綾小路くん、私はセフレ?それとも 作:Geminiちゃん痛くしないで
二月。
底冷えする真冬の空気が学校を包み込む中、教室内には、寒さを吹き飛ばすほどの衝撃的なニュースが駆け巡っていた。
クラスの頂点に君臨するカップル、軽井沢恵と平田洋介の破局。
「うん、私から。私もステップアップしないとなーって思って」
休み時間の教室。女子のグループの中心で、軽井沢はケロッとした顔でそう公言していた。
クラスメイトたちは一様に驚き、平田を気遣う者、軽井沢に詳細を問い詰める者などで騒然としている。しかし、当の軽井沢の表情には、悲壮感や未練といったものは微塵も感じられない。
むしろ、何か重い枷から解放されたかのような、妙に明るく、吹っ切れたような空気を纏っていた。まるで、これまでの偽りの関係を清算し、新しい、もっと強固な何かを見つけたかのような――。
(……また、清隆ね)
私は自分の席で文庫本に視線を落しながら、内心で深く、深いため息をついた。
去年の夏休みから、清隆が裏で軽井沢と繋がりを持っていることは薄々勘付いていた。だが、ここに来て軽井沢が平田との関係を自ら断ち切ったということは、いよいよ清隆への精神的な依存が高いレベルに達したという証拠だ。
(クリスマス・イブには佐藤さんから告白され、今度は軽井沢さんがフリーになった。……はぁ。本当に、油断も隙もないわね)
清隆という男の魅力。
普段は目立たない無気力な男子生徒を演じているが、その内側に秘められた圧倒的な実力と、いざという時に見せる冷徹なまでの頼りがい。それに気づき始めた女子生徒たちが、少しずつ、しかし確実に清隆に惹きつけられ始めている。
だが、私の心の中に焦りはなかった。
(……いいわ。精神的な繋がりや、昼間の協力関係なら、好きに築けばいい)
私は文庫本のページをめくりながら、不敵な笑みをこぼした。
(でもね。体の面――清隆の奥底にある、狂気じみた欲望を受け止めるという点においては、私がリードしているんだから)
思い出すのは、毎月の夜の密室で繰り広げられる、あの常軌を逸したプレイの数々。
『パブロフの犬』のように快感と勉強をリンクさせられたり、ぬいぐるみに見せつけられながら絶頂させられたり。あんな変態的で暴虐な要求を、粛々と、なんならウキウキと受け止め、さらには清隆に反撃の牙を剥こうとする女なんて、この学校にそうそう現れるわけがない。
私と清隆は、すでに共犯者なのだ。
普通の女子生徒が夢見るような甘い恋愛のステップをすっ飛ばし、互いの底知れない闇と性癖をぶつけ合う、狂おしくも強固な繋がり。
だからこそ、私は私にできることをするだけだ。昼間は堀北の参謀としてクラスを牽引し、夜は清隆の最高のパートナーとして君臨する。清隆が最終的に選ぶ居場所は、私しかいないのだから。
その日の夜。
消灯時間が近づく男子寮の清隆の部屋で、私は清隆のベッドに腰掛けながら、ホットミルクの入ったマグカップを両手で包み込んでいた。
「……今月のテーマだが」
つまらなそうにテレビのニュース番組を眺めていた清隆が、不意に口を開いた。
先月は私が勉強会を提案し、完膚なきまでに敗北して恥辱の罰ゲームを受けた。今月、二月は清隆がプレイのテーマを提案する番だ。
「今月は、バレンタインデーがあるだろう。お前の方で、それにちなんだものを何か考えておいてほしい」
「え……?」
私は思わず、ホットミルクを吹き出しそうになった。
あの清隆が。「バレンタインデーにちなんだもの」を考えてほしいと、自分から要求してきたのだ。
「ちょ、ちょっと待って。清隆って、そういう世間のイベントとか、気にするタイプだったの?」
私は驚き半分、からかい半分の声で清隆を見た。
「俺は一般社会の風習を学習している最中だ。バレンタインデーというイベントを利用することで、心理状態にどのような変化が生じるか、データを収集したいだけだ」
相変わらずの、屁理屈としか思えない回答。
だが、その言葉の裏に隠された清隆なりの『歩み寄り』を、私は見逃さなかった。
清隆が、私との夜の密室に「バレンタイン」という恋人たちの甘いエッセンスを取り入れようとしてくれている。ただ暴力的に支配するのではなく、私を楽しませるためのシチュエーションを清隆なりに計算してくれているのだ。
「……そっか。分かったわ」
私はマグカップをテーブルに置き、込み上げてくる笑いを必死に押し殺しながら答えた。
「バレンタインにちなんだものね。……清隆の期待を超えるような、とびきり甘くて、エッチな準備をしておいてあげる。楽しみにしててね」
「ああ、期待している」
恋人らしい、甘い約束。
先月のテストでの屈辱も忘れ、私の心はバレンタイン当日の夜に向けて、風船のように膨らんでいくのを感じていた。
(チョコレートの準備だけじゃないわ。あいつをメロメロにして、腰を抜かさせるような……最高の夜にしてやるんだから!)
