Teaching Sweet Feeling 作:こまごめピペット
その男は、僕の頭を軽く撫でると、一言二言だけ言葉を残して仕事へ戻っていく。
手伝いを命じられることもない。
怒鳴られることもない。
──放っておかれていた。
せっかく引き取ったはずの奴隷を、使おうともしない。
ただ時折、頭や髪を撫でるだけ。
理解できなかった。
何のために、僕はここにいるのだろう。
食事は出される。
寝る場所もある。
殴られることもない。
けれど、それだけだった。
ここへ来て五日ほど経った頃。
恐る恐る、何か手伝えることはないかと尋ねると、男は少し考えてから、
「ふむ……掃除と、皿洗いを頼む」
そう言った。
力仕事のできない僕でもできる仕事だった。
それから数日。
僕は掃除と皿洗いをするようになった。
失敗をしても怒鳴られることはなく、仕事が終われば、男は時折僕の頭を撫でた。
……不思議な人だ。
◆◇◆
「今日は買い出しに行くよ」
朝食の席で、その人はそう言った。
「……お仕事のほうはどうするんですか……?」
「午前中は休んで、午後はゆっくりしようか」
その人は穏やかに微笑んだ。
「……わかりました。行ってらっしゃいませ」
すると、その人は不思議そうに目を瞬かせた。
「ん? シルヴィ、君も一緒に来るんだ」
「……え? 私もですか……?」
市場の賑わいや活気のある声は、前の主人のところでも嫌というほど聞いていた。
けれど、“自分が行く”という発想は、今まで一度も無かった。
奴隷が主人と並んで、買い物に出かける。
そんなこと、あっていいのだろうか。
小さく頷き、僕が食べ終えた食器を洗い終えると、「ほら、行こうか」とその人は立ち上がって手を差し伸べた。
一瞬、躊躇った。けれど、断る理由も思いつかない。
僕はそっと、その大きな手に自分の手を重ねた。
その人の手は、暖かかった。
今まで僕に触れてきた手とは違う。
痛めつけることも、何かを要求することもない。
ただ、そこにあってくれるような温もりだった。
通りに出ると、喧騒が僕たちを包んだ。
大きな噴水、行き交う人々の足音、店先から聞こえる威勢の良い呼び込みの声、馬車の車輪が石畳を軋ませる音。市場は活気に満ちていた。
気付けば、僕はその人の手を少し強く握っていた。
人混みではぐれないように。
……たぶん、それだけだ。
その人は、僕の歩調に合わせてゆっくりと歩いてくれた。
人混みの中で迷子にならないように、しっかりと手を引いてくれる。
市場の人々は、僕のような奴隷の姿を見ても、特に気に留める様子はない。
奴隷を持つのは珍しくないからだろう。
だけど、僕たちの歩き方は、きっと奇妙に映ったに違いない。
主人と奴隷という関係にしては……あまりにも距離が近すぎた。
◇◇◇
買い物を何とか終え、喧騒を縫うようにして人混みを抜けていくと、それまでの活気混じりの匂いとは違う、不意に甘い香りが鼻をくすぐった。
──焼き菓子の匂いだ。
気付けば、僕はそちらへ視線を向け、足を止めた。
通りの先、小さな喫茶店の窓際で、何人かの客が楽しそうに皿を囲んでいる。
その人は、僕の視線の先を追うように喫茶店を見た。
「あ……ごめんなさい、なにも無いです」
「そっか……少し早いけれどお昼にしようか」
「え……?」
「ちょうど休憩したいと思っていたんだ」
そう言って、その人は喫茶店の扉を開けた。
扉を開けると、外の喧騒が少し遠ざかり、美味しそうな香りと少し変わったウェイトレスさんが迎えた。
「いらっしゃいませー?」
木の机と椅子が並ぶ、小さな店だった。
昼前だからか客はまだ少なく、穏やかな空気が流れている。
「お二人様ですねー? こちらへどうぞー?」
少し変わった店員に連れられ、席に座ると
その人はメニューに目を通し何を注文するか考えているようだ。
その合間、視線が自然と周囲の卓へ向く。
丸く焼かれた生地。
四角いバター。
甘い香り。
さっきから、どうしても気になってしまう。
「……すみません」
その人はウェイトレスを呼んで、何かを注文していた。僕はぼんやりとそれを聞き流しながら、窓の外へ視線を向ける。
……しばらくして、甘い香りと一緒に皿が運ばれてきた。
丸く焼かれた生地の上に、四角く切られたバターと蜜がかかっている。
甘い匂いが、ふわりと鼻をくすぐった。
その皿は──その人の前ではなく、僕の目の前へと置かれた。
「……え?」
思わず、その人の顔を見る。
「シルヴィの分だよ」
穏やかな声だった。
「これ……私に……?」
奴隷が、こんなものを食べていいのだろうか。
こんな綺麗な店で。
主人と同じ席について。
甘い菓子を食べるなんて。
何か裏があるのだろうか。
戸惑っていると、その人は少し困ったように笑った。
「嫌いだったかな?」
「ち、違います……」
慌てて首を横に振る。
嫌いなわけがない。
むしろ、さっきからずっと気になっていた。
僕は恐る恐る、フォークを手に取った。
柔らかい生地を切り分け、そっと口へ運ぶ。
──甘い。
温かくて、柔らかい。
バターの油分。
蜂蜜の花の香り。
ふわふわとしたパンケーキが、口の中でゆっくり溶けていく甘さに、思わず動きが止まった。
こんなもの、食べたことがない。
「……おいしい?」
その人にそう聞かれ、僕は少し迷ってから、小さく頷いた。
その人は、どこか安心したように微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、僕の胸の奥で、何かが静かに、けれど確かに融け始めていくのを感じた。
シルヴィになんて呼ばせよう……
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ご主人様
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先生
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貴方(様)
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旦那様
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グリス
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その他(コメントとかマシュマロから)