※この作品はR-18です。

Teaching Sweet Feeling   作:こまごめピペット

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風邪を引いたあの日

 市場の喧騒から離れるにつれ、辺りは少しずつ静かになっていった。

 石畳を踏む靴音だけが、規則正しく耳へ残る。

 僕は袋を抱え直しながら、何度目か分からないほど服の袖を指先で弄った。

 

 慣れない。

 

 柔らかな生地も、身体へ沿う感覚も。

 歩くたび、服が擦れる感触に意識が向いてしまう。

 

「随分気に入られたな……」

 

 隣で、彼が少し苦笑混じりに言った。

 

「……はい」

 

 あの勢いを思い出し、小さく頷く。

 

「でも、悪い人ではなさそうだった」

「え……」

 

 思わず顔を上げる。

 

 彼は前を見たまま続けた。

 

「服、ちゃんと似合うもの選んでくれてたし」

「……」

 

 似合う。

 また、その言葉だ。

 

 どこかむず痒くなる。

 

 似合うはずがない。

 こんな身体。

 こんな傷だらけなのに。

 そう思うのに。

 鏡の中の姿を思い出すと、否定しきれない自分もいる。

 

「また買い出しの時に寄っていこうか」

「……はい」

 

 僕の返事は自然と短くなっていた。

 

 それ以上話すと、また感情が零れてしまいそうで。

 

 

 ◇◆◇

 

 

 家へ戻る頃には、陽はすっかり傾き始めていた。

 

 彼が扉を開ける。

 木の軋む音と共に、見慣れた室内の空気が流れ込んできた。

 

 市場の喧騒が、扉一枚で遠ざかる。

 

 僕は抱えていた袋を胸元へ引き寄せながら、小さく息を吐く。

 市場にいた間は気が張っていたのかもしれない。

 静かな家へ戻った途端、どっと疲労感が押し寄せてきた。

 

「少し座ってて。先に荷物置いてくるから」

「……はい」

 

 小さく頷き、椅子へ腰掛ける。

 椅子へ腰掛けた瞬間、スカートの裾が膝へ落ちる。

 

「……っ」

 

 思わず裾を押さえる。

 その仕草が、あまりにも自然に出たことへ少し戸惑った。

 

 前の自分なら、こんなこと気にもしなかったはずなのに。

 

 柔らかな布が膝へ触れる。

 細い袖口。

 腰へ沿う感覚。

 

 まだ着慣れないはずなのに、身体には妙に馴染んでいた。

 

 ……本当に、変な感じだ。

 

 ぼんやりそんなことを考えていると、奥から戻ってきた彼がこちらを見て、少し目を細めた。

 

「疲れたか?」

「いえ……その……」

 

 否定しようとして、言葉が止まる。

 

 疲れていないわけではなかった。

 

 慣れない人混み。

 慣れない服。

 慣れない視線。

 

 それに──。

 

 鏡の中の自分。

 

「……少しだけ」

 

 正直に答えると、彼は困ったように笑った。

 

「今日は色々あったからな……」

 

 そう言いながら近づいてきた彼は、自然な動作で僕の頭へ手を乗せた。

 

「っ……」

 

 びくり、と肩が揺れる。

 けれど、その手は乱暴ではなかった。

 ゆっくりと髪を撫でる感触が、じんわり頭へ伝わってくる。

 

「頑張ったな」

 

 その言葉に、胸の奥が妙にざわつく。

 

 奴隷として褒められることはあった。

 命令をこなした時。

 都合良く動いた時。

 

 けれど、こんな風に穏やかに言われたことは、ほとんど無かった気がする。

 

「……私は、別に……」

 

 誤魔化すように俯く。

 

 彼はそれ以上何も言わず、ゆっくりと手を離した。

 

 その温もりだけが、しばらく頭に残っていた。

 

「……夕飯の支度をしようか」

 

 静かな声に、僕は小さく顔を上げる。

 

「……手伝います」

 

 静かな台所には、包丁の音と鍋の煮える音だけが響いていた。

 

 誰かと並んで食事の支度をする。

 それだけのことが、妙に落ち着かなかった。

 

 ◇◆◇

 

 目を覚ます。

 

 頭がぼんやりしていた。

 

