イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
その朝、ミニスは己の内に巣食う「獣」の存在を意識し浅い呼吸を繰り返していた。
窓から差し込むイスタールの柔らかな朝日は、かつてガトン収容所の冷たい石畳の上で浴びた死を予感させる冬の陽光とはあまりに違っていた。
整えられた清潔な寝台、肌を滑る上質な服。
この「黄金の檻」での暮らしは本来なら彼女の心を穏やかに満たすはずのものだった。
しかし、鏡に映る自分を見るたびミニスは激しい眩暈めまいを覚える。
少年のような短い赤髪。小柄でまだ幼さを残した華奢な肢体。
その容姿は、ガトンにおいては「希少な獲物」として男たちの残虐性を煽るだけの呪いでしかなかった。
あそこでの営みは裂けるような痛みと、肺が潰れるような汚濁にまみれた窒息の時間でしかなかったはずなのだ。
(……なのに、どうして。こんなにも欲しくてたまらなくなってしまったんだろう)
ミニスは自分の細い肩を抱きしめ指先に力を込めた。
最初の夜。あの日を境に彼女の世界は残酷に塗り替えられた。
イスタール人の修行者が施した「愛情の修練」。
それはただ物理的に肉体を繋げるだけの蛮行とは対極にある、魂を指先から溶かしていくような儀式だった。
「怖がらなくていい。君の体が何を求めているか私にはすべて聞こえているから」
優しく囁きながら彼女の肉体の律動を正確に読み取っていく修行者の指。
痛みが期待に変わり恐怖が痺れるような熱へと変質した瞬間、ミニスは生まれて初めて「絶頂」という名の雷光に打たれた。
一度知ってしまったらもう戻れない。
ポーターやセイレンのように戸惑いを見せることも、ルーアンのように歓喜の念に昇華させることも彼女にはできなかった。
ミニスの内にあったのはもっと卑俗で、もっと根源的な底なしの飢えだった。
「快楽の修練」においてはその渇きはさらに醜く美しく暴かれた。
愛情の修練で知ってしまった「絶頂」の味をただひたすらに、あらゆる方法で貪らされる冷徹な快楽の波。
イスタール人の限定的読心によって暴かれた彼女の「ツボ」は、本人の意思とは無関係に、貪欲な痙攣をもって応えてしまう。
「もっと、もっと……お願いします……」
あんなに嫌っていたはずの男の手を自ら手繰り寄せ、歓喜の涙を流しながら悦びを請うていた自分の姿。
「僕はあの『イク』という感覚が好きだ。好きすぎる。……なんて、浅ましいんだろう」
独りごちた言葉は冷えた空気の中に空虚に消えた。
自分の肉体が恥を知らぬ「性欲」の化身になったかのような自己嫌悪。
しかし、その嫌悪感の裏側で子宮の奥はすでに次の「修練」を求めて疼き始めている。
その矛盾こそが今のミニスを形作るすべてだった。
ガトン収容所という名の奈落から引き上げられ、イスタールの地を踏んで一ヶ月と少し。
ミニスは週に一度の休日、割り当てられた個室で朝の光に包まれベッドに横たわっていた。
「……柔らかい」
思わず口から漏れた言葉と共に彼女は弾力のある枕に深く顔を埋めた。
清潔なシーツの匂い、身体を優しく受け止めるベッドの感触。
かつてはただ泥のような眠りに落ちるためだけの場所だった寝台が、今はこれほどまでに慈しみに満ちている。
日頃は屋敷の使用人としてやりがいのある仕事をこなし、労働に見合った給与も出る。
街を歩けばひとりの人間として扱われる自由がある。
普通の女性であればこの平穏を愛し、週に一日訪れる「性の奴隷」としての時間を忌まわしい影として遠ざけるはずだった。
もし自分が「普通」であれば。
(……僕は、違う)
枕に顔を押し当てたままミニスは熱くなる顔を隠すように身悶えた。
愛情に溢れ心ごととろかされる「愛情の修練」も。
羞恥の壁を技術で抉られ獣のような本能を暴かれる「快楽の修練」も。
この平穏な日常と同じか、あるいはそれ以上に彼女は心底からあの時間を欲してしまっていた。
これまでに「愛情」を二回、「快楽」を一回。
相手は毎回異なる修行者だったが、彼らは一様に素晴らしかった。
