけたの?」
「検索だと言っただろう。いくつか候補があったが、これが一番お前の興味を惹きそうだったからな」
「……悪くないチョイスだったわ。少なくとも、ありきたりな恋愛映画を見るよりはずっと有意義だったし」
風に揺れる私の髪と、清隆の真っ直ぐな視線。
この穏やかな時間が、ずっと続けばいいのに。
私の奥底で、そんな純粋で女の子らしい願いが静かに膨らんでいくのを感じていた。
やがて、数十分の格闘の末。
「……そろそろ、いいんじゃないか」
清隆がドライヤーのスイッチを切った。
「うん、完璧! 触ってみて。ふわふわに戻ったわよ!」
私はぬいぐるみを清隆の顔の前に突き出した。
清隆は指先でぬいぐるみの頭を軽く撫で、「確かに、元通りだな」と短く同意した。
「ふふっ、よかったぁ……。ありがとね、清隆。一緒に洗ってくれて」
「俺が汚したようなものだからな。気にするな」
私は綺麗に乾いたぬいぐるみを抱きしめ、頬ずりをしてその感触を楽しんだ。
シトラスのアロマとは違う、ほんのりとした洗剤の清潔な香りがする。
「さて、この子をどこに置くかだけど……」
私は部屋に戻り、ぬいぐるみの配置場所を探して室内を見回した。
「さっきと同じ、棚の上でいいんじゃないか」
清隆が言うが、私は即座に首を横に振った。
「冗談じゃないわ。あんな、ベッドのど真ん中が見下ろせる特等席に置いたら、また清隆が変なスイッチを入れて、間男プレイの被害に遭わせるかもしれないじゃない」
「俺はそこまで単純じゃないぞ」
「信用できないわよ。さっきのあなたのノリノリっぷりを見たらね」
私は部屋の奥へと歩き、ベッドからは完全に死角になる、テレビボードの横の小さなシェルフに目をつけた。
「ここね。ここならベッドは見えないし、普段生活してるときにはちゃんと目に入るから」
私は獏のぬいぐるみを、壁側を背にしてちょこんと座らせた。
これなら、もう二度と彼氏役として絶望的な光景を見せつけられることも、私の体液を被ることもない安全地帯だ。
「これでよし、と」
私は満足げに手を叩き、清隆の方を振り返った。
時計を見ると、時刻は完全に夜の時間になっていた。
清隆は、脱ぎ捨てていた無地のタートルネックのセーターを頭から被り、その上に落ち着いた色合いのピーコートを羽織っていた。
帰り支度だ。
「……もう、帰るのね」
「ああ。さすがに遅い時間だ。お前もゆっくり休んだ方がいい」
「そうね。今日は……本当に色々とあったし、体力的にも限界かも」
私はベッドの端に腰掛け、毛布を肩から羽織りながら清隆を見上げた。
クリスマスイヴの一日。
昼のショッピング、映画、ディナー。そして夜の、狂気的な寝取られプレイと、シュールなぬいぐるみのお洗濯。
感情のジェットコースターのような一日だったが、私の心の中には、清隆との繋がりが確かに深まったという、絶対的な自信と満ち足りた幸福感があった。
(清隆に私の要望を通し、彼の隠された性癖を知り、一緒に日常の些細なトラブルも解決した。……完璧よ。これで、清隆はもう私から離れられない)
彼がピーコートのボタンを留め、机の上に置いていた端末をポケットにしまう。
「じゃあな。また学校で」
「ええ。気をつけて帰ってね」
清隆がドアノブに手をかけた、その時だった。
私は、本当に何気なく。
特に深い意図も、疑いも、計算もなく、ただの雑談の延長として、彼に問いかけたのだ。
「あ、そうだ清隆。……明日は、何か予定があるの?」
ケヤキモールでのグループの会話を思い出していた。
『クリスマスイヴはちょっと用事があるが、クリスマス当日は予定はない』と、清隆は皆の前で答えていた。
だから私は、清隆が明日は寮の部屋でゆっくり本でも読んで過ごすのだろうと、無意識のうちに思い込んでいたのだ。
ドアを開けようとしていた清隆の動きが、ふと止まった。
清隆はドアノブを握ったまま、顔だけを少しこちらに向け、相変わらずの無機質で、平坦な声で答えた。
「ああ。明日は、軽井沢と平田、それと佐藤と……ダブルデートだ」
「……」
「昼からケヤキモールでな。じゃあ、おやすみ」
ガチャリ、バタン。
静かな金属音とともに、部屋のドアが閉まり、オートロックが施錠される音が冷たく響いた。
「…………え?」
沈黙。
暖房の効いた私の部屋に、アロマキャンドルの甘い香りと、微かな冷蔵庫のモーター音だけが残された。
私はベッドの端に腰掛けたまま、ぽかんと閉まったドアを見つめていた。
(……ダブル、デート?)
