※この作品はR-18です。

綾小路くん、私はセフレ?それとも   作:Geminiちゃん痛くしないで

20 / 21
この回はR18シーンはありません


九月②:満場一致試験

九月中旬。

クラスの三十九名は、それぞれの手元に置かれたタブレット端末と向き合っていた。

 

茶柱先生の冷徹な声が試験の開始を告げる。

『満場一致特別試験』。

五つの課題に対し、全員が匿名で投票を行い、意見が完全に一致するまで試験は終わらない。制限時間は五時間。時間切れになればクラスポイントを300失うことになる。

 

「最初の課題だ。……『修学旅行の行き先はどこが良いか』。選択肢は、北海道、京都、沖縄、海外の四つだ」

 

大型モニターに表示された第一のテーマを見て、クラスの中に安堵の吐息が漏れた。

 

(……なるほど。まずは小手調べ、というわけね)

 

「みんな、聞いてちょうだい」

 

リーダーである堀北鈴音が、毅然とした態度で立ち上がる。

 

「意見は分かれるかもしれないけれど、これはあくまで試験よ。私たちのクラスは『北海道』で統一しましょう。異論があるなら、今のインターバルのうちに言って」

 

明確な方針の提示。平田もそれに同調し、クラスの意見をまとめていく。

結果として、第一の課題はわずか二回の投票で『北海道』に満場一致し、あっさりとクリアされた。

 

続く第二、第三、第四の課題も同様だった。

『次の筆記試験で報酬が減る代わりに、難易度を下げるか』といった多少の意見が割れるテーマもあったが、堀北の理路整然とした説得と、私や啓誠のサポートにより、クラスは順調に意見を一つにまとめていった。

 

「よし、これで四つクリアだ! めちゃくちゃ順調じゃん!」

 

池が嬉しそうに伸びをする。

時計を見上げると、試験開始からまだ一時間しか経過していなかった。制限時間は残り四時間も残されている。

クラス全体が「このまま楽勝で終わる」という緩んだ空気に包まれていた。

 

だが、私は自席で一切の警戒を解いていなかった。

 

(……簡単すぎる。いくらなんでも、この学校がこんな簡単な試験を用意するはずがない)

 

私の視線は、教壇に立つ茶柱先生へと向けられていた。

四つの課題をスムーズにクリアしているというのに、彼女の表情は全く晴れていない。むしろ、最後の第五課題の発表を前にして、彼女の顔には明らかな『苦悩』と『恐怖』の色が浮かんでいた。

 

(来るわ。……最悪のテーマが)

 

「……では、最後の課題を発表する」

 

茶柱先生の声が、微かに震えた。

 

大型モニターの画面が切り替わり、そこに表示された文字列。

それを見た瞬間、教室の温度が、一気に氷点下まで下がったような錯覚に陥った。

 

【課題5】

クラスポイントを100ポイント得る代わりに、クラスから退学者を1名出す。

・賛成

・反対

 

「――――ッ」

 

私は、喉の奥で小さく息を呑んだ。

最悪のケース。私が自室でシミュレーションし、堀北に警告した通りの、最も残酷で悪魔的な選択肢。

 

「な、なんだよこれ……」

「退学者を出す? ポイントと引き換えに……?」

 

クラス中が、恐怖と戸惑いで騒然となる。

一年生の三月に経験した『クラス内投票』のトラウマが、全員の脳裏に蘇っていた。

 

「静かに!」

 

堀北が、鋭い声でクラスを制した。

 

「動揺する必要はないわ。こんなもの、当然全員『反対』に投票して終わらせるだけよ。仲間を売ってポイントを得るなんて、あり得ない選択よ」

 

堀北の強い言葉に、クラスメイトたちも「そうだよな」「反対に入れりゃいいだけだ」と我に返る。

 

「それでは、第一回の投票を開始する」

 

全員がタブレットを操作し、ボタンをタップする。

私も当然、『反対』のボタンを迷いなく押した。こんな課題、一回の投票で終わらせてやる。

 

数十秒後。

モニターに、第一回目の投票結果が表示された。

 

【投票結果】

賛成:2

反対:37

 

「……え?」

 

誰かの、間抜けな声が響いた。

教室は、水を打ったような静寂に包まれた後、爆発的な怒号に包まれた。

 

「賛成2!? おい、誰だよ賛成に入れた奴!!」

「ふざけんな! 退学者を出すって言ってんだぞ!」

 

「静まりなさい!」

 

堀北が机を叩き、パニックになりかけるクラスを鎮める。

 

「押し間違いという可能性もあるわ。次のインターバルで、もう一度全員『反対』に入れるように徹底して」

 

(押し間違い? ……そんなわけないでしょ)

 

私は自席で、冷え切った頭を高速で回転させていた。

 

賛成が、二票。

一票は、間違いなく櫛田桔梗だ。櫛田は匿名投票のシステムを利用して、堀北さんや清隆を退学に追い込むために、賛成に投じた。ここまでは、昨夜のシミュレーション通り。

 

(でも、もう一票は? 誰が賛成に入れたの?)

 

クラスの状況を俯瞰する。

池や本堂たちは怯えている。平田は顔面蒼白だ。

櫛田のように明確な悪意を持ってクラスを道連れにする動機がある人間は、他にはいないはずだ。

 

ならば、悪意ではなく『完全に空気を読まない(あるいは面白がっている)だけの異端児』の犯行。

そんな真似をする人間は、このクラスに一人しかいない。

 

私はスッと立ち上がり、インターバルの喧騒に紛れて、教室の一番後ろの席へと歩み寄った。

 

「高円寺くん」

 

私が声をかけると、手鏡で前髪を整えていた高円寺は、優雅にこちらを振り返った。

 

「おや、新西レディ。何か用かい? 私は今、自分の美しい顔に見惚れるのに忙しいんだがね」

 

「単刀直入に言うわ。あなたが『賛成』に入れたもう一票ね」

 

私が冷たく見下ろすと、高円寺はフハハと笑った。

 

「私がどちらに入れたかは、システム上完全に秘密のはずだよ。だが、仮にそうだとして、何か問題があるのかい? クラスポイントを100も得られるのだから、不要な人間を一人切り捨てるのは極めて合理的な判断だと思うがね」

 

この男は、本気でそう思っているからタチが悪い。

他のクラスメイトが高円寺を説得しようとしても、言葉など届かないだろう。

 