しかし、私個人の甘い期待とは裏腹に、二月の学校全体の空気は、日を追うごとに冷たく、黒いものへと変貌していった。
発端は、学校内の掲示板に書き込まれた匿名の噂話だった。
『一之瀬帆波は過去に暴行事件を起こしている』
『一之瀬は援助交際をしていた』
『あいつは過去に窃盗を行った』
そんな、根も葉もない悪意の塊のような書き込みが、瞬く間に全学年へと広がっていったのだ。
「ねえ、聞いた? 一之瀬さんの噂……」
「いくらなんでも嘘でしょ。あの聖女様みたいな人がさぁ」
「でも火のない所に煙は立たないって言うし……」
クラスの教室内でも、休み時間になればその話題で持ちきりだった。
私は自分の席でイヤホンをし、外界の音をシャットアウトしようとしたが、悪意のあるヒソヒソ話は容赦なく耳に突き刺さってくる。
(……気分が悪いわ)
一之瀬帆波。他クラスとはいえ、常に笑顔を絶やさず、誰にでも平等に接する、まさに光の象徴のような少女。そんな一之瀬に向けられた一方的な暴力に、私の胸は重く沈み込んでいた。
理由は明確だ。
その光景が、私自身の『過去』とあまりにも重なりすぎていたからだ。
中学校時代。私は少しだけ、目立ちすぎていた。
成績は常にトップ。それに加えて、私の美貌は当時からすでに完成されつつあった。
そんな私を、良く思わない人間は確実に存在した。
ある日の夕暮れ。私は人気の少ない場所で、同じ学校の男子生徒の集団に囲まれた。彼らの目には、明確な暴力と、下劣な性的欲望が宿っていた。
逃げ場はない。私は自分の身を守るため、持ち前の身体能力で彼らを叩きのめし制圧した。正当防衛。私は自分を自分の力で守り抜いたのだ。
しかし、真の地獄はその後に待っていた。
翌日、学校中に広まっていたのは、全く逆の悪意に満ちた噂だった。
『新西レイが男子たちを誘惑して、断られた腹いせに逆上して暴力を振るった』
負けた男子がでっち上げた、都合のいい嘘。しかし、一人の女子が複数の男子をボコボコにしたという事実があまりにも異常だったため、周囲は「新西が狂って暴れた」というその噂の方を簡単に信じ込んでしまった。
反論しようとした。でも、集団の悪意という濁流の前では、個人の声など無力だった。
誰も私の言葉を信じてくれず、信じようとする者もまたターゲットにされることを恐れて離れていった。
『……私は、私の居場所を、自分を守りたかっただけなのに』
結局、私は全てを諦め、周囲との関わりを絶つことで自らの心を守るしかなかった。誰とも口を利かず、ただ静かに、孤立という名の貝殻に閉じこもる日々を送った。
(……一之瀬さんの助けになるようなことが、何かできないかしら)
私は文庫本のページを強く握りしめた。
しかし、すぐに自嘲気味に息を吐く。
私に何ができるというのか。自分の無実を証明することすらできず、ただ黙って逃げることしかできなかった、臆病な私に。
クラスの参謀として立ち回る決意をしたとはいえ、これは他クラスの問題だ。私が口出しできるような性質のものではない。
私は無力感に苛まれながら、一之瀬の背負っているであろう重圧を想像し、ただ憂鬱な気分を持て余すことしかできなかった。
噂の波紋が広がり続ける中、ある日の放課後。
私たちのクラスの教室に、予想外の闖入者が現れた。
コツ、コツ、というリズミカルな杖の音。
銀色の髪を揺らし、優雅な微笑みを浮かべて教室に入ってきたのは、Aクラスのリーダーである坂柳有栖だった。
教室の空気が一瞬で張り詰める中、彼女は迷うことなく一直線に、ある男子生徒の机へと向かった。
「ごきげんよう、山内春樹くん」
「えっ……? あ、さ、坂柳さん!?」
突然のAクラスの女王の訪問に、山内は目を白黒させている。
坂柳は、まるで恋する乙女のような可憐な仕草で、山内の顔を覗き込んだ。
「少し、お時間いただけますか? あなたと、どうしてもお話ししたいことがあって」
「お、俺に!? ま、マジで……?」
鼻の下をだらしなく伸ばし、顔を真っ赤にする山内。坂柳はそんな山内に甘い言葉を囁き続け、廊下で待っていると約束まで交わして、優雅に教室を去っていった。
「……ちょっと、なによあれ」
教室の後ろの方で集まっていた私たち『綾小路グループ』の面々は、その異様な光景に完全に唖然としていた。
「絶対演技でしょ。あのAクラスのトップの坂柳さんが、うちの山内くんを? あり得ないし」
波瑠加が、信じられないものを見たという顔で毒を吐く。
「う、うん……私も、なんだかからかってるように見えちゃったかな……」
愛里も同意するように頷いた。
(……坂柳さんが山内に本気だとしたら、趣味が悪いってもんじゃないわ)
私は内心で冷たく毒づいた。
坂柳有栖という少女の底知れなさは、私も肌で感じ取っている。坂柳が何の意味もなく山内に接触するはずがない。
何らかの明確な悪意か、盤面をかき乱すための布石。
私は視線だけで清隆の方を見たが、彼は相変わらず無表情のまま、端末を弄っているだけだった。
「まあ、他人の恋愛(?)はどうでもいいけどさ」
啓誠がコホンと咳払いをして、話題を切り替えた。
「それより、もうすぐ学年末試験だ。今回も俺たちで勉強会をやろうと思うんだが、どうだ?」
「賛成! レイちゃんも来てくれるよね?」
波瑠加が期待の目で私を見る。
「ええ、もちろん参加するわ。……私で教えられるところがあれば、手伝うし」
私は微笑んで頷いた。
一之瀬の噂や、坂柳の不穏な動き。学校全体がギスギスとした空気に包まれる中、この『綾小路グループ』で過ごす勉強会という他愛のない日常が、私のささくれ立った心を少しだけ癒やしてくれるような気がしていた。
二月中旬。
一之瀬の噂は収まるどころか、ますます過激さを増し、ついには学校側が介入しそうなレベルにまで発展していた。
そんなある日の放課後。
私は堀北に呼び出され、特別棟の空き教室へと向かった。
そこにはすでに、堀北と、なぜか清隆の二人が先客として待っていた。
「……堀北さん、清隆も。何の用かしら?」
「来てくれてありがとう、新西さん。実は、あなたたち二人に立ち会ってほしいことがあるの」
堀北がそう言った直後、教室のドアが開き、疲れ切った顔をした一之瀬帆波が入ってきた。
「……堀北さん、それに綾小路くんに新西さんも。どうしたの?」
無理に作ったような笑顔。しかし、その目の下には濃い隈ができ、彼女が極限の精神状態にあることは誰の目にも明らかだった。