 熱い。

 

 喉の奥がひりついて、浅く咳が漏れる。

 

「……朝ごはん、作らなきゃ……」

 

 重い身体をゆっくり起こす。

 

 足元が少し揺れた。

 

 それでも服を整え、僕はリビングへ向かった。

 

「ん、シルヴィ、おはよ……ん?」

「おはようございます……ケホッ」

 

彼は小さく眉を寄せ、そのままこちらへ歩み寄ってくる。

 

「……顔色悪いな。熱は?」

「……すみません、風邪を引いてしまったかもしれません……」

 

 額へ触れた手がひんやりして気持ちいい。

 

「……熱があるな。シルヴィ、ベッドへ戻ろう」

「えっ、朝ごはん……」

「いい、消化に良いものを作るから、今は休んでて」

「あの、ご主人様……? そこまでしてくれなくても……」

「……シルヴィ」

 

 静かに名前を呼ばれる。

 

「今は休んで」

「……はい」

 

 逆らいづらい声音だった。

 

 ふらつく足取りのまま部屋へ戻る。

 扉を閉めた途端、張っていた力が抜けた。

 

「……っ」

 

 身体が重い。

 熱のせいで頭が上手く回らず、視界までぼんやり滲んでいる。

 

 なんとかベッドへ腰掛け、そのままゆっくり横になった。

 

 布団が少し冷たい。

 

 けれど、すぐに熱を持った身体がじわりと温めていく。

 

 喉が渇く。

 

 息をするたび、冷たい空気が肺へ入ってきた。

 

 ぼんやりと天井を見つめながら、小さく息を吐く。

 

「……けほっ……」

 

 乾いた咳が漏れた。

 喉の奥がじりじり焼けるように痛む。

 

 熱が上がってきているのが分かる。

 今までのものが一気に噴き出したのだろうか。

 

 頭がぼんやりする。

 瞼が重くて、何も考えられない。

 

 しばらくして、扉が静かに開いた。

 彼が薬と湯気の立つお粥を持って戻ってくる。

 

「……熱、かなり高いな」

 

 部屋に戻ってきた彼の声が、やけに遠く聞こえた。

 彼は椅子を引き寄せ、すぐそばへ腰掛ける。

 

 粥に少し息を吹きかけて、ゆっくりと匙を差し出した。

 

「口、あけて」

「……」

 

 反射的に小さく口を開く。

 

「熱いから、気をつけて」

「……っ」

 

 舌に触れたそれは、優しい味がした。

 

「っ……けほっ」

 

 喉を通る時、微かに痛みが走る。

 でも、彼は落ち着いて背中を撫でてくれた。

 

 ゆっくり、一口ずつ。

 熱のせいで喉が狭く感じて、嚥下するたびに小さな違和感があった。

 

 それでも、どうにか半分ほど食べ終える。

 

「……もう、いいですか」

「うん。よく食べたね」

 

 彼は粥のお椀をテーブルへ置くと、薬包紙を手にしていた。

 

「苦いけど、飲めるか?」

「……はい」

 

 薬を口へ含む。

 

 強い苦味が舌へ広がって、思わず眉が寄った。

 

「水」

 

 差し出されたコップを受け取り、ゆっくり喉へ流し込む。

 

「……っ」

 

 飲み込むだけで、喉が焼けるみたいに痛かった。

 

「……あとはゆっくりと寝ていて」

「……はい」

 

 彼の手が僕の額へ触れた。

 

 冷たい。

 でも、安心する冷たさだった。

 

「シルヴィはまだここへ来たばかりだし、きっと疲れていたんだろう」

「……でも……私は」

 

 僕は、奴隷なのに。

 ご主人様のために動かなくちゃいけないのに。

 

「いい。今は休むことだけを考えて」

 

 彼はそう言って、そっと布団をかけ直してくれた。

 

「大丈夫、そばにいるから」

「……っ」

 

 その言葉に、堪えていた何かがまた溢れ出そうになる。

 僕は震える手を布団の中で握りしめて、そっと目を閉じた。

 

 ……感情なんて無ければ良かったのに……

シルヴィになんて呼ばせよう……

  • ご主人様
  • 先生
  • 貴方(様)
  • 旦那様
  • グリス
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