※この作品はR-18です。

僕のファーストキスを奪った幼馴染が、超ドSだった件   作:微熱@

37 / 46
二人きりの勉強会──ひまりちゃんの部屋で

 八月十五日。お盆の真っただ中。

 ひまりちゃんからのLINEが届いたのは、朝の九時だった。

 

『堀田君、今日暇? 夏休みの課題、まだ残っちゃってて……一緒にやらない? よかったら、今日は私の家に来ない?』

 

 ひまりちゃんの家。

 前回は僕の部屋に来てもらった。そして靴下が見つかった。今度はひまりちゃんの家──僕の領域ではなく、ひまりちゃんの領域に踏み込むことになる。

 僕はスクリーンショットを撮り、美優にLINEで送った。

 

『ひまりちゃんから勉強のお誘いが来ました。ひまりちゃんの家だそうです。行ってもいいですか?』

 

 既読がついてから返信が来るまで、十二分かかった。美優も許可するべきか迷っていたのかもしれない。

 

『行っていいわ。おあずけ中だし、貞操帯つけてるから変なことはできないでしょ』

 

 続けてもう一通。

 

『でも、あたしに隠し事したら分かるからね。帰ったら全部報告しなさい』

 

 許可が出た。奈緒の教えが効いているのだろう。「由紀人自身に変態だと自覚させれば、ひまりの前に出ること自体が怖くなる」──美優はその理論を信じている。そして貞操帯という物理的な鎖が、僕をどんな状況からも引き戻す最後のセーフティネットになると確信している。

 だが美優は、一つだけ見落としていた。

 ひまりちゃんの方が、変わり始めていたことを。

 

 午後一時。ひまりちゃんの家は、駅から徒歩十五分ほどの住宅街にあった。

 白い壁と小さな庭のある二階建ての一軒家。表札には「橘」の文字。玄関先に鉢植えの向日葵が咲いていて、夏の午後の陽射しに花弁が輝いている。

 チャイムを押すと、すぐにドアが開いた。

 

「堀田君! 来てくれたんだ、ありがとう!」

 

 ひまりちゃんは白いTシャツにショートパンツという涼しげな──無防備ともいえる──格好で、髪を小さなクリップで留めていた。首元にうっすらと汗が滲んでいる。桃の匂いが、玄関先の向日葵の匂いと混ざって鼻腔に届いた。

 そのすぐ後ろに──誰もいない。玄関から覗くリビングも、薄暗くて静かだ。

 

「あの、今日ね……お父さんとお母さんと弟が、おばあちゃん家にお盆のお墓参りに行ってて。私は課題が終わってないから留守番なの。だから──」

 

 ひまりちゃんは少しだけ視線を逸らし、頬を染めた。

 

「今日、私一人なんだ」

 

 その言葉の温度が、真夏の空気をさらに数度上げた。

 二人きり。ひまりちゃんの家で。家族は不在。

 これが美優だったなら、それは罠を意味する。だがひまりちゃんの場合──それが純粋な事実の報告なのか、それとも意図的な宣言なのか。ひまりちゃんの赤くなった耳たぶだけが、真実を物語っていた。

 

「あ、あがって。飲み物、なに飲む? 麦茶とオレンジジュースあるよ」

「麦茶で」

 

 スリッパを借りて上がり、二階のひまりちゃんの部屋に案内された。

 階段を上がりながら、家の匂いを嗅いでしまう。奈緒に仕込まれた嗅覚が、環境の匂いを無意識に分析してしまうのだ。柔軟剤の微かなフローラルの香り。木造建築の年季の入った温もり。そしてその中に溶け込んだ、家族の生活の匂い。穏やかで生活感のある空気だった。

 

 ひまりちゃんの部屋は──

 

「散らかっててごめんね……片付けたんだけど……」

 

 八畳ほどの洋室。白とパステルピンクを基調にした壁に、ドライフラワーのガーランドが飾られている。木目のデスクの上には教科書とノートが積まれ、本棚には少女漫画の単行本がぎっしり。ベッドには淡いラベンダー色のシーツが掛けられ、枕元にはくたびれたクマのぬいぐるみが座っている。

 窓から午後の陽射しが差し込み、レースのカーテン越しに部屋全体が柔らかい光に包まれていた。壁にはアイドルのポスターではなく、水彩で描かれた花の絵が一枚。

 そして──部屋全体に漂う、ひまりちゃんの匂い。

 桃のボディミストと洗剤の残り香が混ざった、甘くて清潔な空気。美優の部屋のアロマの香りとは違う、もっと素朴で温かい匂い。この部屋で毎晩眠り、毎朝目覚めている女の子の生活の匂いが、空間の隅々まで満たされている。

 

(だめだ。匂いを分析するな。ここは美優様の部屋じゃないんだ。普通にしろ!)