堀北は一之瀬を席に座らせ、単刀直入に切り出した。
「一之瀬さん。あなたに対する一連の噂について、話をさせてちょうだい」
堀北の推測は鋭かった。
この一連の噂の出所がAクラスの坂柳である可能性が高いこと。そして、一之瀬自身が噂を強く否定しないのは、その噂の中に何らかの『真実』が混ざっているからではないか、ということ。
「……すごいね、堀北さんは。全部お見通しってわけだ」
一之瀬は力なく笑った。しかし、一之瀬はそれ以上、自身の過去について深くは語ろうとしなかった。
「でも、ごめんなさい。何があったかは、言えない。……この問題は、私自身の問題だから。私が自分で決着をつけるよ。だから、堀北さんたちは動かないで。これ以上、他クラスのみんなを巻き込みたくないの」
頑なに一人で抱え込もうとする一之瀬。堀北は理詰めで解決策を探ろうとするが、本人が詳細を隠し、介入を拒絶している以上、これ以上踏み込むことはできなかった。
その時だった。
私は、自分の意思とは無関係に、口を開いていた。
「……わかるわ」
「新西、さん?」
私はギュッと拳を握りしめ、かつての自分自身の傷口を開くように、一之瀬に向かって語り始めた。
「私も中学校時代に……ちょっとした事件があったの。ある日、複数の男子に襲われそうになって、私は自分の身を守るために彼らを力でねじ伏せたの」
「えっ……」
「でも、翌日には『私が男たちを誘惑した挙句、振られた腹いせに逆上して暴力を振るった』っていう噂にすり替えられて、学校中に広まっていたわ」
一之瀬の目が、驚きに見開かれる。
私の隣で、清隆が静かに私の横顔を見つめている気配を感じたが、私は言葉を止められなかった。
「誰に言っても信じてもらえなくて、私は結局何もできずに、孤立を選ぶしかなかった。だから……一之瀬さんの気持ちは、痛いほど分かるわ。逃げ場のない集団の悪意がどれほど恐ろしいか、私は知ってる。一人で戦うのがどれほど孤独かも」
私はうつむき、自分の無力さを噛み締めるように言った。
「でも……ごめんなさい。私には、あの頃と同じで、何もできない。解決の役には立てそうにないわ」
結局、私は過去の自分を一之瀬に重ね合わせ、共に絶望することしかできない。クラスの参謀だなんて息巻いておきながら、一人の少女の心を救う手段すら持たないのだ。
だが。
「……そんなことないよ、新西さん」
顔を上げると、一之瀬はいつもの、あの眩しいほどの善性の塊のような笑顔を浮かべていた。
涙で目を潤ませながら、それでも力強く私に向かって微笑んでくれたのだ。
「私のために、そんな辛い過去を話してくれて……心配してくれて、本当にありがとう。それだけで、私はすごく救われたよ。だから、気にしないでね」
「一之瀬さん……」
その優しさが、胸に痛かった。
自分が深く傷ついているのに、他人の痛みに寄り添おうとする一之瀬の強さ。
私には、解決の道筋は提示できなかった。でも、ほんの少しだけ、一之瀬の孤独に寄り添うことはできたのだろうか。
教室を出る時、清隆が私の背中に向かって、短く言った。
「……お前も、色々と抱え込んでいるんだな」
「……別に。過去の話よ。私はもう、立ち止まったりしないわ」
私は強がって見せ、足早に廊下を立ち去った。
そして迎えた、二月十四日。
バレンタインデー当日。
私は朝から、心臓が爆発しそうなほどの期待と緊張に包まれていた。
(……ふふっ。今夜は絶対に、清隆の無表情を崩してやるんだから)
浮き足立つ気持ちを抑えながら、私は学校での日常をこなしていた。
だが、放課後が近づくにつれ、私の視界にある『不快な光景』が何度も飛び込んでくるようになった。
「あ、綾小路くん! これ……義理だからね! 勘違いしないでよ!」
軽井沢恵が、誰もいない廊下の隅で、清隆に小さな包みを押し付けているのを目撃した。
「綾小路くん、ちょっといいかな……?」
佐藤麻耶が、顔を真っ赤にしながら清隆を非常階段に呼び出しているのも見た。
さらに教室内では。
「はいこれ、きよぽん。義理チョコの詰め合わせー」
「き、清隆くん、いつもありがとう……」
波瑠加や愛里といった、我が綾小路グループの面々からも、次々とチョコレートを渡されているではないか。
(……ちょっと、なによあれ)
私は自分の席で、ペンをへし折りそうなほどの力で握りしめていた。
義理チョコだという言い訳は聞こえている。だが、軽井沢の頬の赤さ、佐藤の潤んだ瞳、佐倉の恥じらい。あれがただの義理なわけがない。
私だけのものだと思っていた清隆が。いつの間にか、こんなにも多くのクラスの女子たちから、熱烈な矢印を向けられている。
「……モテモテじゃない、清隆くん」
私は誰にも聞こえない声で、ギリッと歯を食いしばった。
嫉妬心が、チリチリと腹の底で燃え上がる。
私が過去のトラウマに沈んでいる間に、清隆はこうして着実に他の女子たちをオトしているのだ。
(……いいわ。昼間は好きにすればいい)
私は深呼吸をして、燃え上がる嫉妬心を冷たい闘志へと変換した。
(でもね。夜のベッドで、清隆が本当に求めているのは私だけだってこと。私が、他の有象無象の女子たちとは違うってこと……今夜、たっぷりと思い知らせてあげるんだから)
二月十四日、午後十時。
昼間の学校での浮き足立った空気や、女子たちの水面下での牽制、そして清隆に向けられた幾つもの『チョコレートという名の好意』。それらの鬱屈とした感情をすべて洗い流すように、私は自室のシャワールームで念入りに体を磨き上げていた。
「よし、完璧ね」
バスローブを羽織り、鏡の前で濡れた髪をとかす。
部屋の照明はすでに少し落としてある。そして、今日この日のために用意したアロマディフューザーからは、カカオのほろ苦さとバニラの甘さが絶妙にブレンドされた、極上の香りが漂っていた。
まるで高級なショコラトリーの厨房に迷い込んだかのような、甘く、それでいてどこか官能的な匂い。これが、今日の私の『戦場』だ。
ピンポーン。
控えめなインターホンの音が鳴り、私は小走りで玄関へと向かった。
ドアを開けると、そこには無地の黒いニットを着た清隆が、いつものように無表情で立っていた。
「いらっしゃい、清隆。……待ってたわ」
「ああ」
清隆は靴を脱いで部屋に足を踏み入れた瞬間、ピタリと動きを止めた。そして、少しだけ鼻をヒクつかせ、部屋の空気を確かめるように視線を巡らせる。