「……ねえ、高円寺くん。一年生の三月、『クラス内投票』の時のこと、覚えてる?」

 

私は高円寺を見据え、静かに、しかし絶対的な強さを持って告げた。

 

「あの時、私があなたに批判票が集まらないように動いた結果……あなたは私に、『メロンパンが欲しくなったらいいたまえ』と言ったわよね」

 

高円寺の手が、ピタリと止まった。

 

「フフッ。確かにそんなことを言った記憶があるね。私に対する見当違いのアシストへの、ほんの労いとしてね」

 

「その貸しを、今ここで返してちょうだい」

 

私は高円寺に一歩近づき、声を潜めた。

 

「あなたに『反対に入れろ』なんて、無粋なお願いはしないわ。……ただ、教えてちょうだい。どうすれば、あなたが反対に入れてくれるのかを」

 

高円寺は目を細め、私を面白そうに観察した。

 

「……なるほど。私と取引をしようというわけだね、新西レディ。いいだろう。私が得るはずだったクラスポイント100というのは、毎月振り込まれる一万プライベートポイントに相当する」

 

高円寺は不敵な笑みを浮かべ、指を一本立てた。

 

「もし、君が私に毎月一万プライベートポイントを、卒業するまで支払い続けると約束するなら……私は君の要求に応え、この不毛な議論から身を引いてあげてもいい」

 

毎月一万ポイント。卒業まで。

決して安くない出費だ。しかし、高円寺がここで賛成に入れ続ければ、櫛田と合わせて事態はさらに泥沼化する。

 

「……いいわ。交渉成立よ」

 

私は一秒の逡巡もなく、即座に了承した。

 

「私が毎月あなたに一万ポイントを支払う。……だから、次の投票からは黙って『反対』に入れなさい」

 

「フハハハッ! 素晴らしい決断の早さだ! 良いだろう、美しい新西レディの要求だ、この私がおとなしく従ってあげようじゃないか!」

 

これで、高円寺は問題ない。

残る敵は、純粋な悪意を持った本物の裏切り者、ただ一人。

 

「第二回の投票を開始する」

茶柱先生の声とともに、再びタブレットに結果が表示される。

 

【投票結果】

賛成:1

反対:38

 

「……おい、まだ賛成に入れてる奴がいるぞ」

「誰だよ。冗談キツいって……」

 

高円寺の票が消え、賛成が一人になった。

制限時間は、まだ数時間もたっぷりと残されている。時間切れによる300ポイント没収のペナルティを恐れるような段階には、全く至っていない。

 

だから、クラスメイトたちも激しいパニックを起こして叫び出すようなことはなかった。

しかし、その代わりに教室を包み込み始めていたのは、得体の知れない悪意に対する『気味の悪さ』と『動揺』だった。

 

私は自分の席に戻り、前方に座る櫛田の背中を冷たく睨みつけていた。

 

(……やはり、折れないわね)

 

クラスメイトたちが互いに顔を見合わせ、「誰だ?」「押し間違いじゃないのか?」とヒソヒソと囁き合う中、櫛田は完璧な『困惑する被害者の顔』を作って、「どうしよう、意見が合わないね……」と演技を続けている。

 

「……みんな、落ち着いて。時間はまだ十分にあるわ。理由があるなら名乗り出てちょうだい」

 

堀北が声をかけるが、当然誰も手を上げない。

 

そのままインターバルが終了し、第三回の投票が行われる。

結果は、賛成1。

 

さらに短い話し合いを挟んで行われた、第四回の投票。

結果は、やはり賛成1。

 

「……なんだよこれ。ずっと1票だけ残ってるぞ」

「話し合いしてるのに、全然意見が変わらないじゃん。誰かがわざとやってるのか……?」

「時間はまだあるけど……なんか、気味が悪いよな」

 

同じ結果が三度も繰り返されたことで、クラスの空気は確実に重くなっていた。

大声で怒鳴る者はいない。だが、何を言っても絶対に覆らない『賛成1』という数字の異常性に、生徒たちは静かな動揺を隠しきれなくなっていた。

 

私は、時計をチラリと確認し、そして堀北の横顔を見た。

(……四回目が終わったわよ、堀北さん。時間はまだあるけど、私が提示した『猶予』は過ぎた)

 

昨夜の約束。

四回の投票を経ても櫛田が折れなかった場合、堀北は直ちに『次の方針』に切り替える。

ここで決断を鈍らせて無為に時間を浪費すれば、いずれ時間はなくなり、クラスは疑心暗鬼の末に本当のパニックに陥る。

 

インターバルに入ったその瞬間。

 

「みんな、聞いてちょうだい」

 

堀北が、ゆっくりと立ち上がった。

その声は、重く、静かな覚悟を帯びていた。

 

「制限時間はまだ十分に残されているわ。……でも、これ以上、この不毛な投票と話し合いを繰り返す必要はない」

 

クラス全員の視線が、堀北に突き刺さる。

 

「私には、たった一人で賛成に投票し続けている人間に心当たりがあるわ。でも、どれだけ時間をかけて話し合っても、その人物が説得に応じて『反対』に票を変えることは絶対にないと断言できる」

 

「なっ……」

「どういうことだよ堀北! じゃあ、ずっと一致しないままペナルティを受けるってことかよ!?」

 

「いいえ。だからこそ、提案するのよ」

 

堀北は動揺するクラスメイトたちを鋭く見据えた。

 

「このまま反対でまとめようとしても、時間が尽きてペナルティを受けるだけ。だから……次の第五回の投票では、全員『賛成』に投票しなさい」

 

「賛成って……退学者を出すってことかよ!?」

 

「ええ。まずは『賛成』で一致させて、この膠着状態を打破するの。そのあとで、私がその人物を告発し、この後のクラスの具体的な方針を説明するわ。今は、私を信じて票を合わせてちょうだい」

 

(……なるほど)

 

私は心の中で、小さく息を吐いた。

堀北は「裏切り者を退学させる」とは一言も明言していない。「現状を打破するために一度賛成で一致させよう」と誘導したのだ。

これは、後で櫛田を庇うための、リーダーとしての『布石』。

 

だが、クラスの現状において、堀北の指示に従うしか道はなかった。

 

第五回の投票。

堀北の言葉を信じ、膠着状態からの脱却を願うクラスは、重い指を動かした。

 