 

 だが嗅覚は止められない。匂いフェチとして目覚めさせられた僕の鼻は、もう勝手に空気の中の情報を拾い集めてしまう。

 

「ここに座って。クッション敷くね」

 

 ひまりちゃんがフローリングの上にふかふかのクッションを並べ、ローテーブルの上に教科書とプリントを広げた。僕はひまりちゃんの隣に座り、勉強会が始まった。

 

 読書感想文は、夏目漱石の「こころ」。ひまりちゃんは本を読み終えてはいたが、感想がまとまらないと言って、あらすじの整理から手伝った。

 

「先生が遺書で奥さんへの愛情を書く場面あるじゃない? あの、エゴイストだって自分を責める部分。あれがすごく切なくて……」

 

 ひまりちゃんはシャーペンを唇に当てながら、真剣に考え込んでいる。

 

「でもKの方がもっと切ないと思う。好きな人に気持ちを伝えられなかったまま……」

 

 ひまりちゃんの声が、小さくなった。

 好きな人に気持ちを伝えられないまま。その言葉が、この部屋の空気に重なった。

 

 二時間ほど集中して課題を進め、途中でおやつを食べながら休憩を挟んだ。自然と雑談になり、好きなマンガの話、クラスの噂話、伊藤のLINE砲の被害報告──ゆるやかな時間が過ぎていく。

 ベランダが西向きで、夕方に近づくにつれて部屋が赤い光に染まり始めた。

 

「ねぇ、堀田君」

「ん?」

「さっきの漱石のこころの話なんだけど……先生って、奥さんのこと本当に好きだったのかな。それとも、Kへの罪悪感で一緒にいただけなのかな」

 

 ひまりちゃんはローテーブルに頬杖をつき、窓の外の夕焼けを見つめていた。オレンジ色の光がショートボブを透かし、金色に縁取っている。

 

「僕は……たぶん、両方だと思う。好きだったから一緒にいたけど、罪悪感もずっとあって、その二つが絡み合って離れられなくなったんだと思う」

「離れられなくなった、か……」

 

 ひまりちゃんが、こちらを向いた。丸い瞳に夕焼けの光が映り込み、琥珀色に輝いている。

 

「堀田君って……坂本さんとは、どういう関係なの?」

 

 また、その問いだった。

 プールで伊藤に聞かれた時は美優がガードしてくれた。だが今は二人きりだ。

 

「美優は……幼馴染で、腐れ縁っていうか……」

「……うん」

「それ以上、なんて言えばいいか、僕には……」

 

 言葉に詰まった。嘘をつくことはできる。「ただの幼馴染だ」と。だがひまりちゃんの瞳を前にして、それを言い切る自信がなかった。ひまりちゃんは、僕の部屋であの靴下を見た。「坂本さんの?」と呟いた。もう、ただの幼馴染では説明がつかないことを知っている。

 

「……ごめん。上手く言葉に、できない」

「ううん、いいの。無理に答えなくても」

 

 ひまりちゃんは微笑んだ。だがその笑みの奥に、決意のような光が宿っていた。

 

「でも、一つだけ聞いていい?」

「うん」

「堀田君は今、幸せ?」

 

 幸せ。

 その言葉が、胸の奥に刺さった。

 幸せだろうか。毎日靴下の匂いを嗅ぎ、貞操帯に閉じ込められ、美優の命令に従い、深夜の公園で犬のように散歩させられ、プールの水面下で足で弄られ──それが幸せだと言えるのか。

 だが、今の僕には美優がいない世界を想像することもできない。

 

「……分からない」

 

 正直に答えた。

 

「分からない、か」

 

 ひまりちゃんは繰り返し、それからゆっくりと体をこちらに向けた。

 夕焼けの光の中で、ひまりちゃんの顔が近づいてきた。桃の匂いが濃くなる。

 彼女の手が、僕の手の甲にそっと重なった。指が震えていた。ひまりちゃんの指が。

 

「私は……堀田君に、幸せでいてほしい」

 

 間近で見るひまりちゃんの瞳が、潤んでいた。睫毛の先に夕陽の光が溜まり、宝石のように煌めいている。唇が、微かに開いて──

 

 ひまりちゃんが、唇を寄せてきた。

 

 修学旅行の暗闇の中でのキスとは、全く違った。

 あの時は暗がりの中の偶発的な接触だった。僕が美優の布団とひまりちゃんの布団を間違えて──暗闇の中で唇が重なった、曖昧な出来事だった。

 だが今度は違う。明るい夕焼けの光の中で、相手の顔をはっきりと見ながら、ひまりちゃんは意識的に唇を寄せてきた。

 

 柔らかかった。

 ほんのりと麦茶の味が残った、温かい唇。震える吐息が鼻先を掠め、桃の匂いが肺を満たした。

 触れるか触れないかの距離で、ひまりちゃんの唇が僕の唇に押し当てられていた。圧力は微かで、それでいて確かな──ひまりちゃんの意思が込められた、告白よりも雄弁なキスだった。

 

 三秒? 五秒? わからない。時間の概念が蒸発していた。

 

 ひまりちゃんが顔を離した。頬が林檎のように真っ赤で、目は潤んだまま、でもまっすぐに僕を見ていた。

 

「ごめんね……いきなり……」

「ひまり、ちゃん……」

「ずっと……修学旅行の時から……ちゃんとしたいって、思ってた」

 

 声が震えていた。けれど、ひまりちゃんは逃げなかった。

 

「堀田君のこと、好き。……ちゃんと、言えてなかったから」

 

 告白だった。手紙ではなく、声で。目の前で。夕焼けの中で。二人だけのひまりちゃんの部屋で。

 僕の心臓が、割れそうなほどに鳴っている。美優の顔が脳裏を過ぎる。貞操帯の金属の重みが股間に感じられる。奈緒の声が聞こえる。「貴方はこんな変態なのに、この子の好意を受け取る資格があるの?」

 だが──目の前にいるひまりちゃんの瞳は、そんな理論を全て吹き飛ばすほど真っ直ぐだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。