「……いつもと、部屋の匂いが違うな」
「ふふっ、気づいた? 今日はバレンタインデーだもの。お部屋の空間ごと、バレンタインのテーマに合わせてみたのよ」
私が得意げに笑いかけると、清隆は「なるほどな」と短く呟き、ソファへと腰を下ろした。
「今月のテーマは、バレンタインのイベントを通した心理状態のデータ収集……だったわよね」
私は清隆の対面のテーブルに座り、あらかじめ用意しておいた『小道具』を手に取った。
それは、艶やかな黒いシルクの布――目隠し用のリボンだ。
「まずは、このゲームから始めましょう」
私は立ち上がり、清隆の背後に回って、その凪いだ瞳をシルクの布で覆い隠した。
「……目隠しか」
「そう。視覚を遮断して、味覚と嗅覚だけで勝負するの。今から私が清隆の口に色んなチョコレートを入れてあげるから、それがどんなチョコレートなのかを当ててみて」
私が後ろから清隆の頭の後ろでリボンを結ぶと、彼は抵抗することなく大人しく視界を奪われていた。
「もし外れたら?」
「当然、罰ゲームよ。私が清隆に『イタズラ』をするわ」
私はテーブルの上に並べた、様々なブランドや種類のひとくちチョコレートが入った箱を開けた。
「じゃあ、第一問。はい、あーんして」
私はピンセットで小さなトリュフをつまみ、清隆の唇に当てた。清隆が口を開き、それを受け入れる。
「……カカオ含有量はおよそ七十パーセント。微かにオレンジピールの香りがするが、ベースはヘーゼルナッツのプラリネだな。テンパリングの温度管理は正確だ」
「ぶっぶー! 不正解!」
「……成分と製法は間違っていないはずだが」
「私が聞いてるのは『どこのブランドのなんていう商品か』ってこと! 成分分析をしてどうするのよ!」
私は呆れながらも、ニヤニヤと笑いながら清隆に近づいた。
「はい、罰ゲームね」
私は目隠しをされた清隆の頬を、両手でムニムニと遠慮なく揉みしだいた。
「ん……」
「ふふっ、普段無表情な清隆の顔が、こんなにフニフニに……あははっ、変な顔!」
絶対的な支配者である清隆に、私が一方的にイタズラを仕掛けられるこの状況。視界を奪われた王様は、私の軽い罰ゲームに無抵抗のまま付き合ってくれている。
「じゃあ第二問。はい、あーん」
「……これは、中にガナッシュではなくキャラメルソースが入っている。岩塩がアクセントだな。乳脂肪分から推測するに……」
「はい、時間切れー! 不正解!」
ちゅっ。
私は清隆の解説を遮るように、目隠しをされた彼の唇に、軽くバードキスを落とした。
「なっ……」
「罰ゲームその二。軽いキスよ。……どう? 私の唇の感触は、チョコより甘かった?」
清隆は目隠しをされたまま、少しだけ不満そうに「……成分ではなく、商品名を当てるゲームだったのか。俺には事前知識がないから、全問不正解になるのは確定しているな」と呟いた。
「そうよ。最初から私が清隆にイタズラするためのゲームだもの」
私は清隆の胸板にペタペタと触れたり、耳たぶを甘噛みしたりと、普段の夜のプレイではできないような、恋人同士のじゃれ合いのような軽いボディタッチを心ゆくまで堪能した。
(……ああ、楽しい。昼間、他の女子たちからチョコをもらってた清隆を、今私だけがこうして独占して、好き勝手に触ってる)
その優越感が、私の中のバレンタインの甘さをさらに引き立てていた。
「じゃあ、ゲームはここまで。次は……これを使った、特別なキスよ」
私は清隆の目隠しを解いた。
視界を取り戻した清隆の前に差し出したのは、私が清隆のために用意した、カカオ成分が高めで甘さを控えた、丸い大粒のビターチョコレートだ。
「清隆、甘すぎるのはあまり好きじゃないでしょ? だから、あなた好みに合わせて作ってもらったの。……これを、まずはお互いの口に含んで」
私は一つを自分の口に入れ、もう一つを清隆の口へと運んだ。
「……こうか」
清隆がチョコレートを口に含んだのを確認し、私はそのまま、彼の膝の上に跨るようにして座った。
「溶けきる前に……いくわよ」
私の唇が、清隆の唇を塞ぐ。
先ほどの軽い罰ゲームのキスとは違う、深く、ねっとりとしたディープキス。
互いの舌が絡み合うのに合わせて、口の中に含まれていたビターチョコレートが、私たちの体温でトロトロと溶け出し始めた。
「んっ……ちゅ、あ……っ、んむ……」
口の端から、溶けたチョコレートが唾液と混ざり合って微かに零れ落ちる。
カカオのほろ苦さと、ほんの少しの甘み。それが清隆の舌の感触とともに私の味覚と触覚を同時に刺激し、脳髄が痺れるような多幸感をもたらす。
「ふぁっ……ん、清隆……おいしい……?」
唇をわずかに離し、銀の糸と茶色いチョコレートが引くのを見ながら私が尋ねると、清隆は私の下唇に付いたチョコをペロリと舐め取って答えた。
「ああ。甘さが控えめで、悪くない」
「ふふっ。じゃあ、次はもっとすごいのいくわよ」
私はテーブルから、保温ポットと小さな保冷ボックスを取り出した。
「清隆には、この『温かいチョコレートソース』を口に含んで。私は、こっちの『冷たいチョコアイス』を口に含むから」
清隆の口には、人肌よりも少し高めの温度に湯煎された、とろけるようなホットチョコを。
私の口には、冷えた濃厚なチョコアイスを。
「ん……!」
再び、唇を重ね合わせる。
瞬間、口内を支配したのは、極端な『温度差』の暴力だった。
「んんっ! あ、ちゅ……ひゃあ……っ!」
私の冷え切った舌に、清隆の口の中から熱いチョコレートが流れ込んでくる。逆に、清隆からすれば、冷たい氷のような私の舌が、熱を持った彼の口内をかき回している状態だ。
熱さと冷たさが舌の上で激しく混ざり合い、マーブル模様を描くようにして中和されていく。
冷たさで麻痺しかけた感覚が、熱によって無理やり叩き起こされ、そしてまた冷やされる。その未知の感覚のグラデーションが、ただのキスを、異常なほどの快楽行為へと昇華させていく。
「ちゅ、レロッ……んっ、ああっ、清隆、もっと……」
温度差が完全に等しくなり、ただの甘く温かいココアのような液体へと変化するまで、私たちは何度も何度も舌を絡め合い、互いの体液とチョコレートを貪り合った。
息継ぎのために唇を離した時、私の顔はすでに完全に火照り、目はトロンと潤んでしまっていた。
「ハァッ……ハァッ……すごい、これ……頭が、クラクラする……」
「……確かに、温度差を利用した感覚の錯覚と、糖分による脳への刺激か。興味深いデータだな」