【投票結果】

賛成:39

反対:0

 

満場一致で、『退学者を出す』というテーマが採択された。

教室には、これから自分たちの手で誰か一人を退学にしなければならないという、重苦しい沈黙が降り下りた。

 

「……それでは、最後の課題へと移行する」

 

茶柱先生が、タブレットを操作する。

 

「クラスの中から退学者を一名選べ。誰を退学にするか、対象を決め、全員の意見が賛成で一致するまで投票を繰り返すことになる」

 

「……堀北」

 

須藤が、唾を飲み込みながら尋ねる。

 

「方針を説明するって言ったよな。誰なんだ……? ずっと賛成に入れて、俺たちを道連れにしようとした奴は」

 

堀北は、真っ直ぐに前を向き。

そして、その鋭い指先を、ある一人の女子生徒へと突きつけた。

 

「……ずっと賛成に投票し続けていたのは、あなたね。櫛田さん」

 

「え……?」

 

名指しされた櫛田は、まるで信じられないというように目を丸くし、ポロポロと涙をこぼし始めた。

 

「な、なに言ってるの、堀北さん……? 私じゃないよ、私、ずっと反対に入れてたもん……っ!」

 

完璧な演技だ。周囲の男子生徒たちも「堀北、証拠もないのに櫛田ちゃんを疑うなんて酷いぞ!」と櫛田を庇おうとする。

 

だが、堀北は揺るがなかった。

 

「証拠ならあるわ」

 

堀北は、これまでの櫛田の不自然な行動、他クラスと内通していた事実、そしてこの試験における論理的な消去法を駆使し、櫛田を逃げ場のない論理の檻へと追い詰めていった。

さらに、後ろの席から清隆が、録音データという決定的な物証を提示し、彼女の退路を完全に断ち切った。

 

「っ――――」

 

追い詰められた櫛田の顔から、みるみるうちに表情が抜け落ちていく。

涙に濡れた被害者の顔が。みんなに優しい天使の顔が。

 

ズルリと、剥がれ落ちた。

 

「……あーあ。ダメだ、ね。もう」

 

教室中に響き渡ったのは、地の底から這い上がってきたような、低く、ドス黒い悪意に満ちた声だった。

 

「堀北か綾小路を退学にしてやろうと思ったけど……想定外だね、失敗だよ」

 

「く、櫛田……ちゃん……?」

 

櫛田の暴走が始まった。

彼女は、これまでクラスメイトたちから集めてきた『秘密』と『弱み』を、まるで機関銃のように乱射し始めたのだ。

 

悲鳴と、怒号と、泣き声。

教室は、一瞬にして完全な地獄へと変貌した。

誰もが信頼していた天使が、最も醜い悪魔となってクラスを破壊していく。

 

私はその地獄絵図を、極めて冷めた目で見つめていた。

これでいい。クラス全体が櫛田の異常性を認識し、櫛田へのヘイトが頂点に達した。

あとは、次の投票で『櫛田桔梗の退学』で満場一致させるだけだ。

 

「第六回の投票を開始する。櫛田の退学について投票しろ」

 

混乱が続く中、茶柱先生の容赦ない宣告が響く。

 

【投票結果】

賛成:37

反対:1

 

「なんだよ! なんで満場一致しねえんだよ!」

「櫛田本人は投票できないルールだろ!? 誰だよ、櫛田を庇って反対に入れた奴は!!」

 

クラス中から怒号が飛び交う。

櫛田自身も、自分が退学にならない結果に目を見開いている。

 

インターバルに入り。

堀北が、静かに口を開いた。

 

「……みんな、落ち着いてちょうだい。反対に一票入れたのは、私よ」

 

「な、何言ってんだよ堀北! あいつは裏切り者だぞ!」

 

クラス中から猛反発が上がる。

 

「ええ、彼女は裏切ったわ。でも、彼女の持つOAAの高い能力と、他クラスにまで及ぶ圧倒的なネットワークは、これからの私たちに絶対に必要よ」

 

堀北は、誰の目にも明らかな裏切り者である櫛田を前にして、冷静に『能力至上主義』の論理を展開し始めたのだ。

 

「ここで能力の高い彼女を退学にすれば、クラスの総合力は大幅に低下する。……だから私は、リーダーとして、彼女の退学を認めない」

 

私は気づけば、バンッと机を叩いて立ち上がっていた。

 

「堀北さん! あなた、自分が何を言っているのか分かっているの!? 櫛田さんは、今まさにクラスを崩壊させようとしたのよ! 彼女を庇えば、代わりの誰かが退学になるのよ!」

 

私の怒声に、堀北は揺るがなかった。

 

「ええ、分かっているわ。……でも、私は彼女の力をクラスのために使うと決めた。これは、リーダーとしての私の決断よ」

 

昨夜の約束。四回の猶予を過ぎれば、次の方針を決断すると言った。確かに彼女は方針を決め、賛成で一致させた。

しかし、その後の『退学者の選定』において、彼女は櫛田への制裁を放棄し、リーダーとして、櫛田を残すことを優先したのだ。

 

「じゃあ……誰を退学にするんだよ!」

 

須藤が、悲痛な叫びを上げる。

 

「櫛田を切らないなら、他の誰かを退学にしなきゃ、300ポイント没収のペナルティだぞ! 誰もそんなの、受け入れられるわけないだろ!」

 

教室の空気が、恐怖のどん底へと突き落とされた。

裏切り者を切らない。なら、誰が退学するのか。時間はまだあるといっても、退学者を出さなければ終われない事実に変わりはない。

クラスの集団心理は、パニックと『生贄探し』の暴徒へと変貌しようとしていた。

 

(……最悪の状況だわ)

 

私は、スカートの裾を強く握りしめ、覚悟を決めた。

堀北が櫛田を庇うなら。クラスが誰かを身代わりにしようとするなら。

OAA最下位である愛里にヘイトが向かう前に、私が前に出て、強引にターゲットをそらすか、あるいは時間切れのペナルティを私が全責任を負って確定させるしかない。

 

私が、口を開こうと大きく息を吸い込んだ、その瞬間。

 

「……堀北の判断は、間違っていない」

 

静寂。

荒れ狂っていた教室の空気を、たった一言で完全に凍結させたのは。

 

綾小路清隆だった。

 

