Teaching Sweet Feeling 作:こまごめピペット
市場の喧騒から離れるにつれ、辺りは少しずつ静かになっていった。
石畳を踏む靴音だけが、規則正しく耳へ残る。
僕は袋を抱え直しながら、何度目か分からないほど服の袖を指先で弄った。
慣れない。
柔らかな生地も、身体へ沿う感覚も。
歩くたび、服が擦れる感触に意識が向いてしまう。
「随分気に入られたな……」
隣で、彼が少し苦笑混じりに言った。
「……はい」
あの勢いを思い出し、小さく頷く。
「でも、悪い人ではなさそうだった」
「え……」
思わず顔を上げる。
彼は前を見たまま続けた。
「服、ちゃんと似合うもの選んでくれてたし」
「……」
似合う。
また、その言葉だ。
どこかむず痒くなる。
似合うはずがない。
こんな身体。
こんな傷だらけなのに。
そう思うのに。
鏡の中の姿を思い出すと、否定しきれない自分もいる。
「また買い出しの時に寄っていこうか」
「……はい」
僕の返事は自然と短くなっていた。
それ以上話すと、また感情が零れてしまいそうで。
◇◆◇
家へ戻る頃には、陽はすっかり傾き始めていた。
彼が扉を開ける。
木の軋む音と共に、見慣れた室内の空気が流れ込んできた。
市場の喧騒が、扉一枚で遠ざかる。
僕は抱えていた袋を胸元へ引き寄せながら、小さく息を吐く。
市場にいた間は気が張っていたのかもしれない。
静かな家へ戻った途端、どっと疲労感が押し寄せてきた。
「少し座ってて。先に荷物置いてくるから」
「……はい」
小さく頷き、椅子へ腰掛ける。
椅子へ腰掛けた瞬間、スカートの裾が膝へ落ちる。
「……っ」
思わず裾を押さえる。
その仕草が、あまりにも自然に出たことへ少し戸惑った。
前の自分なら、こんなこと気にもしなかったはずなのに。
柔らかな布が膝へ触れる。
細い袖口。
腰へ沿う感覚。
まだ着慣れないはずなのに、身体には妙に馴染んでいた。
……本当に、変な感じだ。
ぼんやりそんなことを考えていると、奥から戻ってきた彼がこちらを見て、少し目を細めた。
「疲れたか?」
「いえ……その……」
否定しようとして、言葉が止まる。
疲れていないわけではなかった。
慣れない人混み。
慣れない服。
慣れない視線。
それに──。
鏡の中の自分。
「……少しだけ」
正直に答えると、彼は困ったように笑った。
「今日は色々あったからな……」
そう言いながら近づいてきた彼は、自然な動作で僕の頭へ手を乗せた。
「っ……」
びくり、と肩が揺れる。
けれど、その手は乱暴ではなかった。
ゆっくりと髪を撫でる感触が、じんわり頭へ伝わってくる。
「頑張ったな」
その言葉に、胸の奥が妙にざわつく。
奴隷として褒められることはあった。
命令をこなした時。
都合良く動いた時。
けれど、こんな風に穏やかに言われたことは、ほとんど無かった気がする。
「……私は、別に……」
誤魔化すように俯く。
彼はそれ以上何も言わず、ゆっくりと手を離した。
その温もりだけが、しばらく頭に残っていた。
「……夕飯の支度をしようか」
静かな声に、僕は小さく顔を上げる。
「……手伝います」
静かな台所には、包丁の音と鍋の煮える音だけが響いていた。
誰かと並んで食事の支度をする。
それだけのことが、妙に落ち着かなかった。
◇◆◇
目を覚ます。
頭がぼんやりしていた。
熱い。
喉の奥がひりついて、浅く咳が漏れる。
「……朝ごはん、作らなきゃ……」
重い身体をゆっくり起こす。
足元が少し揺れた。
それでも服を整え、僕はリビングへ向かった。
「ん、シルヴィ、おはよ……ん?」
「おはようございます……ケホッ」
彼は小さく眉を寄せ、そのままこちらへ歩み寄ってくる。
「……顔色悪いな。熱は?」
「……すみません、風邪を引いてしまったかもしれません……」
額へ触れた手がひんやりして気持ちいい。
「……熱があるな。シルヴィ、ベッドへ戻ろう」
「えっ、朝ごはん……」
「いい、消化に良いものを作るから、今は休んでて」
「あの、ご主人様……? そこまでしてくれなくても……」
「……シルヴィ」
静かに名前を呼ばれる。
「今は休んで」
「……はい」
逆らいづらい声音だった。
ふらつく足取りのまま部屋へ戻る。
扉を閉めた途端、張っていた力が抜けた。
「……っ」
身体が重い。
熱のせいで頭が上手く回らず、視界までぼんやり滲んでいる。
なんとかベッドへ腰掛け、そのままゆっくり横になった。
布団が少し冷たい。
けれど、すぐに熱を持った身体がじわりと温めていく。
喉が渇く。
息をするたび、冷たい空気が肺へ入ってきた。
ぼんやりと天井を見つめながら、小さく息を吐く。
「……けほっ……」
乾いた咳が漏れた。
喉の奥がじりじり焼けるように痛む。
熱が上がってきているのが分かる。
今までのものが一気に噴き出したのだろうか。
頭がぼんやりする。
瞼が重くて、何も考えられない。
しばらくして、扉が静かに開いた。
彼が薬と湯気の立つお粥を持って戻ってくる。
「……熱、かなり高いな」
部屋に戻ってきた彼の声が、やけに遠く聞こえた。
彼は椅子を引き寄せ、すぐそばへ腰掛ける。
粥に少し息を吹きかけて、ゆっくりと匙を差し出した。
「口、あけて」
「……」
反射的に小さく口を開く。
「熱いから、気をつけて」
「……っ」
舌に触れたそれは、優しい味がした。
「っ……けほっ」
喉を通る時、微かに痛みが走る。
でも、彼は落ち着いて背中を撫でてくれた。
ゆっくり、一口ずつ。
熱のせいで喉が狭く感じて、嚥下するたびに小さな違和感があった。
それでも、どうにか半分ほど食べ終える。
「……もう、いいですか」
「うん。よく食べたね」
彼は粥のお椀をテーブルへ置くと、薬包紙を手にしていた。
「苦いけど、飲めるか?」
「……はい」
薬を口へ含む。
強い苦味が舌へ広がって、思わず眉が寄った。
「水」
差し出されたコップを受け取り、ゆっくり喉へ流し込む。
「……っ」
飲み込むだけで、喉が焼けるみたいに痛かった。
「……あとはゆっくりと寝ていて」
「……はい」
彼の手が僕の額へ触れた。
冷たい。
でも、安心する冷たさだった。
「シルヴィはまだここへ来たばかりだし、きっと疲れていたんだろう」
「……でも……私は」
僕は、奴隷なのに。
ご主人様のために動かなくちゃいけないのに。
「いい。今は休むことだけを考えて」
彼はそう言って、そっと布団をかけ直してくれた。
「大丈夫、そばにいるから」
「……っ」
その言葉に、堪えていた何かがまた溢れ出そうになる。
僕は震える手を布団の中で握りしめて、そっと目を閉じた。
……感情なんて無ければ良かったのに……
シルヴィになんて呼ばせよう……
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ご主人様
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先生
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貴方(様)
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旦那様
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グリス
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その他(コメントとかマシュマロから)