清隆は口元のチョコを手の甲で拭いながら、相変わらず冷静な分析を下している。だが、その瞳の奥には、普段の無機質なそれとは違う、微かな『熱』が灯り始めているのを私は見逃さなかった。
「じゃあ……ここからが、今日のメインディッシュよ」
私は清隆の膝から降り、立ち上がった。
そして、身につけていたバスローブの紐をゆっくりと解き、そのまま床へと滑り落とした。
シャワーを浴びて丹念に磨き上げた、一切の淀みもない白い肌が、アロマの香る薄暗い部屋の照明に照らし出される。
私はテーブルの上から、事前に冷蔵庫で冷やしておいた、特殊な形状のチョコレートを取り出した。
真ん中に穴の開いた、小さなドーナツ型のチョコレートが二つ。
「清隆、こっちに来て」
私はベッドに上がり、シーツの上にコロンと仰向けに寝転がった。
清隆は無言のままベッドに近づき、私の体を挟み込むようにして両腕をつき、上からすっぽりと覆い被さってきた。
清隆に見下ろされながら、私は手にしたドーナツ型のチョコレートを、自らの胸の先端――すでに微かに突起し始めている乳首を、その穴の真ん中にすっぽりと嵌め込むようにして置いた。
右と左、両方の乳輪を囲うように、冷たいチョコレートが肌に密着する。
「ひゃっ……冷たっ……」
冷蔵庫で冷やされていたチョコの温度に、胸がビクッと跳ねる。
「……なるほど。女体盛り、というわけか」
私の上に覆い被さった清隆が、私の胸に飾られたチョコレートを見下ろしながら、淡々と呟いた。
「そうよ。……でも、ただの女体盛りじゃないわ」
私は恥じらいで顔を真っ赤に染めながら、清隆を見つめ返した。
「私は今、体温がすごく高いの。……だから、冷やしておいたこのチョコレートも、すぐに私の熱で溶け出しちゃう。……溶けて、私の体がチョコレートまみれになる前に……全部、上から清隆の舌で舐め取って?」
「……」
清隆の視線が、私の胸の二つのドーナツを精密機械のようにスキャンしていく。
室内の暖房と、私の火照った体温。その影響で、置かれたばかりのチョコレートの表面が、すでにじんわりと汗をかき、少しずつ形を崩し始めていた。
「溶ける前に、か。……時間との勝負だな」
清隆はゆっくりと顔を沈め、私の胸元へと唇を近づけた。
「あ……っ」
清隆の温かく、湿った舌が、まずは右胸のドーナツ型のチョコレートの縁を、チロリと舐め上げた。
「んっ……」
チョコの甘さと、清隆の舌のザラリとした感触。
清隆は私の上に覆い被さったまま、チョコレートのリングに沿って舌を円を描くように這わせ、意図的に、その中心で剥き出しになっている私の敏感な乳首の先端を何度も何度もかすめていく。
「あっ! きよたかっ、そこは、チョコじゃなくてっ……ああっ!」
「チョコを綺麗に舐め取るには、どうしても肌に舌が触れてしまう。我慢しろ」
「ひゃああっ! 溶けるっ、チョコが、溶けちゃうぅっ!」
私の体温と、清隆の舌の熱。二つの熱源に挟まれたドーナツ型のチョコレートは、ドロドロのソースのように私の胸元へと崩れ落ちていく。
清隆はそれを一滴たりとも逃さぬように、私の白い胸に茶色い軌跡を描きながら、肌ごと力強く吸い上げ、舐め取っていった。
「んちゅ、れろっ、じゅる……」
「あ゛っ、あ゛ぁぁっ! 胸がっ、甘いので、ぐちゃぐちゃにっ……んんっ!」
左右の胸のチョコレートが完全に清隆の口の中に消え、私の胸には彼の唾液と微かなカカオの残り香だけがテカテカと光っていた。
「次は……下だな」
清隆が顔を上げ、そのまま視線を私の股間へと下ろした。
そこには、もちろんチョコレートなど置いていない。しかし――先ほどの濃厚なキスと、上から胸を執拗に舐め回された快感、そして私自身の火照りきった体温のせいで、私の最も無防備な秘部からは、すでに大量の蜜が溢れ出し、艶かしく光を反射してシーツに染みを作りそうになっていた。
清隆は私の股間の濡れそぼった様子をじっと見つめ、全く悪びれる様子もなく、平然と言い放った。
「……なるほど。ここにも、ひどく甘そうな『チョコレート』が溶け出しているな」
「えっ? あっ、ダメっ! そこには何も置いて……っ」
清隆が私の上に覆い被さった体勢のまま、顔を私の股間へと近づける。
私は慌てて身をよじって手で隠そうとしたが、清隆の手によってあっさりと両手首をシーツに縫い留められた。
「そ、それはチョコレートじゃ、ないっ……からぁっ!」
「俺の目には、極上のシロップに見えるが」
「ヒィッ――――!!!」
瞬間、背筋を突き抜けるような凄まじい快感が、私の脳天を直撃した。
覆い被さる清隆の熱く滑らかな舌が、私の粘膜に直接絡みつき、溢れ出た愛液をジュルリと音を立てて啜り上げたのだ。
「あ゛っ! あ゛あ゛ぁぁぁっ! 舐め、ダメぇっ! チョコなんかじゃ、ないのにっ……あぁぁっ!」
「……確かに、カカオの苦味はない。だが、お前の体温と熱が煮詰まった、極上の甘さだ。……本物のチョコよりも、遥かにクセになりそうだな」
「いやっ、そんな変態的な食レポしないでっ! ああっ! ぁぁぁっ!!」
私の否定など全く意に介さず、清隆の舌がクリトリスの周囲を削り取るように激しく動く。
甘い。熱い。そして、狂おしいほどに気持ちいい。
私は仰向けのまま腰をビクンビクンと跳ねさせ、自らの体が『彼のための極上のスイーツ』として扱われていく圧倒的な被支配感に、快感の涙をボロボロとこぼしていた。
「あ゛っ、いくぅっ! いっちゃうっ! 清隆の舌でっ、あぁぁっ!!」
ガクガクと体を震わせ、私はシーツを握りしめながら盛大な絶頂を迎えた。
ビュクッ、と溢れ出した新たな蜜が清隆の口の中へと注ぎ込まれ、彼は私の体液を、本当に最後の一滴まで残さず飲み干してくれた。
「はぁっ……はぁっ……あ……っ」
息も絶え絶えになり、私はシーツの上でぐったりと胸を上下させていた。
清隆は口元を手の甲で拭い、私の上に覆い被さったまま、少しだけ上体を起こす。
清隆自身も服を脱ぎ捨てており、その股間には、すでに限界まで膨張した凶悪な楔が、私の体を求めて熱を放っていた。
「……舐める作業は終わった。ここからは、メインの『食事』だな」
清隆が、私の太ももを掴み、大きく左右に開かせる。
「待っ……待って、清隆」
私は荒い息を吐きながら、清隆を見上げた。
「……なんだ。もう限界か?」
「違うわ。……今日は、バレンタインでしょう?」
