Teaching Sweet Feeling 作:こまごめピペット
ロウソクだけが灯る、暗い部屋だった。
石造りの壁に、冷たい床。
鼻に残る鉄の臭い。
知っている場所だ。
前の主人の屋敷。
逃げなければ、と思う。
けれど、足が動かない。
壁に背中を押しつけたまま、ただ息を殺す。
遠くから、足音が近づいてくる。
規則正しく、重い足音。
聞き覚えのあるあの足音。
来るたびに、何かをされた。
熱いものを浴びせられた。
叫ばされた。
泣くことも許されなかった。
視界の端が歪み、その扉がとても大きく大きく感じた。
止まれ……来るな……来ないでくれ。
声が出ない。
扉に、影が差す。
ノブがゆっくりと回る。
耐えなきゃ……感情を殺して、叫ぶだけ……
「───っ!」
暗い天井。
静かな部屋。
息が……荒い。
全身が汗ばんでいる。
あれは……夢だ。
夢だった。
分かっているのに、心臓が早鐘を打っていた。
喉が渇く。
手が、微かに震えていた。
暗い部屋の中で、膝を抱える。
静かだ……静かだった。
僕以外の息遣いなど無い。
当たり前のことのはずなのに。
今夜だけは、その静けさが怖かった。
廊下の向こうに、彼の部屋がある。
……起こしてはいけない。
そう思う。
思うのに。
気付けば、ベッドから足を下ろしていた。
◇◆◇
廊下は、暗かった。
足音を立てないように、ゆっくりと歩く。
壁に手を添えながら進むと、指先に冷たい石の感触が伝わってくる。
夢の中の壁と同じ感触だった。
思わず手を離す。
胸の奥が、まだ震えている。
早く戻ろう。
そう思いながらも、足はゆっくりと彼の部屋へ向かっていた。
扉の前で、止まった。
ここまで来て、何をしようとしているのだろう。
起こしてしまう。
迷惑をかけてしまう。
こんな夜中に。
……それに。
こんな夢ごときで、誰かを頼るなんて。
18年間、一人で耐えてきた。
誰も助けてくれなかった。
助けを求めることも、許されなかった。
帰ろう。
そう思って、踵を返しかけた時。
「シルヴィ?」
扉が、静かに開いた。
彼が立っていた。
眠そうな目をしていたが、僕の顔を見た瞬間、少し表情が変わった。
「……どうした。顔色が悪い」
「……あの、その……」
声が、つっかえた。
「夢を、見て……」
それだけ言うのが精一杯だった。
彼は少し黙った。
それから、扉を大きく開けた。
「入りなさい」
「……でも」
「いいから」
有無を言わせない、穏やかな声。
僕は、小さく頷いた。
彼の部屋は、僕の部屋と同じくらい静かだった。
ベッドの端へ腰掛けると、彼が隣に座った。
何も言わない。
急かすことも。
理由を聞くことも。
ただ、そこにいる。
しばらくして、震えが少しずつ収まってきた。
「……怖い夢を、見ました」
ぽつりと、言葉が漏れた。
「前の……主人の、夢を」
彼は何も言わなかった。
ただ、静かに聞いていた。
「毎日、痛かったんです。毎日……何をされるか、分からなくて」
声が掠れる。
「泣いても、叫んでも……何も変わらなかった」
喉の奥が、じりじりと焼ける。
「だから、感じることをやめたんです。怖いとか、痛いとか……全部」
言葉が、ゆっくりと止まった。
「……でも」
彼を、見る。
「ここへ来てから……また、感じるようになってしまって」
言葉が続かない。
苦しかった。
何が苦しいのか、自分でも分からないまま。
……それでも、彼はただ静かに待っていた。
やがて彼は、静かに口を開いた。
「今日はここで寝ていくか」
問いかけではなく、確認するような声だった。
僕は、小さく頷いた。
布団を引き寄せ、横になる。
彼が隣に横たわる気配がした。
温かかった。
ただ、それだけで。
締め付けられたものが、少しずつ、ほどけていく気がした。
「……ご主人様」
「ん?」
「……ありがとうございます」
返事はなかった。
けれど、頭に大きな手が触れた。
ゆっくりと、一度だけ。
目を閉じる。
僕なのか、私なのか、分からないまま。
それでも。
この温もりの隣で、僕はゆっくりと眠りについた。
……温かい。
ゆっくりと、意識が戻ってくる。
隣に、人がいる。
彼の寝息が、すぐそばで聞こえた。
まだ、眠っているようだった。
起きなければ……。
朝食の支度もある。
洗い物もある。
……身体が動かない、いや、動きたくない……このまま、もう少しだけ。
そう思ってしまっている自分に気付いて、唇を引き結んだ。
おかしい。
こんなこと、思ったことなかったのに。
彼の寝顔を、そっと見る。
穏やかな顔だった。
仕事をしている時も。
患者と話している時も。
僕を見ている時も。
いつも、こんな顔をしている。
……この人は、怒らないのだろうか。
ふと、そんなことを思った。
怒鳴らない。
叩かない
傷つけない。
それが当たり前のことのはずなのに、どうしても信じきれなかった。
なのに。
昨夜、怖い夢を見て。
勝手に部屋まで来て。
隣で眠らせてもらった。
それでも、彼は何も言わなかった。
ただ、いてくれた。
「……」
視線を落とす。
布団から出た自分の手が見える。
細い指。
消えない傷跡。
この手が、昨夜彼の袖を、少しだけ掴んでいたことを思い出した。
眠る寸前に、無意識に。
……気付かれただろうか。
顔が、少し熱くなる。
その時、彼が小さく身じろいだ。
「……シルヴィ」
眠そうな、低い声だった。
「……おはようございます」
「ああ……おはよう」
彼はゆっくりと目を開けた。
こちらを見て、少し目を細める。
「よく眠れたか?」
「……はい」
彼は小さく頷いて、それからゆっくりと起き上がった。
朝の光が、窓から差し込んでいる。
いつもと同じ朝だった。
なのに……何かが、少し違う気がした。
「朝食にしようか」
「……はい」
ベッドから降りる。
床の冷たさが、足の裏に伝わってくる。
彼の後ろについて、台所へ向かう。
靴音が、二人分。
……昨夜のことを、後悔はしていなかった。
本当なら恥ずかしいと思うべきなのに。
迷惑をかけたと思うべきなのに。
それでも。
彼の部屋へ行ったことを、間違いだったとは思えなかった。
シルヴィになんて呼ばせよう……
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ご主人様
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先生
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貴方(様)
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旦那様
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グリス
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その他(コメントとかマシュマロから)