清隆はゆっくりと立ち上がり、一切の感情を排した、氷のように冷たい視線でクラス全体を見渡した。

 

「……清隆?」

 

私が呆然と呟く声も、清隆には届いていないようだった。

 

「堀北の言う通り、櫛田の能力はクラスに必要不可欠だ。彼女を退学させることは、クラスにとって不利益でしかない。……時間切れのペナルティを受け入れるという選択肢も、Aクラスを目指すなら論外だ」

 

清隆は、淡々と、数式を解くように論理を紡いでいく。

 

「退学者を出さなければならない以上、感情論は捨てるべきだ。クラスの不利益を最小限に抑えるためには、最も能力が低く、クラスに貢献していない生徒を選ぶしかない」

 

「――――ッ」

 

私の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

やめて。

やめて、清隆。

あなただけは。あなただけは、その口で、その名前を言わないで。

 

私は祈るように清隆を見た。

清隆は、私の視線に一切気づくことなく、冷酷な『神の宣告』を下した。

 

「……OAAの総合評価最下位。このクラスで最も不要な存在は、お前だ」

 

清隆が、その無慈悲な指先を向けた先。

そこには、震えながら顔を伏せ、ポロポロと涙を流している少女がいた。

 

「佐倉愛里。……お前が、退学しろ」

 

「え……?」

 

波瑠加が、信じられないというように目を見開いた。

 

「きよぽん……? 何言って……」

 

「最も合理的な判断だ。佐倉、お前自身も分かっているはずだ。このクラスで一番足手まといになっているのは、お前自身だと」

 

「……う、うん……っ。ごめんなさい……私……っ」

 

愛里が、泣き崩れながら自分の無力さを肯定してしまう。

 

「――――」

 

私の喉から込み上げかけていた絶叫は、声になる直前で、ピタリと凍りついた。

 

視界が白く点滅し、頭の中の血管が破裂しそうなほどの怒りと絶望が全身を駆け巡る。清隆に飛びかかり、その胸ぐらを掴んで殴り飛ばしたいという衝動が暴れ狂う。

だが、私の両足は床に縫い付けられたように動かなかった。

 

(……待って)

 

私は、スカートの生地を破れんばかりに握りしめ、大きく、ゆっくりと深呼吸をした。

清隆を見る。

その瞳は、いつもの無感情なものではない。一見すると氷のように冷酷だが、その奥底にあるのは、『圧倒的なまでの合理性』だ。

 

清隆が『綾小路グループ』を大切に思っていたことは、絶対に嘘ではない。

ならば、なぜ。なぜ他でもない清隆自身が、自らの手で、自分の居場所を破壊するような真似をして、自らヘイトを被るような『処刑人』の役割を被ったのか。

 

堀北が櫛田を庇う、この状況。

私が感情のままに喚き散らしても、すでにペナルティの恐怖に支配されはじめたクラスメイトたちを止めることはできない。

 

(考えろ。……清隆が、わざわざこの悪役を引き受けた理由を)

 

私の脳が、一瞬にして感情の海から『計算機』へと切り替わった。

あの夜な夜な繰り返された狂気的なスタミナ強化と思考訓練。清隆自身に鍛え上げられた私の頭脳が、この最悪の状況下で、かつてないほどの高速回転を始める。

ショックで心が千切れそうになっている事実を、思考の隅へと強制的に追いやる。今はただ、清隆の『真意』を暴き出さなければならない。

 

「みんな、聞いてくれ。……清隆くんの言う通りだ」

 

平田が、苦渋の決断を下したような悲痛な顔で立ち上がった。

 

「誰かを退学にしなければならないなら……クラスへのダメージが一番少ない選択をするしかないんだ」

 

「平田くんまで……そんな……」

 

波瑠加が絶望の声を漏らす。

 

「……第七回の投票を開始する。対象となった佐倉は投票権を持たない。残りの三十八名で投票を行え」

 

茶柱先生の、死刑執行のような声が響く。

私は一切の表情を消したまま、タブレットの画面を操作し、『反対』のボタンをタップした。

波瑠加も、啓誠も、明人も、涙を流し、唇を噛み締めながらタブレットを操作している。

 

数十秒後。

モニターに表示された結果は、無情なものだった。

 

【投票結果】

賛成:34

反対:4

 

綾小路グループのメンバー三人(波瑠加、啓誠、明人)と、私。

それ以外の三十四名全員が、愛里に退学票を投じたのだ。

 

時間が、刻一刻と減っていく。

クラス全体が、そして清隆が、私たち四人に向けて「早く賛成しろ」という重圧をかけてくる。

 

絶望的な四面楚歌。

しかし、私の瞳の奥に宿る闘志の炎は、まだ一ミリも消え去ってはいなかった。

この最悪な状況をひっくり返す、一縷の望みを導き出すために。私は思考の海へと深く、深く潜っていった。

 

「ふざけないでよ……! なんで、なんで愛里が退学にならなきゃいけないの!?」

 

波瑠加の悲痛な叫び声が、重苦しい教室に響き渡った。

波瑠加は机をバンッと叩いて立ち上がり、清隆を、そして彼に同調しようとしているクラスメイトたちを涙目で睨みつけた。

 

「愛里は、誰にも迷惑なんてかけてない! 確かに勉強も運動も苦手かもしれないけど……一生懸命、自分を変えようって頑張ってたじゃない! なのに、なんで……っ!」

 

「……長谷部さん。気持ちは痛いほど分かる。だが、ペナルティを避けるには誰かを選ばなければならない」

 

平田が苦渋に満ちた顔で説得を試みる。

 

「ペナルティがなんだっていうのよ! 300ポイントなんて、またみんなで稼げばいいじゃない! 愛里を切り捨ててまで得たポイントで、Aクラスに上がって何が嬉しいの!?」

 

波瑠加は泣き崩れそうになりながら、首を横に激しく振った。

 

「……どうしても誰かが退学しなきゃいけないなら、私が辞める! 私が愛里の身代わりになるから、愛里を助けてよ!!」

 

その言葉に、クラスがどよめいた。

波瑠加は本気だった。波瑠加にとって、愛里という親友は、この学校での生活のすべてと言っても過言ではない。愛里を失うくらいなら、自分が消えることを迷わず選ぶほどに。

 

「波瑠加ちゃん……だめだよ」

 

そんな波瑠加の腕を、震える手でそっと掴んだのは。

他でもない、退学の標的にされた愛里本人だった。

 