私は潤んだ瞳で彼を見つめ、清隆の手を取って自分の胸へと引き寄せた。
「いつもみたいに、激しくて痛いのはナシ。……今日は、さっきのチョコレートみたいに、甘く……ゆっくりと、私を蕩けさせるように抱いて……」
私のその、恋人らしい、甘えたような懇願。
清隆は数秒間私を見つめていたが、やがて「……了解した。今日は、甘いコースに変更しよう」と短く頷いた。
清隆は私の体にゆっくりと密着し、結合部を擦り合わせるようにして、ミリ単位の速度で私の中へと侵入を開始した。
「あっ……ん……ふぅっ……」
ゆっくりと、押し広げられる感覚。
先月の立位のような暴力的な深さや、息もできないほどの激しいピストンはない。
ただ、清隆の重みと熱が、私の子宮の形を確かめるように、じっくりと、本当にじっくりと最奥へと沈み込んでいく。
「清隆……あっ、すごく……いっぱい、入ってる……っ」
「痛くないか?」
「うん……痛くない。すごく、あったかい……」
完全に根元まで到達した状態で、清隆はピタリと動きを止めた。
そして、私の首筋に顔を埋め、まるで宝物を扱うかのように、優しく、甘くキスを降らせ始めた。
「んちゅ……あっ、そこ、くすぐったい……ふふっ」
清隆の唇が鎖骨を舐め上げ、耳たぶを甘噛みする。
腰の動きは、抜けるか抜けないかのギリギリのところを往復するような、極めてスローで、ねっとりとしたグラインド。
「あぁんっ……んんぅっ……清隆、きもちいい……すごく、甘い……っ」
激しい衝撃がない分、内壁の粘膜同士が擦れ合う微細な快感が、波紋のように全身へと広がっていく。
これはこれで、別の意味で気が狂いそうだった。
ゆっくりと時間をかけて、私という存在を清隆の中に溶かし込んでいくような、果てしないマラソン。
「……レイ、中が、すごく熱い。……締め付けも、いつもと違うな」
「だってぇ……あなたが、こんなに優しくするから……体が、トロトロになっちゃって……ああっ!」
アロマディフューザーから漂うカカオとバニラの香り。
口の中に残る、チョコレートの甘い余韻。
そして、上から私を包み込む清隆の腕の強さと、内側から満たされる確かな質量。
この世界に、これ以上の幸福があるだろうか。
クラスの女子生徒が清隆に義理チョコを渡している間、私はこうして清隆のすべてを独占し、甘く蕩けるような時間の中で愛し合っている。
「あぁっ、清隆っ、私……もう……っ」
「……ああ。俺も、限界だ」
長い、長い時間の果て。
清隆の腰の動きが、最後に数回だけ、深く重いストロークへと変わった。
「んあ゛っ! ひぃっ! ぁぁぁっ!!」
「……っ!」
優しく、けれど確実に私の最奥を打ち抜く一撃とともに。
私たちは互いに強く抱きしめ合いながら、甘く、深い絶頂の底へと一緒に落ちていった。
私の中に注がれる清隆の熱が、今日のバレンタインの、最後の極上のソースのように私の胎内を満たしていった。
行為が終わり、私たちはシャワーで互いの体の汗と体液を洗い流した後、ベッドの上で並んで横になっていた。
心地よい疲労感と、満たされた余韻。
私は毛布にくるまりながら、隣で天井を見上げている清隆に問いかけた。
「……どうだった? 今年のバレンタインのデータ収集は」
清隆は少しだけ考える素振りを見せた後、淡々とした口調で感想を述べた。
「そうだな。バレンタインというイベントを利用した『女体盛り』や、温度差の錯覚を利用した行為は、新鮮で有意義なデータが取れた。お前の言う通り、最後も激しい動きを控えることで、神経の過敏化を促す効果があったように思える」
「……ふふっ、まるでレストランのレビューみたいね」
「だが……」
清隆は私の方に顔を向けた。
「雰囲気の甘さ、という点においては、やはり俺にはまだよく理解できなかった。行為自体はスローで痛みを伴わないものだったが、それが『恋愛的な甘さ』と同義なのかどうか、判断がつかない」
(……まあ、そうよね。清隆が、一回のイベントで恋心を理解するわけないわ)
私は苦笑しながらも、清隆の言葉の続きを待った。
「だが……お前が今日のために準備し、俺を楽しませようと考えてくれたこと。その労力と結果に対しては、十分に満足している。悪くない夜だった」
「……っ」
その、清隆なりの不器用な最大限の賛辞に、私の胸の奥がキュンと締め付けられた。
「……そう。あなたが満足してくれたなら、私の作戦は成功ってことね」
私は嬉しさを隠しきれず、清隆の胸板にすり寄って、小さく笑った。
時計を見ると、すでに遅い時間だった。
「……そろそろ、帰るな」
清隆がベッドから起き上がり、服を着始める。
清隆が上着を羽織り、玄関へと向かうのを見届けてから、私は慌ててベッドから飛び起きた。
「あ、清隆! ちょっと待って!」
「なんだ?」
ドアノブに手をかけていた清隆が振り返る。
私はクローゼットの奥に隠しておいた、美しい真紅のリボンで包装された、シックな黒い箱を取り出した。
先ほどのプレイで使ったようなものではない。
私が清隆のために、一人の女の子として、真剣に選び抜いた『本命』のチョコレートだ。
「これ」
私はその箱を、両手で清隆に差し出した。
「さっきのは、あくまで『プレイ用』。こっちが……私からの、本当のバレンタインのプレゼントよ。寮に帰ってから、一人で食べてね」
清隆は少しだけ目を丸くしたように見えたが、やがて静かに手を伸ばし、その箱を受け取った。
「……プレイとは別枠、ということか。理解した」
「うん。……ハッピーバレンタイン、清隆」
私がとびきりの笑顔でそう言うと、清隆は箱を小脇に抱え、短く、しかし確かな声で答えた。
「ああ。ありがとう、レイ」
静かな金属音とともに、ドアが閉まる。
部屋には再び、私一人と、アロマの甘い香りだけが残された。
「……『ありがとう』、か」
私は清隆が消えたドアを見つめながら、頬の熱を両手で押さえた。
ただのお礼の言葉。でも、清隆があの無機質な声で私の名前を呼び、お礼を言ってくれたという事実だけで、私は今夜、世界中のどんな女の子よりも幸せなバレンタインを過ごせたのだと確信していた。
(昼間の義理チョコなんて、何百個もらったって関係ない。……あなたの一番深いところに触れられるのは、私だけなんだから)
私は清隆から受け取った確かな感触と、彼の中に私が残した記憶を胸に抱きながら、甘い余韻とともにベッドへと潜り込んだのだった。
二月の下旬。
