イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
ロダンの屋敷の裏庭で銀髪の髪を風に揺らしセイレンは午後の柔らかな光を浴びながら、洗い立てのシーツを広げていた。
石鹸の清潔な香りと風にたなびく白。
監獄の暗闇で、ただ視力を失い汚濁にまみれていた日々が嘘のようだった。
ロダンは彼女を「使用人」として雇い、無理な労働を強いることもなくそれでいて一人の自立した人間として接してくれた。
そして、週に一度の「修練」。
すでに彼女は二度の夜を越えていた。
一度目は、心まで溶かし尽くすような慈愛に満ちた「愛情の修練」。
二度目は、意識が白濁し、自分という形が快楽の波に呑まれて消えてしまうような「快楽の修練」。
(……私、あんな声を出すなんて…)
思い出すだけでセイレンの白い頬は火を吹いたように赤くなる。
どちらの修練でも、彼女の身体は自分でも信じられないほど敏感に反応し、絶頂の果てに涙を流して修行者に縋り付いた。
しかし、彼女はルーアンとは違い「快楽」よりも「愛情」の修練の方を好んでいた。
快楽の修練はあまりにも鮮烈で女性の本能そのものを引きずり出されるような体験にまだ心が付いていかないでいた。
今の生活は、あまりにも恵まれすぎていた。
昼間は額に汗して働き、週に1度の「愛情の修練」では誰にも邪魔されない清潔な寝室で最高の技術を持つ男たちに心ゆくまで愛され満たされる。
もう一方の修練はあまりにも刺激的でまだ苦手意識があったが、それもいずれは慣れ受け入れられるかもしれない。
あの地獄のような監獄にいた自分がこんな幸福を享受していいのだろうか。
そんな贅沢な不安さえよぎるほどに。
セイレンが仕事を終え主であるロダンに報告すると彼はそれを頷きながら聞き、思い出したように彼女に告げた。
「そういえばセイレン、来週の修練だが予定が決まった。派遣されるのは例の『彼』だ」
「彼…?」
「ああ。君の目を治した、あのグレイスだ」
心臓が大きく、一度だけ跳ねた。
あの暗闇の中に光を連れてきてくれた人。
感謝を伝えたいと願いながら、いつか「修練」で向き合うことになる事実にずっと期待と恐れを抱き続けていた相手。
「彼は今回、君に対して『快楽の修練』を施すことになるだろう」
ズクンッ…と彼女の身体の芯に重い何かがのしかかる。
(快楽の修練…そんな、あの方と…)
ロダンに一礼し部屋から出た後も、セイレンはしばらく扉の前から動けなかった。
恩人と再会できる喜び。
けれど、その再会は自分が無様に快楽に悶える姿を彼に晒すことを意味している。
(あの方は、私のどんなはしたない声を聞くことになるの……?)
自らの醜態を見せたくないという拒絶感と同時に、今まで経験した二度の修練とは明らかに違う重い疼きが下腹部を駆け抜けた。
あのグレイスの手によって自分がどのように「修練」されるのかを想像するだけでセイレンの膝は微かに震えた。
瞳を治してくれた恩人に今度は女としてのすべてを捧げ、悦びという名の答えを返す。
その日が来ることを、セイレンは恐れながらも狂おしいほどに待ち望んでいた。
数日後――
修練のために訪れたグレイスを迎え、ロダンの屋敷の廊下には沈香の重たい香りが漂っていた。
修練室の重厚な扉を前にこの屋敷の主であるロダンは並んで立つグレイスに視線を向ける。
グレイスの口角にはどこか愉悦を含んだ薄い笑みが刻まれている。
相変わらず軽く掴みどころのない男だ。
「いいか、グレイス。中の娘――セイレンは、君が来るのを指折り数えて待っていた。ただの恩人と再会するような浮ついた期待じゃない。彼女は君という存在を、自らの魂を救い出した『光』として神格化している」
「し、神格ですか?それは光栄だなあ」
ロダンは扉の取っ手に手をかけた手を一瞬止めて囁いた。
「茶化すな。彼女の瞳に映る君はもはや一人の修行者ではない。……心して入るがいい。あの子の情熱はいささか『重い』ぞ」
扉が開かれる。
室内のベッドに端然と座っていたセイレンが弾かれたように立ち上がった。
「あ……」
喉の奥から小さく震える声が漏れる。
かつて深い闇の中にいた彼女の視界を繋ぎ止めた、その指先。
記憶の中にあるグレイスの輪郭が、今、確かな実体を持って目の前に現れた。
グレイスが室内へ一歩踏み込んだその瞬間だった。
「グレイス……様…っ!」
セイレンの膝が目に見えてガクガクと震え始める。
彼女は駆け寄ろうとしたが、込み上げる感情に足が追いつかない。
呼吸は浅く速くなり陶器のように白かった頬は見る間に鮮やかな朱に染まっていく。
瞬間、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出した。
それは悲しみではなく、あまりにも強すぎる思慕と待ち焦がれた再会の衝撃に耐えかねた決壊だった。
「ああ、どうして……もっと、もっと凛としてお迎えするつもりでしたのに……」
セイレンは自分の胸元を強く握りしめ必死に呼吸を整えようとするが、視線がグレイスと重なるたびにその身体は雷に打たれたように跳ねる。
彼女の瞳には熱烈な崇拝と言葉にならない飢餓感が混じり合い、もはや隠し通すことのできない「渇き」が露わになっていた。
取り乱すまいとすればするほど、彼女の指先は震え服の裾を強く握りすぎて生地が悲鳴を上げる。
「私、私は……グレイス様、私は…!」
そのあまりにも無防備で過剰な反応。
修行者を受け入れる「器」としての静謐さはどこにもなく、そこにあるのはたった一人の男を前にして理性が崩壊しかけている一人の女の剥き出しの心だった。
その光景を傍観していたロダンが低く、冷ややかな声を響かせた。
「…セイレン、はぁ……。これではとても修練にはならないな」
呆れるロダンの言葉にセイレンはハッと息を呑み、さらに顔を伏せて震えを強くした。
グレイスの前に立つ彼女の背中は、主に対する申し訳なさと情けない姿を見せている羞恥に激しく波打っていた。