Teaching Sweet Feeling 作:こまごめピペット
扉の開く音が耳に入る。
彼が帰ってきたのだろう。
小走りで彼を迎えに行くと、何時ものようにそっと頭を撫でてくる。
その手の温もりに、胸が小さく跳ねた。
「っ……おかえりなさいませ、ご主人様」
「あぁ、ただいまシルヴィ。すまないな急に出て行って。何も無かったか?」
「はい、大丈夫でした」
「そうか、良かったよ」
彼は荷物を片付け、ゴミを纏めているようだ。
伝えないと。
この身体でしか出来ないお返しを。
……なのに、なぜだか心臓が跳ね回る。
彼の背中をじっと見つめ、どう伝えるかを反芻したが、まだ纏まらない。
「シルヴィ……? どうした?」
視線に気付いたのか、彼が振り返る。
「い、いえ、なんでも……」
誤魔化そうとした声が、上ずった。
「なんでもない顔じゃないな、それは」
彼が、荷物を置いてこちらに向き直る。
真っ直ぐに見られると、余計に言葉が出てこなくなった。
「その……」
喉のあたりで、言葉が詰まる。
こんなに簡単なことのはずなのに。
「ん……夜にまたお伝えします……」
そう口にしてから、小さく息を吐いた。
違う。
こんなふうに伝えたかったわけじゃない。
「そうか……まぁ、気長に待つよ」
「……ごめんなさい」
まだ、自分の中でも答えがまとまっていない。
……夜までに、もう一度考えよう。
◇◆◇
夕食は、いつもと変わらなかった。
彼は急患の話をしていた。
僕は相槌を打つしか出来なかった。
食器を運び、片付けをして。
ただ、それだけ。
それだけのはずなのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。
何度も言おうとした。
今なら。
食事が終わったら。
食器を洗い終えたら。
……結局、一度も口を開けなかった。
考えているうちにも、時間だけは過ぎ、夜は近付いてきた。
「今日はもう休もうか」
「……はい」
彼と共に寝室へ入っていく。
彼は何も言わず、自分の寝台へ腰を下ろした。
僕も、その隣へ静かに身を沈める。
いつからだっただろう。
別々の部屋ではなく、こうして同じ部屋で眠ることが当たり前になったのは。
隣に座る彼の体温を、布団越しに感じる。
いつもなら、それだけで安心して眠れた。
今夜は、違う。
ずっと、心臓が煩く鳴り響いて落ち着かない。
彼が、灯りを落とす。
薄闇の中、規則正しい息遣いだけが聞こえてくる。
……眠って、しまうんだろうか。
このまま、何も言えずに朝が来たら。
また同じことを、繰り返すんだろうか。
「……ご主人様」
声が、闇の中に小さく落ちた。
「ん……まだ起きてたのか」
彼が、こちらへ寝返りを打つ気配がした。
「眠れないのか?」
「……いえ」
言葉が、続かない。
喉の奥に、何かがつかえている。
鏡の前で見た、自分の身体を思い出す。
昼間、確かめたはずの感覚を、もう一度手繰り寄せる。
……今しか、言えない。
「あの……ご主人様……何度も申し上げますが……凄く、凄く感謝してるんです……あなたには。命の恩人です……だけど……」
声が震える。
指先が冷たい。
でも、今だけは。
最後まで、伝えなくちゃいけない。
「私はできる限りのお返しがしたいんです……」
彼の表情が見えなくて、不安になる。
それでも。
ここまで言ったんだ。
後戻りなんて、出来るわけがない。
声が掠れる。
唇が、乾いている。
「恋人とかは……居ないんですよね……?」
今まで、誰かを家へ招く姿は見たことがない。
……それでも、確かめたかった。
暗闇の中で、彼の目を探した。
見えなくても、そこにあると信じて。
「もし……もし夜の相手が欲しいのであれば……私を……抱いてくださいませんか……?」
言葉が落ちた瞬間、時間が止まった気がした。
まるで、自分の心臓の鼓動すら聴こえなくなるくらい、世界が静まり返った。
言った。
言ってしまった。
これ以上、取り消すことも、なかったことにも出来ない。
「……そういう経験は無いですが……奴隷としてご主人様に出来ることですよね……?」
「……」
「っ……発育も悪いし、醜い傷もあります……魅力なんてないと思います……でも……必要としてくださるのなら……」
沈黙が痛いほど長い。
彼の言葉を待つ間、世界が息を止めてしまったような感覚だった。
返事は無い。
やっぱり、駄目だったのだろうか。
こんな身体を差し出すなんて、馬鹿げていると思われただろうか。
後悔が、遅れて押し寄せてくる。
「……シルヴィ」
彼が、ようやく口を開いた。
声は、静かだった。
「そんなことを、言わせるつもりはなかったんだが」
……否定、された。
喉の奥が、きゅっと締まる。
「ご、ごめんなさい。今のは、忘れ──」
「違う」
言葉を遮られた。
闇の中、彼が身を起こす気配がした。
「君に、そんな理由でしか自分の価値を測れないと思わせていたことが……情けない、と思っただけだ」
……理由で、しか。
何を言われているのか、すぐには分からなかった。
「奴隷だからとか、お返しだからとか」
彼の手が、そっと伸びてくる。
頬に触れる指先が、少し冷たい。
その感覚に縋るように僕もその手を重ねる。
「そういうことじゃなく、君自身が、どうしたいかを聞きたい」
息が、止まった。
……私自身が。
考えたことが、なかった。
お返しすること以外に、何を望んでいるかなんて。
「わ、私は……」
言いかけて、止まる。
鏡の前で見た自分を、思い出す。
あの日、確かめた身体の奥にあったもの。
あれは、義務のためだけだったのだろうか。
「……分かりません……でも嫌ではありません……」
正直に、そう答えるしかなかった。
「そうか……それだけで、十分だ」
「分からないまま、でいいんですか……?」
「ああ」
彼の声に、迷いはなかった。
「分からないなら、今すぐ答えを出す必要はない」
頬に触れていた手が、そっと髪を撫でる。
いつもと同じ、優しい手つきだった。
「ゆっくり、探してみるといい……急く必要もないぞ?」
……この人は。
いつも、そうだ。
求めない。急かさない。
なのに、いつも私の方が、何かに引き寄せられていく。
「……はい」
声が、震えていた。
でも、今度は怖さのためだけではないと、分かっていた。
頬に添えられた手が、ゆっくりと離れていく。
少しだけ、名残惜しいと思った。
……どうして。
その理由すら、まだ分からない。
「おやすみ、シルヴィ」
「……おやすみなさい」
灯りの消えた部屋で、私は布団へ身体を沈めた。
胸の奥は、まだ静かにならない。
眠ろうとしても、眠れない。
隣から聞こえる規則正しい寝息に耳を澄ませる。
昼までは、それだけで安心できていた。
……今は違う。
胸の奥が、少しだけ苦しい。
それでも、その息遣いを聞いていると、不思議と目を閉じることができた。
シルヴィになんて呼ばせよう……
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ご主人様
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先生
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貴方(様)
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旦那様
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グリス
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その他(コメントとかマシュマロから)