僕のファーストキスを奪った幼馴染が、超ドSだった件 作:微熱@
気まずい沈黙が、部屋を満たしていた。蝉の声が窓の外でじりじりと鳴いている。
ひまりちゃんは俯いてプリントを見つめていたが、明らかに集中できていなかった。シャーペンを持つ手が何も書けないまま止まっている。
「……ねえ、堀田君」
「う、うん……」
「その靴下、洗ってないよね。ジップロックに入れてるのって、匂いが飛ばないようにじゃない……?」
ひまりちゃんが確信に触れてきた。控えめな性格の彼女が、それでも理由を知りたかったのだろう。ジップロックに入れた理由。洗わずに保存している理由。ベッドの下に隠している理由。全てを結びつければ、導き出される結論は一つしかない。
「あ、あの……そういうわけじゃ……」
「いいの。答えなくていいよ」
ひまりちゃんは顔を上げた。その目が少し潤んでいるように見えたのは、僕の見間違いだろうか。
「堀田君が、そういうの……好きなんだとしても。私は別に、嫌いになったりしないよ」
予想外の言葉だった。
軽蔑されると思った。引かれると思った。「やっぱりムッツリなんだ」と呆れられると思った。
けれどひまりちゃんは、震える唇を引き結んで、真っ直ぐに僕を見つめていた。
「男の子って、そういうことあるって聞くし。別に、変なことじゃ……ないと思う。たぶん」
ひまりちゃんの声は、不安気に揺れていた。「たぶん」という語尾が、彼女自身の動揺を正直に表している。だけど、それでも僕を否定しなかったこと。その事実が、まるで鋭い刃物のように心臓を切り裂いた。彼女の優しさが心苦しかった。
ひまりちゃんは一度視線を落とし、それから、まるで独り言のように小さく呟いた。
「この靴下、紺のハイソックスだよね。うちの学校の指定と同じ……」
血の気が引くのが、はっきりとわかった。
ひまりちゃんの視線が、ベッドの上に置かれたジップロックに注がれている。紺のハイソックス。学校指定の、あの紺のハイソックス。友達の妹の忘れ物という苦し紛れの嘘は、もうとっくに崩壊していた。
「これって、もしかして、坂本さんの……?」
その名前が、ひまりちゃんの唇から漏れた瞬間、僕の心臓が二拍分止まった。
坂本さん。美優。僕の交友関係の中で、親しい女の子は美優しかいない。ひまりちゃんはそれを知っている。幼馴染で、いつも一緒にいる、あの坂本美優。
「ち、違っ……それは……!」
「……うん、ごめんね。今のは忘れて」
ひまりちゃんはそれ以上追及しなかった。だが、その瞳の奥で何かが組み変わったのを、僕は見逃さなかった。
「堀田君は坂本さんの靴下の匂いを嗅いでいる」その仮説が、ひまりちゃんの中で静かに根を下ろしてしまった。そしてそれは、ただの「男の子の秘密」ではなく、僕と美優の関係が「ただの幼馴染」ではないかもしれないという疑念として、彼女の胸の奥に組み込まれたのだ。
(こんなに優しい子に、僕は──)
ひまりちゃんの優しさが、かえって罪悪感を爆発させた。
あの靴下は、美優に命じられて毎日嗅いでいるものだ。しかしその行為を楽しんでいる自分自身を、もう否定できない。美優の匂いに依存し始めている自分。それを、ひまりちゃんはただの「男の子の秘密」としてそっと受け入れようとしてくれている。真実を知らないまま。
「……ありがとう、ひまりちゃん」
「う、うん。じゃあ、続きやろ! ここの問題、まだ解けてないし!」
ひまりちゃんは明るい声を作って、プリントに目を戻した。だがその耳たぶはまだ真っ赤で、時折こちらをちらりと窺う視線が、さっきまでとは微妙に質が変わっていた。
好奇心。戸惑い。そして……ほんのわずかな、怯え。
ひまりちゃんの中で、「堀田由紀人」の像に新しい陰影が加わった瞬間だった。
勉強会は夕方五時に終わった。
帰り際、玄関でサンダルを履きながら、ひまりちゃんが振り返った。
「今日は楽しかったよ。また一緒に勉強しようね」
「うん、こちらこそ」
「あのね、堀田君」
ひまりちゃんは少しだけ躊躇い、それから小さな声で付け加えた。
「さっきの、靴下のこと。私、誰にも言わないから。安心して」
ドアが閉まった。ひまりちゃんのサンダルの足音が遠ざかっていく。
僕は玄関に座り込んだ。
ひまりちゃんは「誰にも言わない」と言ってくれた。秘密を守ると言ってくれた。彼女は信頼できる。きっとその約束は守ってくれるだろう。。
だが同時に、ひまりちゃんの中に「堀田君はフェチっぽいところがある」という印象が確実に刻まれてしまった。そしてそれは──もしこの先、美優との本当の関係を知ることがあれば──全てのピースが嵌まる伏線として機能してしまう。
その夜、僕は美優にLINEを送った。
『今日、ひまりちゃんが家に勉強しに来ました。報告が遅れてすみません』
既読はすぐについたが、返信が来たのは三十分後だった。
『ふーん。で、楽しかった?』
この一文だけで、僕の胃が痛くなった。
次の返信を打とうとした時、もう一通届いた。
『明日、あたしの家に来なさい。匂いテストの日を早めるわ。朝九時。遅れたら分かってるわね』
匂いテスト。こんなタイミングで。
それは罰なのか、それとも僕が「他の女の子と過ごした時間」を、自分の匂いで上書きするための儀式なのか。
僕はパイプベッドの下に手を伸ばし、雑誌の後ろから美優の靴下を取り出した。
ひまりちゃんが手にした、あのジップロック。知られてしまった僕の秘密。
そしてひまりちゃんは、美優の名前を口にした。その事実が新たな意味を帯びて、僕の脳をかき乱す。
靴下を鼻に押し当てた。美優の匂いは、もうだいぶ消えかかっていた。三日前の残り香が漂うだけの、ただの布切れ。
でも、明日はまた新しい匂いが僕の脳に刻まれるのだろう。美優の素足の、生の匂いが。それを期待している自分がいる。
(僕は、どこに向かっているんだろう)
ひまりちゃんの桃の匂いと、美優の足の匂いが、頭の中で渦を巻いていた。
どちらの匂いが自分にとって「正しい」のか。もう、分からなくなり始めていた。