Teaching Sweet Feeling 作:こまごめピペット
診療所の朝は、薬草の匂いから始まる。
棚の瓶を拭きながら、ラベルの字を目で追う。
読める字が、少しずつ増えていた。
この字は「煎じ」。
その隣は、たぶん「根」。
「よし……ん?」
蹄の音がしたのは、その時だった。
チャカポコ、チャカポコと、石畳を叩く規則正しい音。
雑巾を持った手が止まる。肩の力が、わずかに入る。
……あの音だ。
揺れる荷台の隙間から、白く濁った空を見ていた日。
色を失ったまま、運ばれていった日の音。
けれど、足の裏は冷たくならなかった。
あの荷台は、あの家から出るための荷台でもあった。
扉が叩かれ、彼がカルテから顔を上げた。
目が合う。
何かを察したのか、彼は立ち上がり、私の頭を撫でた。
「大丈夫か?」
「……はい。大丈夫です」
手が髪をすり抜けていく。
彼が扉を開けると、土や、馬、油を引いた革、わずかな香辛料の匂いが流れ込んできた。
「ご無沙汰しております、先生。頼まれていた薬草が入りましたので」
聞き慣れた声だった。
荷台の外で、何度も聞いていた声。
商人は箱を持ち、足を止めた。
その視線が、私へと向く。
「これは。見違えましたな」
変わったのは服だけだと思うのに、その目は、服を見ていなかった。
「……あ、あの日は、ありがとうございました」
言ってから、自分の声に驚く。
「いやいや、私は商売をしただけでして」
「それでも、です……あなたのおかげで、ご主人様に逢えたんです……」
箱がカウンターに置かれる。
乾いた根と、葉の束。紙の包み。
貴方が受け取るたびに、薬草の匂いが濃くなっていく。
貴方は何も言わなかった。
ただ、もう一度だけ、私の頭に手を乗せた。
「……お礼を言われる筋合いはありませんよ。まぁ……お元気そうで、何よりですが……」
商人は貴方の耳元へ顔を寄せた。
何か、短く告げる声。
私には、聞き取れなかった。
「……ああ」
貴方の返事も短かった。
「では」
商人は帽子を直し、診療所を出ていった。
蹄の音が遠ざかる。
チャカポコ、チャカポコと。 聞こえなくなるまで、私は扉を見ていた。
カウンターに残された領収書に、商人の名前が書かれていた。
「ふ、フェル……ムさんかな」
「お、読めたのか。偉いな」
◇◆◇
日が傾く頃、納められた薬草を棚へ仕舞った。
読める字の瓶は、読める場所へ。
まだ読めない字の瓶は、貴方に聞いてから。
「それは、右の二段目だ」
後ろから声がして、振り返る前に、貴方の手が肩越しに伸びた。
袖を捲った前腕が、視界の端を横切る。
手の甲に浮いた筋。節の立った、長い指。
私の手元にあった瓶を取り、棚の右二段目に納める。
貴方の香りが、顔のすぐ横で薬草と混じり合った。
背中には、触れてもいない体温だけが、淡く伝わってくる。
腕が下りるまでの、ほんの数秒。
私は、息を止めていた。
……この字は、あとで覚えよう。
そう思うのに、ラベルの字は目に入らず、私の視線は、いつの間にか、貴方の手を追っていた。
あの手が、私の頭を撫でる。そう思っただけで、耳の先が熱くなった。
シルヴィになんて呼ばせよう……
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ご主人様
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先生
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貴方(様)
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旦那様
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グリス
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その他(コメントとかマシュマロから)