イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
その場所において絶望は音もなく降り積もる泥のようなものだった。
北方の大国テンブレム。その辺境に位置するガトン収容所。
石造りの壁は湿り気を帯びて黒ずみ、空気には鉄錆と排泄物、そして腐りかけた傷口が放つ死臭が混じり合っている。
薄桃色の髪を泥で固めたポーターは向かいの房に押し込められた数人の少女たちを鉄格子の隙間からうつろに眺めていた。
潰された両目から絶えず涙を流している銀髪の少女。 褐色の肌を無惨な痣で彩られ、壁にもたれかかる黒髪の少女。 赤髪を短く刈り込まれた小柄な少女、膝を抱え虚空を睨むさらに華奢な少女……。
彼女たちの名は知らない。
ただ、毎日入れ替わり立ち替わり現れる男たちに同じように「肉」として消費され、共に尊厳を摩耗させていく隣人であることだけを認識していた。
そこに言葉を交わすような人間的な温もりはなく、あるのは「次は自分か、あの子か」という獣じみた生存の比較だけだった。
重い鉄の扉が軋んだ悲鳴を上げて開く。
「……へっへ、今日はお大層な客人がお目見えだ。おいゴミども! シャキッとしやがれ!」
下卑た笑い声を上げ脂ぎった看守が土足で踏み込んでくる。
その後ろに現れたのはその場に不釣り合いなほど清冽な一団だった。
先頭に立つ男は夜の静寂を写し取ったかのような深い藍色の髪をなびかせ、汚れなき外套を翻している。
男――ランセルは、床に転がる彼女たちの惨状を一瞥しその端正な眉を深く苦痛に満ちたかのように寄せた。
「はあ……これが、人間の仕業か。あまりに醜い」
その声には彼女たちがこれまで浴びせられてきた嘲笑も嗜虐的な愉悦も含まれていなかった。
あるのは深い森の底を流れる清水のような、冷たくも透き通った「哀れみ」だった。
「おいおい綺麗な旦那、こいつらは元々敗戦国の捕虜だ。こうして遊んでやるのがせめてもの慈悲ってもんよ。で……品定めは済んだか?」
看守が下品な手つきでポーターの顎をしゃくり上げる。
ランセルはその光景を感情の失せた氷のような瞳で見据えた。
彼は何も答えず懐からずしりと重い革袋を取り出す。
チャリン、と硬質な音が響き看守の眼前に数枚の金貨が並べられた。
「ここにいる五人、すべてを買い取ろう。……釣銭は不要だ。その汚い手をすぐに彼女たちから離せ」
金貨の輝きに目を剥いた看守は卑屈な笑みを浮かべて手を引っ込めた。
「へいへい、交渉成立だ! どのみち使い潰す寸前だったんだ、助かるぜ!」
看守が金貨を数えながら立ち去る背中を見届け、ランセルは静かに膝をついた。
彼はポーターの泥まみれの頬に絹のように柔らかな手袋をはめた手をそっと添える。
「案ずるな、娘たち。ここでの地獄は今日で終わりだ」
ランセルの発したその言葉は冷たい牢獄の中に響く初めての福音だったのかもしれない。
ポーターは震える手で差し出された手の温もりを感じながら、自分がまだ「人間」として扱われる余地が残されていたことに音もなく涙をこぼした。