僕のファーストキスを奪った幼馴染が、超ドSだった件 作:微熱@
八月十五日。お盆の真っただ中。
ひまりちゃんからのLINEが届いたのは、朝の九時だった。
『堀田君、今日暇? 夏休みの課題、まだ残っちゃってて……一緒にやらない? よかったら、今日は私の家に来ない?』
ひまりちゃんの家。
前回は僕の部屋に来てもらった。そして靴下が見つかった。今度はひまりちゃんの家──僕の領域ではなく、ひまりちゃんの領域に踏み込むことになる。
僕はスクリーンショットを撮り、美優にLINEで送った。
『ひまりちゃんから勉強のお誘いが来ました。ひまりちゃんの家だそうです。行ってもいいですか?』
既読がついてから返信が来るまで、十二分かかった。美優も許可するべきか迷っていたのかもしれない。
『行っていいわ。おあずけ中だし、貞操帯つけてるから変なことはできないでしょ』
続けてもう一通。
『でも、あたしに隠し事したら分かるからね。帰ったら全部報告しなさい』
許可が出た。奈緒の教えが効いているのだろう。「由紀人自身に変態だと自覚させれば、ひまりの前に出ること自体が怖くなる」──美優はその理論を信じている。そして貞操帯という物理的な鎖が、僕をどんな状況からも引き戻す最後のセーフティネットになると確信している。
だが美優は、一つだけ見落としていた。
ひまりちゃんの方が、変わり始めていたことを。
午後一時。ひまりちゃんの家は、駅から徒歩十五分ほどの住宅街にあった。
白い壁と小さな庭のある二階建ての一軒家。表札には「橘」の文字。玄関先に鉢植えの向日葵が咲いていて、夏の午後の陽射しに花弁が輝いている。
チャイムを押すと、すぐにドアが開いた。
「堀田君! 来てくれたんだ、ありがとう!」
ひまりちゃんは白いTシャツにショートパンツという涼しげな──無防備ともいえる──格好で、髪を小さなクリップで留めていた。首元にうっすらと汗が滲んでいる。桃の匂いが、玄関先の向日葵の匂いと混ざって鼻腔に届いた。
そのすぐ後ろに──誰もいない。玄関から覗くリビングも、薄暗くて静かだ。
「あの、今日ね……お父さんとお母さんと弟が、おばあちゃん家にお盆のお墓参りに行ってて。私は課題が終わってないから留守番なの。だから──」
ひまりちゃんは少しだけ視線を逸らし、頬を染めた。
「今日、私一人なんだ」
その言葉の温度が、真夏の空気をさらに数度上げた。
二人きり。ひまりちゃんの家で。家族は不在。
これが美優だったなら、それは罠を意味する。だがひまりちゃんの場合──それが純粋な事実の報告なのか、それとも意図的な宣言なのか。ひまりちゃんの赤くなった耳たぶだけが、真実を物語っていた。
「あ、あがって。飲み物、なに飲む? 麦茶とオレンジジュースあるよ」
「麦茶で」
スリッパを借りて上がり、二階のひまりちゃんの部屋に案内された。
階段を上がりながら、家の匂いを嗅いでしまう。奈緒に仕込まれた嗅覚が、環境の匂いを無意識に分析してしまうのだ。柔軟剤の微かなフローラルの香り。木造建築の年季の入った温もり。そしてその中に溶け込んだ、家族の生活の匂い。穏やかで生活感のある空気だった。
ひまりちゃんの部屋は──
「散らかっててごめんね……片付けたんだけど……」
八畳ほどの洋室。白とパステルピンクを基調にした壁に、ドライフラワーのガーランドが飾られている。木目のデスクの上には教科書とノートが積まれ、本棚には少女漫画の単行本がぎっしり。ベッドには淡いラベンダー色のシーツが掛けられ、枕元にはくたびれたクマのぬいぐるみが座っている。
窓から午後の陽射しが差し込み、レースのカーテン越しに部屋全体が柔らかい光に包まれていた。壁にはアイドルのポスターではなく、水彩で描かれた花の絵が一枚。
そして──部屋全体に漂う、ひまりちゃんの匂い。
桃のボディミストと洗剤の残り香が混ざった、甘くて清潔な空気。美優の部屋のアロマの香りとは違う、もっと素朴で温かい匂い。この部屋で毎晩眠り、毎朝目覚めている女の子の生活の匂いが、空間の隅々まで満たされている。
(だめだ。匂いを分析するな。ここは美優様の部屋じゃないんだ。普通にしろ!)