学年末試験に向けた仮テストが目前に迫る中、私たち『綾小路グループ』の面々は、放課後のカフェに集まって勉強会を開いていた。
「……なるほど。レイのその解き方、すごく合理的だな。公式をただ丸暗記するんじゃなくて、この形に変換してから代入すれば、計算ミスが格段に減る」
私のノートを覗き込んだ啓誠が、しきりに感心したように頷いている。
「えへへ、すごいでしょ? 啓誠くんに褒められるなんて光栄だわ」
私は謙遜しながら微笑んだが、内心では少しだけ複雑な気分だった。
(……まあ、その解き方を私に脳内インストールしたのは、斜め前でコーヒーを飲んでる清隆なんだけどね)
視線を移すと、当の清隆は、我関せずといった無表情でカフェの窓の外を眺めていた。
一月の終わり、私の部屋で行われたあの狂気的な『家庭教師ロールプレイ』。
背後から胸を揉みしだかれ、秘部を責め立てられるという極限の快感とリンクさせられながら、私はこの高度な数学の解法を脳裏に刻み込まれたのだ。
「レイちゃんってホント頭いいよねー。私なんて、その公式の意味すらちんぷんかんぷんだよ」
波瑠加が、ストローを噛みながらお手上げという顔をする。
「大丈夫よ、波瑠加さん。ここはね、こうやって図にしてみると分かりやすいの。愛里さんも、ここまでは理解できた?」
「う、うん。レイちゃんが教えてくれると、なんだかスッと頭に入ってくるかも……」
私は啓誠のメイン講師のポジションを邪魔しないよう、サブ講師として波瑠加や愛里のサポートに回っていた。
清隆から教わった「プロセスを論理的に分解して伝える」という手法は、彼女たちに教える際にも非常に役立っていた(もちろん、清隆のように物理的な快感を与えて記憶を定着させるようなセクハラ・メソッドは使わないが)。
「レイがいると、教える負担が減って本当に助かるよ。これなら、仮テストも本番の学年末試験も、グループ全員で余裕を持って乗り切れそうだ」
啓誠が眼鏡をクイッと押し上げ、安堵の息を吐く。
「ええ、全員で乗り切りましょう。私たちなら絶対に大丈夫よ」
私はグループの皆を見渡し、心からの笑顔を向けた。
一之瀬の噂や、坂柳の動きなど、学校全体の空気は日増しに悪くなっている。しかし、だからこそ、この綾小路グループの平穏は、私が守らなければならないのだ。
そして迎えた、仮テストの当日。
朝のホームルーム前、クラスの教室は普段とは全く違う、異様で、ひどく淀んだ空気に包まれていた。
「……ねえ、あれ見た? 掲示板……」
「見た見た。まさか、うちのクラスの連中のことまで書かれるなんて……」
一之瀬への誹謗中傷から始まった匿名の書き込みは、ここに来てついに私たちのクラスにも牙を剥き始めていたのだ。
学校の匿名掲示板には、クラスメイトたちの名前と、真偽不明の悪意ある噂が大量に羅列されていた。
『綾小路は軽井沢に好意を寄せている』
『篠原さつきは売春をしていた』
『本堂はデブ専だ』
それらの書き込みを見たクラスメイトたちは、互いに疑心暗鬼になり、教室内には冷たく張り詰めた沈黙と、居心地の悪いヒソヒソ話が蔓延していた。
(……ここまでやるなんて)
私は自分の席で、端末に表示された掲示板の画面をスクロールしながら、冷たく目を細めた。クラスメイトに関する些細な、しかし確実に精神を削るような悪口の数々。
その中には、ご丁寧に『私』に関する書き込みも混ざっていた。
『新西レイは中学時代、地元でも有名なヤンキーグループとつるんでいて、童貞を100人斬りしたビッチらしい』
「…………は?」
私はその一文を見た瞬間、怒りよりも先に、あまりの突拍子のなさにポカンとしてしまった。
(童貞100人斬りのビッチ……!?)
いやいやいや。いくらなんでも話を盛りすぎだ。
確かに私は中学時代、襲ってきた男子たちを返り討ちにしたせいで「男を誘惑して暴力を振るった」という悪評を立てられた。その過去がどこかから漏れ、尾ひれに背びれ、さらには翼まで生えてこんなぶっ飛んだ噂に進化したのだろう。
(だいたい、童貞100人斬りってなによ。私、この学校に入学するまで男性経験なんて一切なかったんですけど! 私の『初めて』を奪って、毎日毎日飽きもせず狂ったように抱き潰してくるのは、そこに座ってる清隆ただ一人よ!)
私は内心で猛烈にツッコミを入れた。
(清隆の凶悪なモノなら、確かに回数だけならすでに100回くらいは味わわされてるかもしれないけど! でも人数で言ったら、私の経験人数は『1人』なんだから!)
恥ずかしさと憤りで顔が熱くなるのを感じたが、私は深呼吸をして表情を取り繕った。
ここで私が反論すれば、それこそ相手の思う壺だ。一之瀬のように、噂を流した人間の悪意に巻き込まれてしまう。
私は端末を机の中にしまい、何事もなかったかのように参考書を開いた。
しかし、そんな私の大人の対応を、無神経に土足で踏みにじってくる馬鹿がいた。
「うひゃひゃ! おい見ろよこれ、掲示板ヤバすぎだろ!」
静まり返っていた教室に、空気を読まない下品な笑い声が響き渡った。山内だ。
山内は自分の端末を片手に、クラスメイトたちの席を練り歩きながら、ニヤニヤと嘲笑の声を上げていた。
「篠原が売春!? んなわけねーだろ、あんなブス買う物好きがいんのかよ!」
「ちょっと山内! あんたいい加減にしなさいよ!」
篠原が顔を真っ赤にして立ち上がるが、山内は意に介さず、次々と他の生徒への噂を読み上げていく。
平田が苦渋の表情で「山内くん、やめてくれないか」と制止しようとするが、山内は「平田は黙ってろよ」と、完全に調子に乗っていた。
そして。
最悪なことに、山内の視線が、教室の隅で静かに本を読んでいた私に向けられた。
「おっ。……おいおいマジかよ、レイちゃん!」
山内はニヤニヤと下卑た笑いを浮かべながら、私の机の前に立ちはだかった。
「掲示板見たか? レイちゃん、中学時代に『童貞100人斬りのビッチ』だったって書かれてるぜ? 清楚な顔して、裏ではそんなことしてたわけ?」
「……山内くん。ネットの匿名の書き込みよ。本気にしてるの?」
私は本から視線を上げず、極めて冷ややかな声で返した。
だが、山内は引き下がらなかった。
「いやいや、火のない所に煙は立たないっていうし? 100人ってのは大げさにしてもさぁ、レイちゃん、実は隠れビッチなんだろ?」
山内のその言葉に、教室内の空気がさらに一段階、凍りついた。
