イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
「酷いです……グレイス様」
四肢を縛り上げていた縄は解かれたが、ポーターの身体にはいまだにその食い込みの感触と、沸騰するような熱が残り続けていた。
彼女は乱れた髪をベッドに散らし、荒い吐息を整えながら恨めしげな視線を修行者へと向ける。
「ごめんね。君の反応があまりに良くてついハメを外してしまったかもしれない」
グレイスはそう言いながら横たわる彼女の傍らに腰を下ろした。
つい数分前まで冷徹な尋問官として彼女の身体を責め立てていたその手は、今は驚くほど優しく汗ばんだ彼女の背中をさすり、柔らかな髪を撫でる。
「あっ……」
この優しさが、狡い。
イスタール人の男たちはその根底に底知れぬ慈愛を秘めている。
特に女性に対してはまるで壊れやすい宝物を扱うかのように恭しく、敬うように接してくれるのだ。
修練という大義名分の下、いくら快楽で蹂躙され尊厳を剥ぎ取られるような扱いを受けても、事後のこの甘やかな扱いに触れると過酷な監獄で人間以下の扱いを耐え忍んできたポーターの心は、瞬く間に溶かされてしまう。
「グレイス様…」
ポーターはおずおずと、自らを責め抜いた男の手へと自分の手を伸ばした。
グレイスはそれを拒むことなく大きな掌でそっと包み込む。
「あの…私、怖いんです。……快楽の修練が、とても気持ちよくて…。でも、私……」
彼女は、自分を地獄から救ってくれたこの家とこの修行者に失礼がないよう慎重に言葉を選んだ。
「先日受けたカナン様の『愛情の修練』は……何も良いことなんてなかった私の人生に訪れた、初めての幸せな体験でした。それを、さっきのような強烈な刺激で上塗りされるのが、壊されてしまうのが…怖いんです」
カナンに注がれたあの純粋な愛の記憶。
先程のの「蹂躙」があまりに鮮烈であったがゆえに、自らの本能がカナンとの特別な体験を「物足りない」と断じてしまうのではないか。
その予感が彼女を震えさせていた。
「ふーむ……」
グレイスは彼女の隣に寝転び握り合った指先を優しく弄びながら言った。
「ポーターは、愛情の修練を好むんだね。なら、大丈夫だよ。今度またカナンか…あるいは他の修行者に愛情の修練を受けてごらん? きっと、あんな無機質な作り物より心を持って抱かれる方がずっと良いと改めて思い知るはずだから」
グレイスの微笑みはどこまでも穏やかで確信に満ちていた。
確かに、先ほどの責めは肉体を支配し絶頂を強要する暴力的な悦びであった。
だが心を温かく包み込み魂の深淵まで溶け合うような愛情の相乗効果に勝るものなどこの世にあるだろうか。
冷静になった今、ポーターの心はやはり後者のぬくもりを求めていた。
「それなら、良かったです……。あの、でも……今日のも、本当は…その、とても気持ちよくて…」
彼女は顔を真っ赤に染め、恥じ入るように枕に顔を埋めた。
その無防備で愛くるしい姿にグレイスは安心させるための演技としての笑顔ではなく、心からの微笑を零した。
「そういえば」
ふと思い至ったように、ポーターが顔を上げた。
「グレイス様は、私に『愛情の修練』をしてはくださらないのですか?」
「……」
それは、あまりにも何気ない無垢な疑問だった。
彼女はただ、先ほどの彼の言い回しの中に自分を外した「カナンか他の修行者に」という言葉があったことが気にかかっただけだったのだ。
「……もちろん。機会があれば、ぜひよろしくね」
わずかな沈黙の後、グレイスは完璧な「修行者」の笑顔を浮かべた。
「は……はい……っ」
またしても頬を赤らめて視線を逸らすポーター。
グレイスは今の刹那の「間」を彼女に悟られなかったことに内心で安堵しながら、胸の内に疼いた想いに向き合っていた。
彼女の質問を受けた瞬間、脳裏を過ったのは一人の銀髪の女性。
あの美しく儚いセイレンを特別に想いながら、果たして自分は、今日の冷徹な「快楽」のときのように、何の迷いもなく「愛情」の修練を他の女性に施すことができるのだろうか、と。
その頃。
ロアンの屋敷の一室ではセイレンが新たな「修練」の渦中にいた。
今回の修行者は若く知性的な面立ちの青年だった。
彼はセイレンという女性の出自に深い敬意を払い、まるで一級の宝石を鑑定するかのような慎重な手つきで、しかし冷徹なまでに正確な「快楽」の修練を施していく。
修練が始まる直前までセイレンの胸には拭いきれない不安があった。
(グレイス様にあれほど心を奪われてしまった私が、他の殿方に素直に心と体を開けるのだろうか……)
修行者に対し拒絶や冷ややかな心を抱いてしまうのではないか。
もしそうなれば受け手としての価値を疑われ、主人の期待を裏切ることになる。
セイレンは自らの恋心がこの世界での唯一の役割を妨げることを何より恐れていたのだ。
しかし、その心配はすぐに無意味であったと悟らされることになる。
修行者の指先が、紡がれる言葉が、そしてイスタールの読心が
彼女の浅い不安などに左右されるほど稚拙なはずもなかった。
彼はセイレンの呼吸の乱れ、肌の微かな震え、そして心の奥底に潜む「愛への渇望」すらも、修練を燃え上がらせる火種として利用し彼女を容赦なく快楽の深淵へと引きずり込んでいった。
「――っ、あ、ぁ……っ!」
やがて修練が終わり、修行者が礼儀正しく退室した後。
セイレンは乱れた寝台の上で白濁した意識を漂わせながら熱を帯びた己の身体を抱きしめていた。
汗ばんだ肌を伝う熱は以前と変わらず、あるいはそれ以上に鮮明に彼女の感覚を焼き尽くしていた。
あんなにグレイスを慕っているはずなのに、別の男性の手によって自分はこれほどまでに無惨に、そして甘美に乱されてしまったのだ。
(……ああ、そうか。こういうことなのですね、グレイス様)
意識の混濁の中でセイレンはあの日、グレイスが言った「割り切る」という言葉の真意をその身を以て掴みかけていた。
想い人がいようとも受け手としての本能は修行者の卓越した技に抗うことはできない。
役目を全うし、相手を満足させる反応を返しながらも心の最奥にある「聖域」にだけはただ一人を住まわせ続ける。
それは一見すれば一人の男性を想いながら他の男性に容易く屈する破廉恥な行為に見えるだろう。
だがこの歪なイスタールの世界において、修行者と受け手との恋心を死守するための唯一の術なのだ。
(グレイス様が仰った『うまくやる』というのは、きっと、この矛盾を抱えたまま歩み続けること……)
願わくば、グレイスも自分と同じであってほしい。自分を好いてほしい。
けれど、その想いが彼の「修行者」としての研鑽を鈍らせるものであってはならない。
「……嫉妬は、いたしません」
誰もいない静寂の部屋で彼女は熱い吐息とともに誓いを零した。
彼が他の女性を抱くのは仕事であり、修行なのだから。
ただ、その長い夜が終わった後、彼が一番に思い出す名前が「セイレン」であればいい。
矛盾に満ちた自分を受け入れ、恋の痛みが快楽と混ざり合う中で彼女はグレイスへの想いをさらに深く、確かなものへと変えていくのであった。