「愛里……っ」

 

「ありがとう、波瑠加ちゃん。……でも、私のために波瑠加ちゃんが退学になるなんて、絶対にダメ」

 

愛里は、ポロポロと大粒の涙をこぼしながらも、必死に、本当に必死に、波瑠加に向かって微笑んでみせた。

 

「清隆くんの言う通りだもん。……私、このクラスで一番足手まといだし。私がいると、みんなの足、引っ張っちゃうから」

 

「そんなことない! 愛里は私たちの……っ!」

 

「私ね、波瑠加ちゃんや、啓誠くん、明人くん……そしてレイちゃんや、清隆くんと一緒に、グループのみんなで過ごした時間、すっごく楽しかった」

 

愛里は、私たち綾小路グループのメンバーを一人一人見つめながら、最期の別れを告げるように言葉を紡いだ。

 

「だから、私なんかのせいで、みんながクラスから責められたり、ペナルティを受けたりするのは、絶対に嫌。……波瑠加ちゃん。私の分まで、この学校で、楽しく過ごしてね」

 

「いやだ……いやだよぉ、愛里……っ!」

 

波瑠加が愛里を抱きしめ、声を上げて泣き崩れる。

愛里は、その背中を優しく撫でながら、クラス全体に向かって、深々と頭を下げた。

 

「皆さん……今まで、お世話になりました。私の、退学に……賛成して、ください」

 

それは、自らを完全な生贄として差し出す、あまりにも悲しく、気高い自己犠牲だった。

その姿を見て、クラスメイトの何人かは目を背け、涙を拭っていた。だが、彼らのタブレットを持つ指が、愛里への『賛成』に傾いたことは、教室の空気の緩みから明白だった。

 

波瑠加も、愛里本人の強固な意志と優しさに触れ、これ以上彼女を苦しめまいと、絶望の中で抵抗の意志を折られようとしていた。

 

私は、泣き崩れる二人を自席から見つめながら。

その心の中は、悲しみや怒りといった熱い感情から完全に切り離されていた。

 

(……なぜ。なぜ、清隆が動いた?)

 

私は、無表情に佇む清隆の横顔を、射抜くように見つめていた。

清隆が自ら手を下した『理由』。それが、どうしても私の論理に噛み合わないのだ。

 

状況を客観的に整理する。

もしあのまま清隆が口を開かず、沈黙を守り続けていたらどうなっていたか。

 

リーダーである堀北は、いずれは、ペナルティを避けるために『能力の低い者(佐倉愛里)』を切り捨てる決断を、自ら下さざるを得なかったはずだ。

もし、堀北が愛里を名指ししていれば。愛里が退学になるという結果は同じだ。しかし、その場合、波瑠加たち綾小路グループの憎悪とヘイトは、すべて『堀北鈴音』へと向かっていた。

 

そうなれば、清隆自身は手を汚すことなく、グループの仲間たちと共に「堀北の非情な決断の犠牲になった」という被害者の立場に立つことができた。綾小路グループは、形を変えても維持できたかもしれないのだ。

 

(なのに……清隆は、自ら処刑の斧を振り下ろした)

 

自らの口で、最も不要なのは佐倉だと宣告した。

それは、綾小路グループの完全なる『崩壊』を意味する。清隆は、自分にとって居心地の良かったはずの場所を、自らの手で徹底的に破壊したのだ。

 

なぜ。

詳細はわからない。でも、清隆には、この綾小路グループという平穏な日常を捨ててでも、成し遂げようとしている『非情な計画』があるのだ。

もしそうなら。清隆がその目的のためにすべてを切り捨てるというのなら。

 

(じゃあ……その計画のためなら、清隆はいずれ、私のことも切り捨てるのではないか?)

 

ふと、私の脳裏に、一年生の三月の夕暮れ、茶柱先生から投げかけられた言葉がよぎった。

 

『あいつは、底に穴の空いた器だ。水を注ぎ続けても、お前が枯渇するだけだ。……穴の空いた器だと気づいた時は、潔く諦め、自分の人生を歩め』

 

私は、清隆の器に穴が空いているとは、決して思わない。

私を抱く時の清隆には、確かな熱があった。綾小路グループで過ごす清隆には、確かな穏やかさがあった。

だが、ここで綾小路グループが壊れ、清隆が自ら人間性を捨て去って冷徹な計画を遂行してしまえば。その時こそ、清隆の器には修復不可能な『穴』が空いてしまう。

そうなれば、私のこの狂おしいほどの恋が実ることは、永遠にない。

 

(……なら、逆に考えるのよ)

 

清隆が感情を捨て去り、純粋な合理性だけで動いているというのなら。

清隆のその「計画」を諦めさせるための、たった一つの細い抜け道が存在する。

 

私は、自らのOAA評価を思い浮かべた。

 

『身体能力A』『総合力B+』。

 

クラスのナンバー2であり、今後の特別試験において、欠かすことのできない強力な戦力。

 

もし、私が愛里の身代わりとして「退学者」の候補に挙がった場合。

クラスメイトたちは、ペナルティの恐怖から、私という有能な駒ですら切り捨てようとするだろう。

 

しかし、清隆だけは違う。

清隆は、総合力B+の生徒を失うことが、クラスにとって明確な『マイナス』であると正確に弾き出すはずだ。

 

(……賭けるしかないわね)

 

私が自らを身代わりに差し出す。クラスはそれに乗る。

だが、清隆の合理性が、私の退学を許さない。

私は、清隆のその合理性という法則に、自らの命運をすべてベットすることに決めた。

 

「……インターバルを終了する。席につけ」

 

茶柱先生の冷徹な声が、思考の海に沈んでいた私を現実へと引き戻した。

 

「これより、佐倉愛里を退学とするかどうかの、投票を開始する。……対象者である佐倉は投票権を持たない。残りの三十八名で投票を行え」

 

クラスメイトたちが、重い沈黙の中でタブレットに手を伸ばす。

波瑠加は力なく俯き、啓誠も明人も、唇から血が出るほど噛み締めながら、愛里の「お願い」に従おうとしているようだった。

 

私は、一切の迷いなく、冷たく光るタブレットの画面をタップした。

 

数十秒後。

大型モニターに、運命の投票結果が表示された。

 

【投票結果】

賛成:37

反対:1

 

「――――なっ!?」

「まだ反対に入れた奴がいるぞ!!」

 

モニターの数字を見た瞬間、限界に達していたクラスメイトたちの緊張と恐怖が、一気に弾け飛んだ。

 

「誰だよ、いい加減にしろよ!!」

 

須藤が机を蹴り飛ばし、怒号を上げる。

 

「長谷部! お前だろ! 佐倉自身が納得してんだぞ、これ以上俺たちを巻き込むなよ!!」

 

池が、泣き崩れている波瑠加を指差して喚き散らす。

 

「ち、違う……! 私じゃない……私は、愛里のお願いだから……っ、賛成に、入れたのに……っ」

 

波瑠加はパニックになりながら、首を横に振って否定する。

 

クラス中からの非難と罵声が波瑠加へと集中し、彼女を追い詰めようとした、その時だった。

 

ガタンッ!

