Teaching Sweet Feeling 作:こまごめピペット
彼は僕に、酷いことをしない。
体の火傷痕を指先でなぞる。
鈍感になった皮膚が、それでもわずかな感触を拾う。
これは確かに自分の体だ。痛みを刻まれた、紛れもなく自分のもの。
なのに、時々ひどく他人事のように感じる。
銀色の髪。
銀の瞳。
華奢な指。
鏡を見るたび思ってしまう……これは僕の体ではないと。
けれど、悲鳴用の奴隷として生きてきた。
毎日痛くて、苦しくて。
18年間、泣こうが笑おうが、受ける仕打ちは変わらなかった。
感情を押し殺して、生きていた。
今はもう、誰も怒鳴らない。
殴らない。
ただ静かに、朝が来る。
……慣れない。
こんなに静かな毎日が、まだ少し怖い。
「シルヴィ、起きてるか? 今日も出かけようか」
扉越しに、彼の声がした。
僕は火傷痕から指を離し、小さく息を吐いた。
「……はい、今行きます」
ゆっくりと立ち上がり、じわりと床の冷たさが伝わってきた。
窓辺には、朝焼けがぼんやりと滲んでいる。
部屋を出ると、廊下に彼の背中が見えた。
「おはようございます」
「おはよう。調子はどうだ?」
「……大丈夫です」
彼は振り返り、軽く目を細めた。それだけで、胸の奥が少しだけ落ち着く。
朝食を済ませ、二人で通りへ出た。
石畳を踏む靴音が、規則正しく耳へ残る。
市場の喧騒が、少しずつ近づいてくる。
気付けば、彼の歩幅が僕に合わせて狭くなっていた。
……いつからだろう。
こういうことに、気付くようになったのは。
◇◆◇
買い物を終え、人混みを抜けたところで、彼が足を止めた。
視線の先に、見覚えのある喫茶店がある。
「せっかくだし、昼にしようか」
「……はい」
扉を開けると、甘い香りが流れ込んでくる。
前に来た時と同じ香りだ。
席に着き、昼食を済ませる。
温かいスープ。柔らかいパン。トマトとオリーブオイルの効いたスパゲティ。
全部、美味しかった。
食べ終えた頃、彼がメニューを開いた。
「デザートはどうする?」
「……え」
「好きな物を選ぶと良い」
「……良いのですか?」
「ああ」
メニューへ視線を落とす。
視線が、一つのところで止まった。
ショートケーキ。
「……これを、お願いしてもいいですか」
「もちろん」
彼はそう言って店員を呼んだ。
しばらくして運ばれてきた皿を見て、少し息を飲んだ。
白い生クリーム。
赤い苺。
薄く重なったスポンジ。
綺麗だと思った。
食べるのがもったいないとも。
「食べないのか?」
彼に促されフォークを手に取る。
そっと、クリームの部分を切り分け口に運ぶ。
───甘い。
パンケーキとは違う。
軽くて、溶けるような甘さ。
苺の酸味が後から来て、それがまた甘さを引き立てる。
「……おいしい?」
「……はい」
今度は、すぐに答えられた。
彼は微笑んだ。
その笑顔を見て、また胸の奥が温かくなる。
……あぁ、怖い。
こんなに、当たり前に笑いかけてくれる人が。
でも、もう一口、フォークを動かした。
生クリームの軽さ。
スポンジのふわふわした舌触り。
苺の甘酸っぱさ。
全部、知っているのに。
今日ほど、それを美味しく感じたことはない気がした。
彼は黙って、向かい側で紅茶を飲んでいた。
その姿勢のまま、何も言わない。
責めることも。
無理に話させることも。
ただ、目の前にいる。
そういう時間が一番落ち着く。
……怖くない。
この場所が。
この時間が。
皿が空になる頃、彼は静かに立ち上がった。
「行こうか」
「……はい」
店を出ると、午後の光が石畳に伸びていた。
帰り道、僕は少し彼の後ろを歩いていた。
気付いた彼が、歩調を緩める。
それだけで、自然と並んで歩く形になった。
靴音だけが二人分、石畳に響いていた。
◇◆◇
夜だった。
彼が帳簿を閉じた音がして、僕は顔を上げた。
「そろそろ寝るか」
「……はい」
立ち上がりかけて、止まった。
胸の奥に、何かがある。
ずっと、そこにあった。
感情なんて、なければよかった。
泣くことも、笑うことも、やめた。
感じることをやめれば、裏切られても傷つかない。
そうやって、18年間生きてきた。
なのに。
温かい粥を思い出す。
頭を撫でる手を思い出す。
「よく似合ってる」という声を思い出す。
感じてしまっている。
それが、怖かった。
僕なのか、私なのか、分からないまま。
この感情が誰のものなのかも、分からないまま。
それでも、確かにそこにある。
「……あの」
声が、思ったより小さく出た。
彼が振り返る。
「どうした?」
視線が合う。すぐに逸らした。
床を見つめながら、口を開く。閉じる。また開く。
「……ご主人様は」
「……私に、酷いことを、しませんよね」
沈黙。
「ここへ来てから、ずっと……優しくて……」
言葉が続かない。
こんなことを言うべきではなかった。
感情を見せれば、つけ込まれる。
弱みを晒せば、利用される。
ずっと、そう学んできた。
なのに、もう止められなかった。
「……感情なんて、なければよかった」
声が、掠れた。
「そうしたら、こんなに怖くなかった。……もし、また希望を持って……それで、裏切られたら……」
喉が詰まる。
「私、きっと……もう、耐えられない……」
言い終えて、後悔した。
早く謝らなければ。
早く、取り繕わなければ。
「す、すみません……忘れてください、こんな……」
「シルヴィ」
静かな声が、遮った。
びくり、と肩が跳ねる。
恐る恐る、顔を上げる。
彼は怒っていなかった。
呆れてもいなかった。
ただ、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「俺はお前を傷つけない」
低く、静かな声だった。
「……っ」
「誓うよ……信じてくれなくていい。絶対に酷いことはしないよ」
胸の奥で、何かが軋んだ。
感情なんてなければよかった。
そう思ってきた。
なのに今、この言葉が。
この声が。
じわりと、胸の奥へ沁みていく。
「……はい」
それだけ言うのが、精一杯だった。
彼はそれ以上何も言わず、ゆっくりと僕の頭へ手を置いた。
大きくて、暖かい手。
僕は、唇を強く引き結んだ。
目の奥が、じんわりと熱くなる。
……泣かない。
泣いてはいけない。
でも。
僕なのか、私なのか、分からないまま。
それでも……この手が、暖かかった。
シルヴィになんて呼ばせよう……
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ご主人様
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先生
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貴方(様)
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旦那様
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グリス
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その他(コメントとかマシュマロから)