イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
「まあまあ、ロダン様。今日は僕なりの修練として彼女を食事に連れて行ってもいいですか?」
張り詰めた空気の中、グレイスはいつものように気負わない調子で言った。
困ったように、けれど親しみやすい笑みを浮かべて頭をかくその姿には場を和ませる不思議な愛嬌がある。
「高貴な女性を悦ばせた後、その余韻を損なうことなく心地よい時間の中で食事を楽しませる――それもまた修行者に求められる高度な『もてなし』の一つですし」
へらっと笑うグレイスの意図を察し、また彼なりのやり方でセイレンの動揺を鎮めようとする気遣いを受け入れロダンは短くため息をついた。
「はぁ……勝手にしろ。ただしあまり遅くなるなよ」
「ありがとうございます、ロダン様。じゃ、セイレン?行こうか」
「えっ、あ、あの…」
狼狽して主を見るセイレンに対し軽く頷くロダンを尻目に、グレイスは彼女の手を握り部屋を出る。
夜の街に出る二人の背中を見送りながらロダンは独りごちた。
「あれは完全に、惚れてしまったなあ…」
夜の帳が下り始めた街を二人は歩いていた。
ガス灯の柔らかな光が石畳を照らし賑やかな大通りの喧騒から少し離れた落ち着いた佇まいの店を物色する。
「いやあ、まあ…そんなに身構えないでよ」
グレイスは彼の少し後ろを歩くセイレンに視線を落とし、フランクに語りかけた。
「さっきのは僕も驚いたけど、君があんなに僕のことを想ってくれてたなんて正直ちょっと照れくさいくらいだよ」
セイレンは俯き加減に、けれど熱を帯びた視線でグレイスを見上げた。
少し前を歩く彼の肩、柔らかな髪、そして自分を救ってくれたあの優しい声。
言葉を交わし、その体温を感じるたびに胸の奥で燻っていた小さな予感が鮮明な「自覚」へと変わっていく。
(ああ……私は、特別に思っている。この方を)
それは「恩人」への感謝を超え、一人の男を渇望する女としての情熱だった。
一方、グレイスは内心で少しばかりの困惑を抱えていた。
立場上、女性にたっぷりの愛情をかけた修練の最中に相手から好意を寄せられるのは初めてではない。
だが今回は勝手が違った。
(どうしたもんかな……)
奴隷である「受け手」が特定の修行者に執着するのは界隈では厄介な事態とされる。
他の修行者から修練を受ける際、心が拒絶を起こせばそれは彼女たちの価値を損なうことになりかねないからだ。
だが、少し後ろで控えめに、けれど一歩一歩を噛みしめるように歩くセイレンの姿――
その儚げな容姿や、怯えるようでいて芯の強い真っ直ぐな瞳。
それらは驚くほどグレイス自身の「好み」そのものだった。
(立場を守りつつ、この子の好意を蔑ろにせず…僕自身の気持ちも上手く繋ぐ……。まあ、何とか上手くやるしかないか)
自分のため、そして何より彼女のために。
焦らず最良の形を探ろうと彼は密かに決意した。
案内された店で食事が運ばれてくると、セイレンは改めて深々と頭を下げた。
「グレイス様…私の瞳を、救ってくださって本当にありがとうございました」
「あー、もうお礼はいいってば。僕の仕事だったんだから」
「それから…今日は本当なら『修練』を受ける予定でしたのに。このように予定を変えてしまって、問題はないのでしょうか。その、申し訳なくて…」
不安げに揺れる瞳を見てグレイスは相変わらず軽い調子で笑った。
「そんなの、特に大きな問題じゃないから。君がそんなに緊張してたら修練の効果も半減しちゃうしね。今日は『心を整える修練』ってことにすればいいんだよ」
その気さくな対応が少しずつ少しずつセイレンの緊張の糸を解いていく。
やっぱり…私はこの人を特別に想っているのだ。
吸い込まれるような整った顔も、自分を特別扱いしてくれる優しさも、すべてが愛おしい。
そんな彼女の熱視線を受け、グレイスはパスタを巻く手を止めて直球で問いかけた。
「セイレンは、僕のこと好きなの?」
「ふ、ふぐっ……!?」
あまりに唐突な質問にセイレンは飲み物を吹き出しそうになり、顔を真っ赤にして咳き込んだ。
グレイスは苦笑しながら言葉を続ける。
「光栄だし、すごくありがたいことだよ。でもね、分かっていると思うけど…君と僕が想い合うにはいくつもの障害がある」
セイレンの表情が一瞬で凍りついた。
突きつけられた冷酷な現実。
「恋愛のような気持ちを持っていても僕は他の女性を抱かなきゃいけない。 僕が君を好きになったとしても、君もまた他の男性の修練の相手をしなければならないんだ」
それがこの街の、この世界の理だ。
どれほど愛し合おうと、二人は「道具」であり「職人」なのだ。
成就することのない恋。
絶望が彼女の胸を締め付けようとした、その時。
「――でも、成就は可能かもしれない」
セイレンは目を見開いた。
「……え?」
「今までも、こういうことは少なくなかったって聞く。お互いの役割や仕事は割り切って、それでも一人の相手を大事に想い関係を深めることはできると思うんだ」
グレイスの言葉に消えかかっていた希望の灯が再び灯る。
「僕もそんなに経験があるわけじゃないから断言はできないけど。過去に上手くやれた先輩たちがいるなら僕たちにもできるはずだ。何をどうすべきかは今すぐには分からないけど……二人で上手くいく方法を、ゆっくり探っていくのはどうかな?」
身の程をわきまえろと、冷たく突き放されると思っていた。
だが、この青年は自分の好意を受け止めた上で「二人で考えよう」と提案してくれたのだ。
それはセイレンにとって、暗闇の中で差し出された二度目の救いの手だった。
「はい…! はい、グレイス様……っ」
「それでさ」
グレイスは悪戯っぽく身を乗り出し、セイレンの至近距離まで顔を近づけた。
端正な顔立ちが間近に迫り、セイレンの心臓は破裂しそうなほど脈打つ。
「次に会った時は、今度こそ『修練』の相手をしてくれる?」
その温かな微笑みに射抜かれセイレンは茹で上がったように真っ赤になりながら、小さく縦に首を振る。
「じゃあ次は…『愛情』と『快楽』の修練、どちらがいいかな?」
「え、選んでもよいのですか…?」
ロアンから聞かされていた話ではグレイスとの修練は「快楽」のであったはず。
しかしこの青年は自分を気遣ってか、洗濯の余地を与えてくれた。
「あの…」
セイレンは少し考え、意を決したように彼に告げる。
「私…愛情が…いいです。グレイス様に、とても……愛されてみたい」
この街に来て、初めての彼女の欲求であった。
真っ赤になって俯く彼女に、グレイスはにっこりと笑って応える。
「よかった。僕も断然そうしたいなと思っていたんだ」
彼の屈託のない笑みを受け、セイレンは胸の奥から全身に温かい感情が広がるのを感じていた。