 

私が、わざと大きな音を立てて、椅子から立ち上がった。

全員の視線が、一斉に私へと集まる。

 

「……波瑠加さんを責めないで。彼女は嘘をついていないわ」

 

私は、怒号が飛び交う教室の中で、あくまで冷静に、そして氷のように冷たい声で宣言した。

 

「反対に票を入れたのは、私よ」

 

「……新西さん?」

 

平田が、信じられないというように目を見開いた。

 

「どういうことだよ、新西! お前、自分が何やってるか分かってんのか!?」

「このまま誰も選ばなければ、300ポイント没収のペナルティになるんだぞ!」

 

私へと一気に向けられた殺気にも似たヘイト。

しかし、そんなものは、夜な夜な私が相対している清隆に比べれば、そよ風のようなものだ。

 

「ええ、分かっているわよ」

 

私は、クラス全体を見渡し、そして、堀北と清隆を真っ直ぐに見据えた。

 

「私は、愛里さんを退学にすることには、ペナルティを受けることになろうと絶対に【反対】する。……でも、自分個人のわがままで、クラス全員に迷惑をかけるつもりもないわ」

 

私は、ゆっくりと、自分自身の胸に右手を当てた。

そして、この場にいる全員に叩き込むように、はっきりと告げた。

 

「愛里さんの代わりに。……私を、退学者に選びなさい」

 

「――――は?」

 

教室の空気が、再び完全に凍りついた。

 

誰もが、自分の耳を疑っていた。

このクラスにおけるナンバー2。OAA総合評価B+にして、圧倒的な身体能力と参謀としての知略を併せ持つ、クラスの柱。

その私が、自らを身代わりに差し出すと宣言したのだ。

 

「新西……お前、本気で言ってるのか……?」

 

須藤が、振り上げた拳を下ろし、呆然と私を見る。

 

「ええ、本気よ。ルール上、退学者を一人出せばこの試験はクリアになる。……愛里さんを切れないなら、別の誰かを切るしかない。でも、他人に『退学しろ』と強制するのは不本意だわ。だから、自ら志願する」

 

「でも、新西さんは……っ、クラスに必要な戦力だ!」

 

平田が必死に食い下がる。

 

「戦力だろうと何だろうと、退学者が決まらなければ全員が破滅するのよ!」

 

私は言葉を叩きつけ、堀北を睨みつけた。

堀北は、言葉を失い、青ざめた顔で私を見つめ返している。彼女の合理的計算の中に、私が自爆するという予測は全く組み込まれていなかったはずだ。

 

「レイちゃん……だめだよ……私のために、レイちゃんが退学になるなんて……っ!」

 

愛里が、泣き叫びながら私の方へ手を伸ばす。

 

「ごめんね、愛里さん。これは私の『わがまま』なの」

 

私は彼女に優しく微笑みかけ、そして綾小路グループのメンバーたちを見た。

波瑠加も、啓誠も、明人も、絶句して私を見つめている。

 

私は彼らに向かって、口パクで、しかし必死の思いを込めて、目で訴えかけた。

 

『お願い。……私に、賛成して』

 

私が自らを餌にして、清隆に強烈なバグを引き起こす。その私の覚悟を、汲み取ってほしい。

私の強烈な視線を受け、啓誠はギリッと血が出るほど唇を噛み締め、明人は顔を背け、波瑠加は両手で顔を覆って泣き咽いだ。

彼らは、私の狂気的なまでの提案を前に、抵抗を諦めるしかなかった。

 

「……もう、インターバルが終わるぞ」

 

クラスの誰かが、ポツリと呟いた。

時計は、インターバルの終わりを無情に告げようとしている。

 

「新西が自分で退学するって言ってるんだ……。このまま誰にも決められなければペナルティだ……」

「そうだよ……新西がいなくなるのは痛いけど、背に腹は代えられない……」

 

私の自己犠牲の提案と、ペナルティへの絶対的な恐怖。

集団心理は、パニックの中で最も手っ取り早い生贄へと、雪崩を打って傾き始めていた。

彼らにはもはや、私の能力が高いとか低いとか、そんな合理的な判断をする余裕など残されていない。ただ、この状況から解放されたいだけなのだ。

 

(……さあ。クラスの意見はまとまったわよ、清隆)

 

私は、清隆へと、挑戦的な視線を送った。

あなたは、このクラスの狂気を前にして、どう動くの?

 

「……インターバルを終了する」

 

茶柱先生の声が、いつも以上の緊張を孕んで響いた。

 

「これより、対象者を変更し、『新西レイ』を退学とするかどうかの投票を開始する。……対象者である新西は投票権を持たない。残りの三十八名で投票を行え」

 

私は静かに席に座り、目を閉じた。

そして、クラスメイトたちがタブレットを操作するかすかなタップ音を、静かに聞き入れていた。

 

数十秒後。

 

「……投票、終了だ」

 

茶柱先生の声とともに、大型モニターに結果が表示される。

 

【投票結果】

賛成:37

反対:1

 

「――――え?」

 

クラスの中から、絶望と混乱の入り混じった声が漏れた。

満場一致にならなかった。

 

「な、なんだよこれ……! 誰だよ、反対に入れたのは!!」

「新西の退学で決まりだったじゃないか!!」

 

クラスが、今度こそ本当の、収拾のつかないパニックに陥りかけた。

その、爆発寸前の教室の中で。

ガタッ、と。

 

一人の男子生徒が、静かに、しかし絶対的な存在感を持って立ち上がった。

 

「……騒ぐな」

 

低く、無感情で、しかし教室の空気を完全に支配するその声。

清隆だった。

 

清隆は、荒れ狂うクラスメイトたちの視線を一身に集めながら、淡々と、そして決定的な宣告を下した。

 

「反対票を入れたのは、俺だ」

 

「……清隆?」

 

私は、自分の鼓動が早まるのを抑えきれずに呟いた。

(最初の賭けには……勝った!)

