イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
馬車が到着したのはイスタールの街外れに建つ端正な石造りの建物だった。
王宮のような過剰な装飾はない。
しかし磨き上げられた床や手入れの行き届いた円柱からは、この国の人々が「清潔」という概念に祈りにも似た敬意を払っていることが伺えた。
「さあ降りろ。まずはその身体を清めるのが先決だ」
ランセルの静かな促しに従いポーターたちはふらつく足取りで中へと進む。
内部は高い天井から柔らかな自然光が差し込み、乳白色の湯を湛えた大浴槽が静かに湯気を上げていた。
無駄を削ぎ落としたその空間は収容所の泥に塗れていた彼女たちにとって恐ろしいほどに清浄で、神聖な聖域のように感じられた。
広間に集められたのは五人。
薄桃色の髪のポーター、白い肌に長い銀髪のセイレン、褐色肌に豊かな黒髪のルーアン、赤髪を短く切られたミニス、そして周囲を睨む華奢なキルヴィ。
彼女たちは互いに視線を交わす余裕すらなく、ただ自分と同じように汚れ傷ついた少女が他にもいるのだとどこか他人事のようにぼんやりと認識しているに過ぎなかった。
「身体中傷だらけだな…治癒の魔法が使える者は全体にかけてやれ。それにしても臭いが酷い…ある程度傷を癒したら身体を洗ってやるんだ。修行前の少年たちを呼べ」
ランセルの合図で杖を持った数人の男たちがその杖先から淡い緑の光を放つ。
ポーター達の全身に刻まれた数多くの傷が嘘のように癒えていく。
全身の痛みが消えていく驚きで顔を見合わせるポーター達の前に、十代半ばほどの藍色の髪を短く刈り込んだ数人の少年たちが現れた。
彼らは少女たちの前に立つと、事務的ではあるが驚くほど静かに、そして丁寧にその身体を洗い始めた。
「……失礼します。痛むところがあれば教えてくださいね」
ポーターの担当となった少年は目を伏せながらも手際よく、柔らかな布と泡で彼女の肌を拭っていく。
かつて収容所の男たちが向けた汚物を弄るような、あるいは獣が獲物を品定めするような視線はそこにはない。彼らはただ目の前の汚れを落とし、一人の女性を「整える」という儀式に専念していた。
(……温かい。痛くない……)
お湯が肌に触れる心地よさに、ポーターは思わず鼻の奥が熱くなった。
少年たちが指先で丁寧に梳かすたび、泥で固まっていた桃色の髪が本来のしなやかさを取り戻し、水面に花開くように広がっていく。
その傍らでは、青年の修行者によるセイレンの目の治療が静かに行われていた。
「少し眩しくなるが、我慢してくれ」
セイレンの潰れされた瞳は通常の魔法では治癒が困難なほどの深手だったため治癒魔法に長けたグレイスという青年が呼ばれたようだ。
彼が両手を光を失った彼女の目に翳す。瞬く間に慈愛に満ちた緑の光が彼女の顔を包み込んだ。
泡に包まれながらポーターはその光景を息を呑んで見守っていた。
半刻ほど経った頃だろうか。
それまで力なく閉じられていたセイレンの睫毛が微かに震えた。
「あ……」
セイレンがゆっくりと、恐る恐る目を開く。
「お、…見える?」
顔の前でひらひらと手を振るグレイスの問いに彼女はすぐには答えられなかった。
視界はまだ霞の中にある。
けれど自分を覗き込む男の、深い藍色の髪と精悍な顔立ちが光の粒の中に浮かび上がっていた。
「……はい…光が、見えます…」
感謝を伝えるべき言葉が唇の端で震える。
けれど、あまりの衝撃とあまりに久方ぶりの「色彩」という感覚に彼女の心は追いつかなかった。
洗浄が終わり彼女たちは清潔な綿のローブを渡された。
髪を整え汚れを落とした五人は見違えるほどに瑞々しい姿を取り戻していた。
ポーターは隣で同じようにローブを羽織ったセイレンの顔をぼんやりと見つめた。
(この子の目は…こんなに綺麗な紺色だったのね…)
言葉を交わすことはなかった。
けれど地獄を共に生き延び、今この静かな水場で共に「人間」へと戻りつつある彼女たちに対しポーターは名も知らぬ仲間としての、淡い同情と親近感、そしてその瞳が光を取り戻した安堵を抱いていた。
「さあ食事だ。奥の部屋へ行きなさい」
ランセルに促され、彼女たちは湿った足音を響かせながらさらに奥の食堂へと向かった。