イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
その部屋の空気は張り詰めた弦のように鋭く、重かった。
ポーターは広々とした主寝室のベッドの端に腰掛け、膝の上で指を固く組み合わせていた。
来週から始まると告げられていた「快楽の修練」。
その当日を迎えた彼女の心臓は薄い胸板を内側から突き破らんばかりに激しく脈打っている。
逃げ出したいような恐怖と、蓋をしたはずの不謹慎な期待が彼女の思考を千々に乱していた。
やがて、静寂を破って廊下に足音が響く。
規則正しく迷いのないその足音が部屋の前で止まり、重厚な扉が静かに開かれた。
入ってきたのは紺色の髪を端正に整えた修行者、グレイスであった。
彼は、ベッドの上で震える小動物のように怯えて待っているポーターの姿を認めると、ふわりと春の陽だまりのような気さくな微笑を浮かべた。
「待たせてしまったね、ポーター。フェリオ様から話は聞いているよ。あまり緊張しなくていい、リラックスして」
その涼やかな声と威圧感のない穏やかな物腰。
ポーターの心を支配していた凍りつくような不安は、彼の優しそうな青年の貌を見ていくらか和らぐのを感じていた。
だが、その安心感は次の瞬間から始まる未知の研鑽への入り口に過ぎなかった。
「…あの、グレイス様。私は、『快楽の修練』は今日が初めてで……。先日受けた『愛情の修練』は、とても温かくて、その…天国のような素晴らしい内容だったのですが…。快楽の方はいったい何が違うのでしょうか」
おずおずと、しかし切実に問いかけるポーターにグレイスは「ふむ」と顎に手を当てて考え込んだ。
その思慮深い仕草さえ年若い少女の目には信頼に値する誠実なものに映る。
「そうだね。百聞は一見に如かずと言うけれど……少し準備をさせてもらおうか」
グレイスは傍らに置いてあった革の袋をベッドの脇に置き、中から次々と「道具」を取り出し始めた。
それを見た瞬間、ポーターはひゅっと息を呑んだ。
鈍い光を放つ何本もの丈夫なロープ。
用途の知れぬ淡い色をした液体が入った瓶。
そして、大小さまざまな銀色や木製の奇妙な形状をした器具。
どれをどのように使うものなのかポーターにはさっぱりと見当もつかなかったが、それらが放つ異様な威圧感が彼女の肌を粟立たせた。
「聞いていると思うけれど君が前回受けた『愛情の修練』は僕たちがいずれ高貴な立場や王族の女性を心身ともにもてなし、悦ばせるための技を磨くこと。つまり、奉仕の精神だね」
グレイスは穏やかに語りかけながらベッドに腰掛けるポーターの手をそっと取った。
その手のひらは驚くほど滑らかで温かい。
しかし、その優しい言動とは裏腹にグレイスの指先は驚異的な速度と精密さで動き始めた。
ポーターが瞬きをする間に彼女の手首にはざらりとした麻縄の感触が走り、気づいた時には複雑な結び目によって固く縛り上げられていた。
「えっ……あ、あの…グレイス様?」
あまりにスムーズに自らの自由が奪われていくことに、ポーターは困惑し思考が追いつかない。
抗う間もなく彼女の体は柔らかな羽毛の海へと押し倒された。
「じゃあ『快楽』の方は何かっていうとね。これは修行者によって捉え方が違うから、修練の内容も人それぞれなんだ」
そう言いながら今度は流れるような所覚で彼女の脚の自由を奪っていく。
太腿から足首にかけて、肉に食い込む縄の感触が彼女が「女」であることを強く意識させた。
(人によって内容が違う…では、この、拘束するような方法はグレイス様独自のことなの?)
あっという間に四肢を封じられ蜘蛛の巣に囚われた蝶のような無力な姿にされたことにポーターは戦慄した。
和らいだはずの不安はより濃密な恐怖と言いようのない期待を孕んだ羞恥へと変貌し、彼女の心を占めていく。
「僕にとっての『快楽の修練』は――。決して口を割らない囚われの女性を暴力などで傷つけることなく、その『技』によって陥落させる場面を想定した練習なんだよ」
ポーターの自由を完全に奪い去り、文字通りまな板の上の魚としたところでグレイスは至近距離で優しく微笑んだ。
その瞳の奥には、先ほどの気さくな青年とは別の、対象を冷徹に分解し快感の急所を的確に探り当てようとする「尋問官」の鋭い光が宿っている。
「そっ……それは、…今から私が、その囚われの女性の役割になるということ……なのでしょうか」
ポーターは顔を青ざめさせ震える声で尋ねた。
剥き出しにされた自身の律動が、読心能力を持つ彼に恐怖で激しく波打っていることを悟られているのが分かった。
「そう……。今から君は、どれほど快感に責められても決して秘密を漏らさない捕虜の女性だ」
グレイスは最後の一仕上げとして漆黒の布を手に取った。
「何も見えなくていい。耳を澄ませて自分の体が奏でる音だけを聴くといいよ」
視界を奪われ世界が完全な闇に包まれる。
視覚という最大の情報を失ったことでポーターの感覚は極限まで研ぎ澄まされた。
暗闇の中、どこからどのような「蹂躙」が始まるのか。
これから始まる抗うことを許されない悦楽の嵐を予感し、ポーターは声もなくただひたすらに身を震わせるしかなかった。