 

「綾小路……! お前、自分が何やってるか分かってんのか!」

 

須藤が怒鳴りつける。

 

清隆は須藤を一瞥すらせず、まるで黒板の数式を読み上げるかのような、一切の感情を排した冷徹な声で説明を始めた。

 

「新西レイの退学は、クラスにとって明確なマイナスだ。……だから、反対した」

 

清隆のその冷酷なまでに合理的な宣言が、教室の空気を完全に凍結させた。

壁掛け時計の針は、試験終了までまだ『二時間以上』の猶予があることを示している。時間切れによる300クラスポイント没収のペナルティまでは、まだたっぷりと時間があった。

 

しかし、教室を支配していたのは、時間的余裕からくる安心感ではなく、果てしない『迷走』に対する深い疲労と動揺だった。

 

「じゃ、じゃあどうすんだよ! 綾小路は新西の退学に反対なんだろ!? 佐倉は……佐倉は、俺たちのほとんどが賛成でも、長谷部たちが絶対反対って泣いてんだぞ!」

 

池が、頭を掻きむしりながら叫ぶ。

 

「時間がまだあるからって、コロコロ変えてたらキリがねえだろ! 櫛田を切るのか、佐倉を切るのか、新西を切るのか……いい加減、方針を一つに絞ってくれよ!!」

 

須藤が苛立ちを隠せずに机を叩く。

 

無理もない。

クラスの標的は、この一時間ほどの間で目まぐるしく変化し続けていた。

裏切り者の『櫛田』が糾弾されたかと思えば、リーダーの堀北がそれを庇う。

次に綾小路が『佐倉』を合理的に切り捨てようとしたかと思えば、私が身代わりとして『新西(私)』を提示する。

そして今度は、綾小路が私の退学を合理性で弾き返した。

 

ペナルティまでの時間は二時間以上ある。だが、この極限の心理状態の中で、これ以上誰かを血祭りにあげるための議論を延々と続けることは、生徒たちの精神を確実に削り取っていた。

お互いの生存本能と、合理性と、感情が複雑に絡み合い、もはや誰一人として自ら譲歩できる状態ではなくなっていたのだ。

 

「……みんな、お願い」

 

私は、深く息を吸い込み、教室全体に響き渡る声で言った。

全員の視線が、再び私へと集中する。

 

「インターバルの一回分だけ。……私と清隆くんで話し合うための『わがまま』を許してちょうだい」

 

「話し合うって……今更お前と綾小路が何を話すんだよ! 時間があるとはいえ、この空気をこれ以上長引かせるのは勘弁してくれ……」

 

男子生徒の一人が、疲労困憊した声で漏らす。

 

「ええ、みんなが混乱しているのは分かっているわ。だから……これは私の、純粋な『わがまま』よ」

 

私は、クラスメイトたちを見回し、そして後方の高円寺六助をチラリと見た。

 

「私は、次の投票でクラスを一致させるという約束はできない。でも、さっき高円寺くんを即座に黙らせたのは私よ。……その功績に免じて、今回の一度だけ、私に時間をちょうだい。清隆くんと、決着をつけてくるから」

 

「一致させる約束もしないで、ただ話すだけ……!?」

「でも……高円寺を止めてくれたのは確かに新西だし……」

 

クラスメイトたちは、混迷する展開と、私の理不尽な要求に完全に混乱していた。

しかし、これまでの私のクラスへの貢献と、あの高円寺を黙らせたという事実が、疲弊した彼らの理性に微かな『負い目』を与えていた。

 

「……一回だけ。まだ時間は二時間はある。一回だけなら待つよ」

 

平田が、クラスの総意を代弁するように重々しく頷いた。

 

「ありがとう」

 

私は短く礼を言い、斜め後ろの席に座る清隆へと視線を向けた。

 

「行くわよ、清隆」

 

「……」

 

清隆は無言のまま席を立ち、私の後について教室を出た。

 

無機質な廊下。その空間に、私たち二人だけの足音が響く。

突き当たりまで歩き、私は清隆に向き直った。

 

「……さて。単刀直入に言うわ」

 

私は、清隆を真っ直ぐに見据えて告げた。

 

「これは、私とあなたの『ゲーム』よ」

 

「……ゲーム、だと?」

 

清隆の眉が、ほんの僅かだけピクリと動いた。

 

「ええ。ルールは簡単。次の投票で、あなたが私の退学に【賛成】票を投じたら……あなたの勝ち。あなたが【反対】票を投じたら……私の勝ちよ」

 

私の提案した歪なルールを聞いて、清隆は静かにため息をついた。

 

「……レイ。お前の論理は破綻している。現状、俺はお前の退学に反対している立場だ。俺が自分の意志を曲げてお前の退学に【賛成】することが、なぜ俺の『勝ち』になるんだ」

 

「破綻なんかしてないわ」

 

私は冷たく言い放つ。

 

「愛里さんの退学に賛成か、反対か、それだけの話よ。

清隆は愛里さんの退学に【賛成】。詳しいことはわからないけど、なにか『計画』があって、そのためには必要な行動なんでしょうね。

私は愛里さんの退学に【反対】。清隆に愛里さんや綾小路グループのみんなを捨てて欲しくない。それで、清隆に対立する私が負けたら退学になる」

 

私は一歩、清隆に近づいた。

 

「あなたが私の退学に【反対】票を入れるなら。……あなたが『計画』よりも『私』や綾小路グループのみんなをとったということ。私の勝ちよ」

 

(あなたが『計画』を取るか、『私』を取るか。その二択よ、清隆)

 

清隆は、私の目をじっと見つめ返し、淡々と反論する。

 

「……俺がお前の退学に反対しているのは、お前という駒の能力がクラスに必要だからだ。愛里を切ることが、クラスの損害を最小限に抑える絶対の最適解だ。ペナルティまではまだ二時間以上ある。俺が反対を貫き、お前を生かした上で、再びクラスを説得して愛里の退学へと誘導し直す余裕は十分にある。そこに感情論など存在しない」