イスタール人の指先が触れるたびミニスの肉体は恥ずかしいほどに乱れ、文字通り「壊される」ような快感に打ちのめされてきた。
(また、あの人たちのことを考えてる…。僕、こんな明るい時間から……)
脳裏に最初の夜の記憶が蘇る。
男との行為は痛みと絶望の同義語だと思っていた自分を、ただひたすらな愛情で包み込み天国のような絶頂へと導いてくれたあの指先。
ミニスは無意識のうちに、下腹部の熱へと手を伸ばしていた。
「……ん…ぁ…」
枕に顔をうずめたままささやかな、けれど確かな疼きを逃がすように腰を浮かせ、まずは軽度の絶頂を味わう。
続いて思い出すのは二人目の男性。
「快楽の修練」という名の蹂躙。
愛情ではなく純粋な技術として肉体の急所を執拗に、かつ冷徹に責め立てられたあの夜。
拒もうとする意志を嘲笑うかのように身体が勝手に悦びを求めて跳ねる。
自分の内にあんな野生が眠っていたなんて知りたくなかった。
けれど、その野生が引きずり出される瞬間に感じる爆発的な充足感。
ミニスはクリトリスの上で細い指をくるくると動かし、声が漏れない程度の、けれど身体に肉欲のスイッチが入るには十分な二度目の絶頂を迎えた。
「っ……くっ……はぁっ…ぁ……はぁっ…」
そして続けて三人目……。
これまでの修行者一人ひとりの顔と、彼らが自分に刻み込んだ快楽を反芻する。
それがいつしか彼女の休日の秘かな儀式となっていた。
その時だ。
「コンコン」
不意に響いた乾いたノックの音に、ミニスの心臓は口から飛び出しそうになる。
「は、はいっ!」
「あ、ミニス。部屋にいたんだね?アロンだけど今いいかい?」
扉の向こうから聞こえたのは屋敷での先輩使用人であるアロンの声だった。
修行者になる前の少年たちはこうして屋敷で働きながら、ミニスのような受け手の生活をサポートする役目を担っている。
「開いてます、どうぞ……」
慌てて服装を整え乱れた呼吸を殺して応じる。
三度目の絶頂を逃してしまったため、下腹部には思い疼きが残っていた。
部屋に入ってきたアロンは歳の頃はミニスと同年代、藍色の髪を後ろで結び端正な顔立ちの少年だ。
彼は一瞬だけ鼻をひくつかせ、それから「おっと」という表情で咳払いをして目を伏せる。
イスタール人は感情の機微に鋭い。
(……バレてしまった。まただ……)
部屋に残る濃密な雌の匂いと心の乱れ。
アロンに感づかれてしまった気恥ずかしさに、ミニスは耳まで赤く染める。
「ミニス、お休みのところごめん。オイラー様がお呼びだよ」
主に呼ばれたとなれば、たとえ休日でも最優先だ。
ミニスはアロンに促され主である貴族、オイラーの執務室へと向かった。
「おお、すまないね。休みの日に呼び立てて」
オイラーは、いつものように軽やかな微笑みで彼女を迎えた。
彼は磨き上げられた知性と精悍さを兼ね備えた理想的な年の取り方をした中年男性だが、常に浮かべている飄々とした微笑みの底には只者ではない空気を纏わせている。
「オイラー様、何かご用でしょうか」
「ああ、うん。急な話で申し訳ないんだけどさ…修練は週に一回と話していただろう?」
オイラーは少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
「明日、急遽『二回目』の修練を受けることはできるだろうか?」
ドクン、と。
主の言葉を聞いた瞬間ミニスの心臓が強く脈打った。
「無理強いはしないよ。断りたかったら気兼ねなく——」
「いえ、できます! ぜひ…やらせてください」
言葉を被せるように答えた自分に、ミニスは後から驚いた。
週に二日もあの方たちの相手ができる。
それは、自分にとっては何物にも代えがたい福音だった。
「そうか、それはよかった。次の日の午前は休んでいていいからね」
「ありがとうございます。……でも、なぜ急に?」
「うーん……。正直に言うよ、ミニスはとても人気なんだ。他の子が体調を崩した時、『代わりならぜひミニスにお願いしたい』と修行者たちが願うほどにね」
人気。
その言葉に、ミニスは戸惑うしかなかった。
