Teaching Sweet Feeling 作:こまごめピペット
男は、淡々と仕事をこなしていた。
患者が来れば応じ、いなくなれば静かになる。
その合間に、僕へ短く言葉を投げる。
内容は簡素で、命令でも確認でもない。
返事を求めているのかすら、分からない。
そして、時折──
頭に、手が触れる。
不意に。
何の前触れもなく。
その度に、身体が強張る。
けれど、やはり痛みは来ない。
撫でる、という行為。
それが何を意味するのか、僕は知らない。
ただ、殴られないという事実だけが、
少しずつ、理解できない形で積み重なっていく。
そうしているうちに、日は傾いていった。
「シルヴィ、テーブルに着いてくれ」
「……はい」
僕は、男の言われた通りに席に着いた。
何も考えず、ただ座っていると、男がテーブルに湯気を立てる皿を並べていく。
パスタ、サラダ、スープ、そして水。
とても豪華な食事だ。
「……今日は、お客様でもいらっしゃるんですか?」
続けて、どこかに隠れた方がいいかと尋ねると、
男は虚を突かれたような顔をして、それから静かに首を横に振った。
「いいや。来客の予定はないよ」
「……では、その……」
言葉が続かない。
卓上に並ぶ皿を見る。
量が多い。種類もある。
やはり、一人分ではない。
男は短く言った。
「君の分だ」
「……私の……食事、ですか……? 前のご主人様がくれたのは、パンと水だけでしたが……」
僕は視線を落とし、皿と自分の手を交互に見た。
こんなものを与えられる理由が、どこにも見当たらない。
「……これを……食べていいんですか?」
何か言いたげな表情を浮かべ、それから小さく息を吐くと、男は静かに頷いた。
「ああ。食べてくれ」
「……いただきます」
僕はフォークを手に取った。
手が震え、ぎこちない動きでパスタを巻き取り、口に運ぶ。
──温かい。
味がする。塩味。トマトの酸味。何かの香草。
喉を通り、胃に落ちる。
そこから、じんわりと熱が広がっていく。
「……」
毒は、ないのだろうか。
スープを飲む。野菜の甘みが舌に広がる。
サラダに手を伸ばす。瑞々しい。
パンを千切る。ふんわりとした感触。
全部、知らない。
──いや、違う。
きっと、遠い昔に──。
「……美味しいかい?」
男の声が、思考を遮った。
顔を上げる。
男は、自分の食事には手をつけず、ただこちらを見ていた。
「……はい」
声が、かすれる。
「良かった」
男が微笑み、それから自分の皿に目を落とした。
空だった胃が満たされていく。
こんな感覚、いつぶりだろう。
いつから、パンと水だけだったのか。
思い出せない。
「……無理に全部食べなくてもいいからね」
男の声。
「……いえ、食べられます」
反射的に答えた。
残すと、怒られる。
そう教えられてきたから。
だが、男は何も言わなかった。
ただ静かに、自分の食事を続けている。
食器の触れ合う音。
スープをすくう音。
窓の外から聞こえる、虫の音。
静かだ。
痛みも、怒声も、何もない。
ただ、温かい食事と静けさだけがあった。
やがて、皿が空になる。
「……ご馳走様でした」
「お粗末様」
男が皿を下げようとする。
「あ、私がやります」
咄嗟に立ち上がった。
「いいんだ。座っていてくれ」
「ですが……」
「いいから」
男の口調は穏やかだったが、有無を言わせない響きがあった。
仕方なく、席に戻る。
男が洗い物を片付ける音が響く。
僕は、それをただ見ていた。
何もすることがない。
けれど、何をしたらいいのかも分からない。
やがて男が皿を洗い終え、タオルで手を拭いて戻ってくる。
「……あの、ご主人様。こんな美味しいご飯、初めていただきました……。お腹いっぱい食べられたのも初めてです……ありがとう……ございます」
僕は礼を言いながら、思わず胸元の服の端を強く握りしめた。
この食事の後には、きっと──
以前の主人と同じように、
僕はまた、使われるのだろう。
外はもう暗い。
男は寝支度を整えていた。
……僕の寝床だけでも聞いておこう。
「ご主人様、私はどこで寝ればいいですか……?」
「ん、ああ……そうだな……」
そう呟きながら、男は部屋を見回す。
「ちょうどいい場所がある。おいで、シルヴィ」
「……はい……?」
男に導かれ、一つの部屋へ入る。
少し進んだ先に、
一人用のベッドと、チェストが置かれていた。
「この部屋を使ってくれ」
「……この部屋を、ですか……? それに……このベッドを……?」
視線が、自然と床へ落ちる。
「……私は、床で構いません」
男は、わずかに視線を巡らせた。
「診療所は別にあるが……ここにも用意してある。急患のためだ」
簡潔な説明。
使われていない部屋。
整えられたままの寝台。
──そのための場所。
「だから、遠慮はいらない。使ってくれ」
「……では、使わせていただきます」
ベッドから視線を外し、僕は一歩だけ後ろに下がった。
「……あの」
声が、わずかに掠れる。
言葉が詰まる。
喉の奥に引っかかっていたものが、ようやく形になる。
「……ご主人様」
声が、少し震えた。
「私は……これから、どうなるんですか」
間を置く。
「……何か……その……苦しいことや、恐ろしいことを、されるんでしょうか……」
視線は上げない。
上げれば、顔色を窺ってしまうから。
男は、少しだけ眉をひそめた。
「……そういうことは、しなくていい」
短く、しかしはっきりと否定する声。
「ほ、本当ですか?」
思わず顔を上げてしまう。
男の表情を読む。
怒っているのか、呆れているのか──それとも。
分からない。
だから、言葉を重ねるしかない。
「私、痛がってご主人様を喜ばせることが出来ます。前のご主人様も、悲鳴を聞いてとても嬉しそうでしたし……」
喉が乾く。
それでも、止めない。
「出来ることなら、他のお手伝いもします」
「ご飯も、少しで大丈夫ですから……」
これは、正しいはずだ。
こう言えば、機嫌を損ねずに済むはずだ。
「だから、どうか……お手柔らかにお願いします」
言い終えて、視線を落とす。
「……」
返事が、来ない。
沈黙。
短いはずの時間が、やけに長く伸びる。
何も言われない。
怒られもしない。笑われもしない。
──分からない。
何が正解だったのか、分からない。
その「分からなさ」が、じわりと胸の奥を侵していく。
「……あ、こ……ごめんなさい……」
言葉が、勝手に漏れた。
何に対しての謝罪かも分からないまま、口が動く。
「……その、おやすみなさいませ……ご主人様」
逃げるように言葉を切り上げる。
これ以上ここにいると、何かが崩れる気がした。
僕は視線を逸らし、ベッドの端へと身体を寄せた。
シルヴィになんて呼ばせよう……
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ご主人様
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先生
-
貴方(様)
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旦那様
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グリス
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その他(コメントとかマシュマロから)