堀北が鋭い視線で山内を睨みつけ、波瑠加や愛里が心配そうに私を見ている。
クラスの雰囲気が、泥沼へと引きずり込まれようとしていた。
(……本当に、うざい。でも、ここで私が怒ったら、教室の空気が終わるわね)
私はパタン、と参考書を閉じた。
そして、ゆっくりと顔を上げ――山内に向かって、とびきり甘く、そして妖艶な微笑みを浮かべた。
「ふふっ……」
「えっ……?」
私は席からゆっくりと立ち上がり、机を挟んで山内の目の前まで顔を近づけた。
「本当だと思う? ……私が、童貞を100人も食べてきた、淫乱なビッチだって」
「あ、いや……その、掲示板に……」
私の突然の態度の変化に、山内は戸惑い、一歩後ずさろうとした。
しかし、私は手を伸ばし、山内の顎にスッと人差し指を這わせた。
「……ビクッ!」
「もし本当だとしたら……山内くんも、私に『食べられちゃいたい』の?」
私は声のトーンを落とし、山内の耳元で吐息を吹きかけるように甘く囁いた。
「っ……!」
山内の顔が、一瞬にして茹でダコのように真っ赤に染まった。
山内の喉仏が大きく上下し、「ゴクリ」と生唾を飲み込む音が、静かな教室に響いた。
この程度の安い挑発で、簡単に期待を膨らませる。本当に、単純で救いようのない男だ。
私は山内の顎から指を離し、今度は少しだけ小首を傾げて、蠱惑的な、しかし絶対的な『強者』の笑みを浮かべた。
「でも、残念ね」
「え……?」
「私、男の人の『サイズ』には、すっごく厳しいの。……平均的なサイズじゃ、とてもじゃないけど満足できない体になっちゃってるのよね。山内くん……その点、自信ある?」
「――――ッ!?」
山内の顔が、今度は赤から青へと一気に色を変えた。
山内の視線が泳ぎ、自分の股間と私の顔を交互に見比べ、完全にタジタジになっている。
(ふふっ。清隆の凶悪なサイズでしか満たされないんだから、あんたなんかじゃお呼びじゃないのよ)
私は内心で冷たく笑いながら、完全に固まってしまった山内から一歩距離を取った。
「……あははっ! なーんてね!」
私はパンッ! と手を叩き、先ほどまでの妖艶な空気を一瞬で払拭して、教室中に響くような明るい声で笑い飛ばした。
「冗談よ、冗談! 彼氏もできたこともないのに、童貞100人斬りなんてあるわけ無いじゃない! いくらなんでも設定がぶっ飛びすぎよ」
私のそのあっけらかんとした笑い声に、凍りついていた教室の空気が、ふっと緩むのを感じた。
「だ、だよねー! ビックリしたー、レイちゃん急に色っぽくなるんだもん!」
波瑠加が慌てて調子を合わせ、他のクラスメイトたちからも「さすがに100人斬りは嘘くさいよな」「山内、お前からかわれてやんの」という、安堵の混じった笑い声が漏れ始めた。
「……お、おう。冗談キツいぜ、レイちゃん……」
毒気を完全に抜かれ、顔を真っ赤にしたまま引きつった笑いを浮かべる山内。
山内は居心地が悪そうに逃げるように自分の席へと戻っていき、それを機に、クラス内の重苦しい空気は嘘のように霧散していった。
私は自分の席に座り直し、再び参考書を開いた。
視線の先で、堀北が小さく安堵の息を吐き、そして清隆が、窓の外から視線を戻して、ほんの一瞬だけ私の方を見て、フッと口角を上げたように見えた。
(ただ泣き寝入りした中学時代とは違うのよ。……これで、噂を悪意的に持ち出す人間はいなくなったわ)
私は心の中で清隆にドヤ顔を向けながら、再び仮テストの勉強へと意識を集中させた。
その後、一之瀬さんをはじめとする掲示板の誹謗中傷騒動は、生徒会の介入によって、急速に事態の収拾が図られた。
『今後、根拠のない噂を学校の掲示板等で流布する行為を全面的に禁止する。違反者には厳重な処罰を下す』
という生徒会からの公式な通達が出されたことで、掲示板の悪意ある書き込みはピタリと止んだ。
一之瀬さんへの噂も、そして私たちのクラスの噂も、根拠のない誹謗中傷として処理され、学校には再び平穏が戻ってきた。
(……清隆が裏でどう動いたのかは知らないけど、とりあえずは一件落着ね)
そして、二月の末。
いよいよ本番となる『学年末試験』が実施された。
私は、綾小路グループでの啓誠たちとの勉強会、そして何より、夜の密室で清隆から叩き込まれたあの『パブロフの犬メソッド』によるスパルタ教育の成果を、遺憾なく発揮した。
試験用紙に向かうたび、清隆の指の感触や胸を揉まれる快感がフラッシュバックして下半身が疼くという副作用には悩まされたが、私は歯を食いしばって理性を保ち、凄まじい集中力で問題を解き進めた。
結果として、私の得点はクラス内でも堀北や啓誠と肩を並べるトップクラスの数値を叩き出し、クラスの底上げに貢献することができた。
「レイちゃん、すごい!」
「ふふっ、啓誠くんの教え方が良かったおかげよ」
結果発表の日、私はグループの皆と喜びを分かち合った。
清隆は相変わらず平均点ギリギリの目立たない点数をキープしていたが、彼が意図的に手を抜いていることは分かっていた。
三月。
学年末試験も無事に終わり、いよいよ一年生という期間も残りわずかとなっていた。
自室のベッドの上。
私はシャワーを浴びた後の火照った体を休めながら、天井を見上げていた。
「……そろそろ、年度末ね」
高度育成高等学校。
この実力至上主義の狂った箱庭が、ただのペーパーテストだけで一年を締めくくらせてくれるはずがない。
一学期の無人島サバイバル、船上での優待者試験、二学期の体育祭にペーパーシャッフル。そして三学期の混合合宿。
これまでの傾向からして、二年生に進級する前に、必ずもう一つ……それも、学年の総決算となるような、最も困難な『特別試験』が待ち受けているはずだ。
(望むところよ)
私はベッドの上で身を起こし、拳をギュッと握りしめた。
中学時代、私は逃げることしかできなかった。
でも今は違う。私には、綾小路グループという居場所があり、共に戦うクラスメイトがいて、そして……夜の闇の中で私のすべてを支配し、同時に私に絶対的な力を与えてくれる、あの清隆がいる。
どんな特別試験が来ようと、私はもう引かない。
堀北の参謀として、そして清隆の最高のパートナーとして、私はクラスを勝利へと導いてみせる。
「……さあ、かかってきなさい。どんな理不尽なルールでも、私が真っ正面から叩き潰してやるんだから」
私はほのかな、しかし決して消えることのない熱い闘志を胸に巡らせながら、来るべき『特別試験』への覚悟を決めた。