イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
ルーアンと別れた帰り道、ポーターの胸には消したくても消えない小さな火が灯っていた。
「主君に抱かれている」――。
親友となった少女が頬を染めて語ったその言葉はポーターにとって未知の、しかし抗いがたい引力を持つ毒となって全身に回っていた。
これまでは自分を地獄から救い出し一人の人間としての尊厳を与えてくれたフェリオを、ただ慈悲深い「主」としてのみ仰ぎ見ていた。
だが今はその寡黙で厳格な横顔に、熟練の技巧を振るう一人の「男」としての影を見てしまう。
(もし…フェリオ様に抱かれたら、私はどうなってしまうのだろう)
イスタールの修行者たちが懸命に高みを目指す研鑽の徒であるならば、目の前の主人はその道を極め幾多の波を乗り越えて完成された熟練者だ。
そんな男にイスタール人特有の執拗な「読心」をもって隅々まで肉体の律動を暴かれたなら…想像するだけで下腹部の奥がじりじりと熱くなり、足の指先が丸まるような感覚に襲われる。
だが、ポーターはすぐに首を振ってその妄想を振り払った。
自分はまだ学びの途にある受け手の身だ。
主人の手を煩わせるなど言語道断であり、何よりもし主が与えてくれるであろう深淵な悦びを知ってしまったら…これからの修行者たちとの修練が物足りなく退屈に感じてしまうのではないか。
(それは、私に真摯に向き合ってくれる方々への何よりの非礼…)
修行者たちの純粋な研鑽を、主人の熟練と比較してしまうような失礼があってはならない。
ポーターは熱くなった頬を両手で押さえ、あふれ出しそうな好奇心と不敬な渇望に今は固く蓋をすることを決めた。
そんな折、執務室からフェリオに呼ばれポーターは心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃を受けた。
「失礼いたします、フェリオ様…」
部屋に入ると相変わらずの鉄面皮で書類に目を落とす主の姿があった。
先ほどまで抱いていた不遜な想像が脳裏をよぎり、ポーターの顔は瞬時に赤く染まる。
しかしフェリオは彼女の動揺を気にする様子もなく――淡々と来週の予定を告げた。
「君にとっての2回目の修練の予定だが。…次回は『快楽の修練』だ」
その言葉にポーターの肩がびくりと震えた。
「相手の修行者は『グレイス』という。技術に関しては修行者の中でも抜きん出たものを持っている男だ。心して励むように」
「……はい。かしこまりました」
退出した後もポーターの緊張は解けなかった。
「愛情の修練」はカナンという修行者の手によって凍てついた心を溶かすような天国に導かれた。
だが、次に行われるのはルーアンが「たまらない」と目を輝かせていた肉体の本能を屈服させるための蹂躙だ。
(私は、どちら側の女なのだろう……)
愛に満たされることを望むのか、それとも抗いようのない快楽の渦に叩き落されることを悦ぶのか。
自分自身でもまだ知らない「女の本性」を暴かれる日が、すぐそこまで迫っていた。
――そして、修練当日。
フェリオの屋敷の門前に一人の青年が立っていた。
紺色の髪を端正に整えた修行者、グレイスである。
彼は門を潜る直前、わずかに足を止め重い溜息をついた。
その脳裏にあったのはこれから向き合うポーターのことではなく、先日食堂で食事を共にしたあの銀髪の少女――セイレンの姿だった。
(まいったなあ……。日が経つごとにあの子のことばかり考えてしまう)
そう思いながらグレイスは頭を掻く。
光を取り戻した彼女の瞳が自分への純粋な好意で揺れていたこと。
それに触れた時、自分の中の「修行者」としての冷静さがわずかに、しかし確実に揺らいだこと。
彼女のことが愛おしい。
それは偽らざる本心だった。
だが、今の自分は技術を磨く身であり今日は別の女性を「修練」の相手として迎えねばならない。
「……いや、修練は修練だ。しっかりやらなきゃな」
グレイスは自分に言い聞かせるように呟いた。
果たして自分は心に想い人を抱きながら、それとは切り離して性の修練を他の女性と今まで通りにこなせるのか。
また、セイレンも自分を想ってくれているようだが…彼女との未来を望むのであれば自分という存在が彼女の「受け手」としての役目に悪い影響を与えてしまってはいけない。
(この葛藤を乗り越え職能を全うした先にこそ、僕たち二人の未来があるのかもね)
グレイスは意を決し表情を「修行者」のものへと切り替えた。
その瞳からは迷いが消え、代わりに他者の律動を冷徹に捉える鋭い光が宿る。
彼は重厚な扉を叩き静かに屋敷の中へと足を踏み入れた。
そこには、初めての「蹂躙」を待ちわび、怯えながらも熱を孕んだ瞳で自分を見つめる桃色の髪の少女が待っていた。