イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
掌に伝わるずっしりとした重み。
フェリオから渡された給与の入った封筒を握りしめポーターは賑やかな街の往来で立ち尽くしていた。
「買い物でもしてこい」と言われて送り出されたものの、そもそも自分に「欲しいもの」という概念があっただろうか。
これまではただ与えられる粗末な食事と、凌がされる苦痛が世界のすべてだったのだ。
困り果てて屋敷を出る前にルッツに泣きついたが、彼は
「何事も経験ですよポーターさん! 自分の足で歩いて自分の目で選ぶのが『自由』というものなんですから!」
と眩しい笑顔で背中を押されてしまった。
フェリオは「僅かばかりの賃金」と謙遜していたが、ポーターにとっては十分すぎる大金だ。
この紙切れや硬貨で何が買えるのか。何を願っていいのか。
彼女は迷い子のようにおぼつかない足取りで石畳を歩き始めた。
見渡せば街は活気に満ち溢れていた。
商店の軒先で威勢よく客を呼び込む中年の女性や瑞々しい果物を山積みにした荷車を力強く引く年配の女性。
ふと、ポーターはルッツから聞いた話を思い出す。
この街にはイスタール人の女性はおらず、彼女たちはみな本国で暮らしているという。
(…ということは、あの方たちも?)
ポーターは、働く女性たちの姿を食い入るように見つめた。
彼女たちもまた自分と同じようにガトンのような過酷な場所から引き取られ、かつては「修練の受け手」として夜を過ごした者たちなのだろうか。
ベンチに腰掛け穏やかな顔で談笑している紺色の髪の老人たち。
彼らもかつてはカナンやルイスのような修行者で戦士として、あるいは房中術の遣い手として激動の時代を生き抜き今はこうして平穏な余生を謳歌しているのだろうか。
どの顔も、どの声も、驚くほど充実していた。
以前までの自分がいた暗い檻がまるで遠い昔の悪夢であったかのように、ここでは誰もが尊厳を持って今日という日を謳歌している。
(私もいつか…あんな風に笑って、生きていけるのだろうか)
そんな期待と不安の入り混じった溜息を吐いた、その時だった。
「ねえ、あなた」
後ろからかけられた明るく弾んだ声。
ポーターが驚いて振り向くと、そこには自分と同じような使用人の服を纏った褐色の肌の少女が立っていた。
彼女は白い歯をこぼして、太陽のように微笑んでいる。
「やっぱり! あなた、あの収容所から一緒に連れられてきた子よね!?」
「えっ……あ、あの……」
ポーターの脳裏に記憶の断片が蘇る。
あの日、解放されてから向かった大浴場。
湯煙の中で、絶望に沈んでいた自分たちを励ますように明るく振る舞っていたあの少女だ。
ガトン収容所でも何度か姿を見かけ言葉こそ交わしたことはなかったが間違いなく地獄の底を共に耐え忍んだ「仲間」の一人だった。
「あの日、みんな別々の場所に引き取られていったでしょう? ずっと気になってたの。あなたたちがどこかで元気でやっていないかな、また会えないかなって探していたのよ」
彼女は屈託のない笑顔で笑う。
「私は『ルーアン』。よろしくね!」
「わ、私は……ポーターです。……よろしくお願いします」
思わず深々と頭を下げてしまったポーターに、ルーアンは吹き出すように笑った。
「えーっ、敬語なんてやめてよ! 私たち歳も同じくらいでしょう? 今はもうあの頃と違うんだからもっと楽にしましょうよ!」
ルーアンの朗らかさは淀んだ空気さえも一瞬で浄化してしまうような不思議な力を持っていた。
孤独な「自由」のなかで震えていたポーターの心に小さな、しかし確かな火が灯る。
「ねえ、あそこのお店でお茶でもしましょうよ!」
ルーアンは迷いのない足取りでポーターの袖を引いた。
「私、今日はお金持ってるから。ごちそうするわ!」
その言葉に、ポーターは慌てて首を振った。
「い、いえ…わ、わたしもお給金をもらっているので。自分の分は自分で払えるわ」
「……! そう、あなたも。良かった…」
ルーアンは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに慈しむような笑みを浮かべた。
ポーターもしっかりと働いて、その対価を得る生活を送っている。
その事実がルーアンには自分のことのように誇らしく、嬉しかったのだ。
二人が入ったのは街道に面した広いテラスのある落ち着いた雰囲気の食堂だった。
テーブルの上に2人分のサンドイッチと少しのお菓子、湯気を立てる芳醇な香りの紅茶が並ぶ。
(いくらお金があるとはいえ…自分のような奴隷の身で、このような場所にいていいのだろうか)
背筋を伸ばしティーカップを前に硬直するポーターの緊張を、ルーアンは鋭く察した。
「大丈夫よ、ポーター。このお店の女店主さんはとっても優しいの。私も以前一度来たことがあるんだけどお勧めを丁寧に教えてくれたりしてね。…彼女も、私たちと同じなのよ」
「え…?」
「あの方もかつては過酷な牢獄から引き取られた奴隷だったんですって。ここで『受け手』として立派に務め上げて、引退した後にこのお店で働き始めたの。今では前の店主さんからお店を引き継いでこうして立派に切り盛りしているのよ」
ルーアンが視線を向けた先、カウンターの奥で忙しそうに立ち働く一人の女性が二人の視線に気づいてにっこりと手を振った。
その穏やかで自信に満ちた微笑みはポーターにとって何よりも確かな「未来への希望」に見えた。
二人は、引き取られてからの日々について語り合った。