今、清隆は何と言った?
明日は、軽井沢と、平田と、佐藤と……ダブルデート?
私の脳内スーパーコンピューターが、彼の残した短い言葉を解析しようとフル稼働を始める。
佐藤麻耶。軽井沢恵。平田洋介。
この四人で、ダブルデート。つまり、清隆の相手は佐藤さんということになる。
「……」
私は数秒間フリーズした後、小さく息を吐き出してベッドにコロンと仰向けに寝転がった。
(焦ることはないわ、レイ。冷静に考えなさい)
クリスマス当日という特別な日に、清隆が他の女子とデートをする。普通の女の子ならここで発狂して泣き叫ぶところだろう。だが、私は清隆のことを、他の誰よりも知っている。
清隆が、あの佐藤さんと『本当にいい関係』になることなど、万に一つもあり得ない。
佐藤さんは確かに可愛らしい女の子だが、清隆の底知れない闇や知性を理解し、受け止めることなど絶対に不可能だ。清隆自身も、彼女に本気で惚れるような単純な感情回路は持ち合わせていない。
おそらく、軽井沢や平田といったクラスの重要人物たちを間近で観察するためか、あるいは「普通の高校生としての恋愛イベント」を経験しておくためのデータ収集か……何らかの計算があっての行動に違いないのだ。
「でも……それはそれとして、やっぱり気に入らないわね」
私は天井に向かって、むすっとした顔で呟いた。
いくら裏に計算があろうと、イヴの夜に私を抱いておきながら、その翌日には別の女と爽やかにダブルデートに向かうだなんて。清隆のその恐るべき切り替えの早さと図太さには、呆れを通り越して腹立たしさすら覚える。
(そもそも、今日のイヴのデートは、清隆に私を『恋人』として意識させるための第一歩になるはずだったのに)
寝返りを打ち、シーツに顔を埋める。
私の完璧な計画はどうなった? 清隆にシチュエーションを選ばせ、彼の性癖を探り、私なしではいられない体にするはずが。
「蓋を開けてみれば……あいつ、私の彼氏から私を奪う『寝取り男(間男)』に進化……いや、退化? しちゃったじゃない……」
思い出すだけで顔から火が出そうになる。
私を恋人にするどころか、清隆は「間男」という狂ったポジションにすっかりノリノリになってしまっていた。私の計画を全力でぶち破る清隆の予測不能さ。
「……ふふっ。本当、なかなか計画通りにはいかないわね」
私はシーツに顔を押し付けたまま、クスクスと笑い声を漏らした。
悔しいけれど、やっぱり清隆を攻略するのは一筋縄ではいかない。だからこそ、最高に面白くて、最高に燃えるのだ。
勝負はまだまだこれからだ。
彼が明日、佐藤さんたちとどんなデートをしようと知ったことではない。
それに。
(今日のデートは……本当に、すっごく楽しかったもの)
ボルドーのストールを「似合う」と肯定してくれたこと。
トンチンカンな確率論の映画を真剣に選んでくれたこと。
私が欲しそうにしていた不格好なぬいぐるみを、何も言わずにプレゼントしてくれたこと。
そして、私の体液で汚れたそれを、風呂場で一緒に一生懸命洗ってくれたこと。
明日清隆が別の場所で誰かと過ごすとしても、今日、私と彼が一日中一緒に過ごし、こんなにも濃密で、狂おしくて、甘い時間を共有したという『事実』は、絶対に誰にも奪えないし、変わらないのだから。
「あーあ……疲れたっ」
私は大きく伸びをして、筋肉痛で軋む体を労りながらベッドの布団にきちんと潜り込んだ。
隣にはもう清隆はいないけれど、シーツや枕からは、彼の体温と、彼自身の匂いがまだ色濃く残っていた。
「明日は……一日中、この匂いに包まれて寝てようっと」
私は清隆の匂いが染み付いた枕をギュッと抱きしめた。
思い通りにならない清隆への僅かな苛立ちと、それを遥かに上回る深い愛情と、満ち足りた余韻。
それらを心地よく胸の中で混ぜ合わせながら、私はゆっくりと目を閉じ、クリスマスの甘い眠りへと落ちていった。