 

「合理性? 最適解?」

 

私は、鼻で笑った。

 

「清隆。あなたは確かに、この学校の誰よりも頭が良くて、すべてを計算できるでしょうね。でもね、あなたのその完璧な計算式には欠陥があるわ」

 

「……欠陥?」

 

「人間という生き物が、必ずしも合理的に動くとは限らないってことよ。合理的判断がいくら正しかろうが、私がそれに賛成しない限り、その合理性が採用されることはないわ」

 

私の指摘に対し、清隆は沈黙した。

清隆の無表情な顔の奥で、無数の思考が行われているのが分かる。

 

「私は、合理的な判断に逆らってでも仲間を守る。……それを計算に入れられなかった時点で、あなたが最初に考えた展開通りにはならない」

 

「……なるほど。人間心理の非合理性を過小評価していたのは、俺のミスかもしれない」

 

やがて、清隆は静かに認めた。

 

だが、その直後。

清隆の瞳の奥に、かつてないほどに深く、暗い『暴力性』が灯った。

 

「だからといって、お前がこの勝負に勝てると思っているのか?」

 

「……!」

 

空気が、重くなった。

 

「今まで、お前は俺に負け続けてきた。……俺が本気でお前を切り捨てないとでも、勘違いしているのか? 揺さぶりは無駄だぞ」

 

それは、冷酷な脅しだった。

 

「……ふふっ」

 

私は、その圧倒的なプレッシャーを全身で受け止めながら、不敵な笑みをこぼした。

 

「正直、私が負けて退学になっても、後悔はないわ。……でもね、清隆。私だって、絶対に勝てないとは思っていないわよ。忘れたの?」

 

「……何をだ」

 

「一年生の時の、十月よ」

 

私の口から出たその単語に、清隆の瞳孔が微かに収縮した。

 

「あの夜、私があなたを責め立てて、『まいった』と完全な敗北を認めさせたあの時のことを。……私は、勝機を見ればどんな手を使ってでも、どんな恥ずかしい真似をしてでも、絶対にあなたを喰い殺しにいく女なのよ。このゲームだって、絶対に勝てないなんて思ってない」

 

私が突きつけた過去の執念の証明に、清隆は沈黙した。

私が勝つためなら手段を選ばない女であり、一度清隆を屈服させた実績があることを、清隆はよく理解しているはずだ。

 

合理性では折れない。脅しでも屈しない。

ならば、清隆が私を屈服させるために切れる最後のカード。

 

「……レイ」

 

「お前は、本当にそれでいいのか」

 

「何が?」

 

「お前が退学になれば、この学校から去ることになる。……俺のそばにいられなくなるんだぞ。毎夜、毎夜、寂しさで泣きながら一人で自分を慰めることになるぞ」

 

それは、私の最も柔らかい部分を正確に突く、残酷な刃だった。

お前は俺から離れられないはずだ。だから、大人しく引き下がれ、と。

 

「……そうね」

 

私は、目を伏せた。

 

「あなたが言う通りよ。もしここを退学になれば……私はきっと、寂しくて、悲しくて、毎晩泣きながら自分を慰めることになるでしょうね」

 

私は、自分の弱さを隠すことなく肯定した。

 

「でもね、清隆」

 

私は顔を上げ、清隆を真っ直ぐに見つめ返した。

私の瞳から、一筋の涙が頬を伝って落ちた。

 

「私が本当に、心の底から求めているのは……あなたの『体』じゃない。あなたの『心』よ」

 

「……」

 

「ここで、あなたが心を殺してしまうのを見過ごすくらいなら。あなたの心を手に入れる機会を永遠に失うくらいなら……退学になって離れ離れになるのも、同じことよ」

 

だから、意味がないのだ。

清隆が、心を殺して、自分の計画を優先してしまえば、このまま清隆のそばに残って体を重ね続けても、それはただの空虚な人形遊びに過ぎない。

 

「……インターバルの時間が、もう終わるわね」

 

私は、清隆から背を向けた。

 

「最後に、一つだけ」

 

私は、教室の扉へと歩き出しながら言った。

 

「四月に出会ってから……きっとクラスの誰よりも長い時間を、私たちは二人で一緒に過ごしてきたわよね。体も、数え切れないくらい重ねてきた。……でも、私たち、この曖昧な関係には、ずっと明確な呼び名を付けないままここまで来た」

 

私は扉に手をかけ、肩越しに綾小路くんに振り返った。

その顔には、もう涙はなかった。

 

「私、今日……この関係を明確にして、先に進むって決めたの」

 

私は今日初めて、彼のことを名字で呼んだ。

 

「ねえ、綾小路くん。……私は、あなたの『セフレ』? それとも、『恋人』?」

 

「――――」

 

「次の投票。綾小路くんが私たちの関係の呼び方を決めて……私を計画のために切り捨てられる都合のいい『セフレ』と呼ぶのなら【賛成】票を入れて。私は潔く諦めて、この学校を去るわ」

 

私は、扉をゆっくりと開いた。

 

「じゃあね。教室で、待ってるわ」

 

私は綾小路くんを廊下に残したまま、一人で教室の中へと戻っていった。

 

教室に戻ると、クラスメイトたちは相変わらず重苦しい沈黙の中にいた。

もし彼が私に【賛成】票を投じれば、私は学校を去ることになる。

 

私は自分の席に座り、姿勢を正して前を向いた。

 

数十秒遅れて、彼が教室に戻ってきた。

彼は一切の表情を変えることなく、無言で自分の席へと座った。

 

「……インターバルを終了する」

 

教壇の茶柱先生が、静かに告げた。

 

「これより、投票を開始する。……時間はまだあるが、無為に投票を繰り返せば、いずれ取り返しのつかない焦りを生むことになるぞ」

 

私は、タブレットには一切触れなかった。対象者である私には、投票権はない。

ただ、彼の気配に、全神経を集中させていた。

 

静寂に包まれた教室の中で、数十台のタブレットがタップされる微かな電子音だけが鳴り響く。

彼は、自席でタブレットの画面を見つめたまま、ただ黙って、底知れない思考の海に沈んでいた。

 

彼が、計画を取るか。それとも、私を取るか。

 

運命の投票のカウントダウンが、静かにゼロへと向かっていった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。