確かに、これまでの修行者たちは皆、修練の後に満足げな溜息をつき「素晴らしかった」「君は最高だ」と彼女を褒めちぎってくれた。
けれど、それはイスタール人の優しさゆえのお世辞だと思っていたのだ。
(だって、僕は胸も小さいし、髪だって短いし……。女性らしい色気なんて、どこにもないのに)
少年のような体躯、男子のような顔立ち。
そんな自分を抱くのは修行者たちにとって苦行ではないのか。
何より、彼らは自分を絶頂へと導く一方で自分自身は決して射精をしない。
男としての満足感を与えられていない自分に価値があるとは思えなかった。
「あの、オイラー様…分かりません。僕なんかの何が良いのでしょうか? 僕はただ、皆様に翻弄されてあられもない姿を晒しているだけなのに……」
涙を流し、絶叫しながら醜いほどに腰を振って何度も何度もアクメに打ちのめされる自分。
その無様な姿を見るたびに、彼らは「よくできたね」「偉いね」と優しく背中をさすってくれる。
女性として、人として失態だと思っている姿がなぜ称賛されるのか。
その理由がどうしても解せなかった。
「うーん、それはね」
オイラーは少し考え込み、それからストレートに問いかけた。
「ミニスってさ、すごく『感じやすい』だろう?」
「えっ…あ……はい。……とても」
「それが修行者の彼らにとっては何よりの報酬なんだよ。自分の技によって目の前の女性が予想以上に乱れ、悦んでくれる。彼らもまだ未熟で自分の技術に不安がある。そんな彼らにとってミニスのような豊饒な反応を見せてくれる存在は愛おしくもあり何よりの『自信』になるんだ」
オイラーの言葉がすとんと胸に落ちた。
自分の絶頂よりも、相手をいかに狂わせるか。
その果てに訪れる「調和」を尊ぶイスタール人にとってミニスの「脆さ」は最高級の資質だったのだ。
「それにしても」
オイラーの目が、少しだけ色を変えた。
羞恥に頬を染め過去の快楽に瞳を潤ませているミニスを、彼は真っ直ぐに見つめる。
「ミニスって、そんなに……『いい』のか?」
ハッとした。
穏やかだった主の瞳の奥に、一瞬だけ獲物を品定めする「獣」の光が宿った。
(オイラー様が、僕を…一人の女として見てる?)
考えられないような興奮がミニスの五体を駆け巡った。
雲の上の存在、尊敬の対象であるこの方が今、男の顔を見せた。
「お、お試しになりたいのでしたら……いくらでも、どうぞ……っ」
口が勝手に動いていた。
不敬かもしれない、はしたないかもしれない。
けれど、下腹部の疼きが、この特上の男性を離してはならないと叫んでいた。
「うーん、非常に興味はあるが。今はまだやめておこうかな」
今はまだ。
その一言が、ミニスの期待をさらに跳ね上げさせる。
「私はとっくに修行を終え、今は実践として技を振るっている身だ。そんな私がまだ経験の浅い使用人に手を出したら『修行者では物足りない』なんて思わせかねないからね」
冗談めかした口調。
けれどそれは、確固たる自信の裏返しだった。
自分は、あの修行者たちとは次元が違う。
自分ならばこの娘をさらなる絶頂の深淵へと引きずり込めると、彼は言っているのだ。
想像するだけで頭がくらくらする。
いずれ自分が経験を重ねた時、主は「もう大丈夫か」とその磨き抜かれた技で自分を蹂躙しに来るのだろうか。
そう考えるだけで下腹部に熱い何かが広がる。
「今日はもう戻って休みなさい。…あ、そうだ。今はこれだけね」
オイラーがふいに立ち上がり、ミニスの顎に触れそっと持ち上げた。
触れられた指先から、熱が伝わる。
「なっ……オイラー様……?」
言葉を失うミニスの額に、主の唇が柔らかく触れた。
「っ!!!!!」
ただの、額への口付け。
性的な行為でも粘膜の接触でもない。
けれど、至高の技術を隠し持った男からのその一撃は今のミニスにとって何よりも強烈な「魔法」だった。
全身に雷が走ったような衝撃と共に、ミニスはたったそれだけで声にならない絶頂を感じてしまった。
膝が崩れそうになるのを必死に堪えながら、彼女は主の微笑みに見送られ熱を帯びた身体を引きずるようにして部屋を後にするしかなかった。