だが嗅覚は止められない。匂いフェチとして目覚めさせられた僕の鼻は、もう勝手に空気の中の情報を拾い集めてしまう。
「ここに座って。クッション敷くね」
ひまりちゃんがフローリングの上にふかふかのクッションを並べ、ローテーブルの上に教科書とプリントを広げた。僕はひまりちゃんの隣に座り、勉強会が始まった。
読書感想文は、夏目漱石の「こころ」。ひまりちゃんは本を読み終えてはいたが、感想がまとまらないと言って、あらすじの整理から手伝った。
「先生が遺書で奥さんへの愛情を書く場面あるじゃない? あの、エゴイストだって自分を責める部分。あれがすごく切なくて……」
ひまりちゃんはシャーペンを唇に当てながら、真剣に考え込んでいる。
「でもKの方がもっと切ないと思う。好きな人に気持ちを伝えられなかったまま……」
ひまりちゃんの声が、小さくなった。
好きな人に気持ちを伝えられないまま。その言葉が、この部屋の空気に重なった。
二時間ほど集中して課題を進め、途中でおやつを食べながら休憩を挟んだ。自然と雑談になり、好きなマンガの話、クラスの噂話、伊藤のLINE砲の被害報告──ゆるやかな時間が過ぎていく。
ベランダが西向きで、夕方に近づくにつれて部屋が赤い光に染まり始めた。
「ねぇ、堀田君」
「ん?」
「さっきの漱石のこころの話なんだけど……先生って、奥さんのこと本当に好きだったのかな。それとも、Kへの罪悪感で一緒にいただけなのかな」
ひまりちゃんはローテーブルに頬杖をつき、窓の外の夕焼けを見つめていた。オレンジ色の光がショートボブを透かし、金色に縁取っている。
「僕は……たぶん、両方だと思う。好きだったから一緒にいたけど、罪悪感もずっとあって、その二つが絡み合って離れられなくなったんだと思う」
「離れられなくなった、か……」
ひまりちゃんが、こちらを向いた。丸い瞳に夕焼けの光が映り込み、琥珀色に輝いている。
「堀田君って……坂本さんとは、どういう関係なの?」
また、その問いだった。
プールで伊藤に聞かれた時は美優がガードしてくれた。だが今は二人きりだ。
「美優は……幼馴染で、腐れ縁っていうか……」
「……うん」
「それ以上、なんて言えばいいか、僕には……」
言葉に詰まった。嘘をつくことはできる。「ただの幼馴染だ」と。だがひまりちゃんの瞳を前にして、それを言い切る自信がなかった。ひまりちゃんは、僕の部屋であの靴下を見た。「坂本さんの?」と呟いた。もう、ただの幼馴染では説明がつかないことを知っている。
「……ごめん。上手く言葉に、できない」
「ううん、いいの。無理に答えなくても」
ひまりちゃんは微笑んだ。だがその笑みの奥に、決意のような光が宿っていた。
「でも、一つだけ聞いていい?」
「うん」
「堀田君は今、幸せ?」
幸せ。
その言葉が、胸の奥に刺さった。
幸せだろうか。毎日靴下の匂いを嗅ぎ、貞操帯に閉じ込められ、美優の命令に従い、深夜の公園で犬のように散歩させられ、プールの水面下で足で弄られ──それが幸せだと言えるのか。
だが、今の僕には美優がいない世界を想像することもできない。
「……分からない」
正直に答えた。
「分からない、か」
ひまりちゃんは繰り返し、それからゆっくりと体をこちらに向けた。
夕焼けの光の中で、ひまりちゃんの顔が近づいてきた。桃の匂いが濃くなる。
彼女の手が、僕の手の甲にそっと重なった。指が震えていた。ひまりちゃんの指が。
「私は……堀田君に、幸せでいてほしい」
間近で見るひまりちゃんの瞳が、潤んでいた。睫毛の先に夕陽の光が溜まり、宝石のように煌めいている。唇が、微かに開いて──
ひまりちゃんが、唇を寄せてきた。
修学旅行の暗闇の中でのキスとは、全く違った。
あの時は暗がりの中の偶発的な接触だった。僕が美優の布団とひまりちゃんの布団を間違えて──暗闇の中で唇が重なった、曖昧な出来事だった。
だが今度は違う。明るい夕焼けの光の中で、相手の顔をはっきりと見ながら、ひまりちゃんは意識的に唇を寄せてきた。
柔らかかった。
ほんのりと麦茶の味が残った、温かい唇。震える吐息が鼻先を掠め、桃の匂いが肺を満たした。
触れるか触れないかの距離で、ひまりちゃんの唇が僕の唇に押し当てられていた。圧力は微かで、それでいて確かな──ひまりちゃんの意思が込められた、告白よりも雄弁なキスだった。
三秒? 五秒? わからない。時間の概念が蒸発していた。
ひまりちゃんが顔を離した。頬が林檎のように真っ赤で、目は潤んだまま、でもまっすぐに僕を見ていた。
「ごめんね……いきなり……」
「ひまり、ちゃん……」
「ずっと……修学旅行の時から……ちゃんとしたいって、思ってた」
声が震えていた。けれど、ひまりちゃんは逃げなかった。
「堀田君のこと、好き。……ちゃんと、言えてなかったから」
告白だった。手紙ではなく、声で。目の前で。夕焼けの中で。二人だけのひまりちゃんの部屋で。
僕の心臓が、割れそうなほどに鳴っている。美優の顔が脳裏を過ぎる。貞操帯の金属の重みが股間に感じられる。奈緒の声が聞こえる。「貴方はこんな変態なのに、この子の好意を受け取る資格があるの?」
だが──目の前にいるひまりちゃんの瞳は、そんな理論を全て吹き飛ばすほど真っ直ぐだった。