「良かった…。ポーターも良い主人の元にいるのね。本当に、あの日からずっと心配だったんだから。私だけが不当に恵まれているんじゃないかって、そればかり考えてたのよ」
ルーアンは何度も胸をなでおろした。
彼女のその勢いの良さに内向的なポーターは少しだけ気圧されてしまっていたが、彼女の言葉の一つ一つに宿る真実味に心底から温かい気持ちになった。
褐色の肌を輝かせ快活に笑う彼女は、地獄を知る者だからこその強さと優しさに溢れていた。
ルーアンを引き取ったのはデリーという名の高名な主だという。
フェリオの屋敷からも近く、主人同士も交流があるという話にポーターは不思議な縁を感じていた。
初めて得た「同性の友人」という存在。
会話を重ねその温かさに心が解けていくのを感じた頃、ルーアンが声を潜めわずかに熱を帯びた瞳で切り出した。
「それで、ポーター。……もう『修練』の相手はした?」
ポーターは一瞬で顔を赤く染め、俯きながらも正直に打ち明けた。
「…一度だけ、『愛情の修練』を。でも、来週からは『快楽』の方も始まると聞いて、その……すごく、不安なの。怖いというか、自分がどうなってしまうのか分からなくて」
するとルーアンは意外そうに目を輝かせ、身を乗り出した。
「不安? とんでもない! 私にとっては、『快楽の修練』こそが人生を変えるような経験だったわ。人によって好みはあるでしょうけど、私は……自分でも呆れるくらい、快感を求める体質だったみたい」
ルーアンは自分がどれほどその「支配」の虜になってしまったかを包み隠さず語り始めた。
愛情で包まれる安らぎも素晴らしいけれど、ただ純粋に肉体の限界まで快感だけを突き詰められ抗えない波に呑み込まれる背徳感。
「凄いなんてもんじゃないのよ……あんな、頭の芯まで真っ白になるようなハードな快感…」
ルーアンはその時の感覚を思い出したのか、褐色の頬をいっそう赤く染め恍惚とした吐息を漏らした。
それを聞きながらポーターは自分の下腹部がじりじりと熱くなるのを感じていた。
(…ああ、ルッツさんは、こんな気持ちで私の話を聞いていたのね)
以前、年下の少年に赤裸々な告白をして困らせてしまった申し訳なさが今さら身に染みたが、同時にルーアンの語る「未知の悦び」への渇望は止まらなかった。
だが、ルーアンの話にはまだ続きがあった。
「私ね……主人のデリー様にも抱かれているの」
ポーターは目を見開いた。
修行者ではなく、すでにその道を極めた「主人」その人にこの褐色の少女は抱かれているという驚くべき告白に。
「もちろん強制じゃないわ。デリー様は少し好色な方でね、夜伽を必要とされていた。でも、私が望まないなら決して手を出さないと言ってくださったの。……でも」
ルーアンはふっと虚空を見つめるような、どこか虚ろな、それでいて深い充足感に満ちた瞳で呟いた。
「……私、主への感謝と、自分の身体がどこまで連れて行かれるのか知りたい好奇心で、お受けしたの。私が断って、デリー様が外の女性に慰めてもらうなんて、なんだか嫌だと思ってしまったし。…そうしたら」
一呼吸置いて語られた言葉の重みに、ポーターは息を呑んだ。
「……とてつもなかったわ。修行者の方たちの技術も素晴らしいけど、それを終えて何年も生業にしている方の技術と言ったら…比較にならない。もちろん、私の『受け手』としての仕事に支障が出ないよう大分手加減はしてくれているはずなの。それでも、あの方は私のすべてを見透かして、私が一番欲しいところを、一番残酷な方法で与えてくれるのよ」
修行を終え、実地でその技を振るってきた「大人」の技術。
それは若き学徒たちが懸命に磨いているものとは次元の違う完成された「悦び」の深淵なのだろう。
(フェリオ様も……同じ、あるいはそれ以上の手練れなのだろうか)
脳裏にあの寡黙で厳格な主人の姿が浮かぶ。
もし、自分がフェリオに夜伽を願い出たら…。
あの鉄仮面のような表情が崩れ、熟練の技巧をもって自分を「快楽の受け手」として徹底的に暴き、蹂躙する日が来るのだろうか。
ルーアンの赤裸々な体験談と、フェリオの低い声を思い出しポーターはめまいを覚えるほどの興奮に襲われていた。
お茶を終え、店を出る頃にはポーターの心に渦巻いていた緊張はすっかり凪いでいた。
「ねえポーター、次は一緒にお洋服を買いに行きましょう。いつまでも使用人の服ばかりじゃ気が休まらないもの。私たちに似合うもっと可愛い服を一緒に探しましょうよ」
別れ際、ルーアンが弾んだ声でそう提案するとポーターは今度は迷わずに自然な笑みを浮かべて頷いた。
「うん…ぜひ。楽しみにしているわ」
大きく手を振って雑踏の中へと消えていくルーアンの後ろ姿をポーターは見送る。
あの日、地獄のような収容所で泥にまみれていた自分たちが今はこうして陽光の下で再会し、未来の約束を交わしている。
その奇跡のような事実に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
独りきりで歩き出した帰路。
見慣れたはずの街並みはほんの少し前よりも色鮮やかに見えた。
袖を通した清潔な服の感触、友人と分かち合った紅茶の香り、そしてこれから自分を待っている、恐ろしくも甘美な「修練」の予感。
(私は、もう独りじゃない……)
孤独だった自由の街で得た初めての友。
その存在を支えに、ポーターは確かな足取りでフェリオの屋敷へと向かう。
夕暮れに染まり始めた空を見上げ、彼女の唇からは自分でも驚くほど穏やかな幸せな溜息がこぼれるのだった。