イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
馬車が揺れるたび、窓の外の景色がゆっくりと後ろへ流れていく。
キルヴィは膝の上に置いた心許ないほど小さな手荷物を握りしめ、ぼんやりと昨夜の出来事を思い出していた。
「明日、オイラーという男の屋敷へ向かう。君はしばらくの間そこで厄介になるんだ」
主であるエリオが静かにそう告げたときキルヴィの心には冷たい風が吹き抜けた。
彼女は感情を押し殺した淡々とした声で問い返す。
「……解雇、ということでしょうか」
自分のような頑固で扱いづらい女はついに見限られたのだ。
そう結論づけようとした彼女をエリオの言葉が引き止める。
「しばらくと言っただろう。オイラーの屋敷には君が以前話していた収容所時代の友人……ミニスだったか。彼女が働いているんだ」
その名を聞いた瞬間、キルヴィの瞳が大きく見開かれた。
胸の奥に封じ込めていた希望が一気に熱を帯びて溢れ出す。
「ミニスに……ミニスに、会えるのですか…っ!?」
エリオはキルヴィに以前聞いた唯一の心の拠り所であるミニスの存在を忘れてはいなかった。
彼女がどこへ引き取られたのかを確認した結果、修行者時代の後輩オイラーの屋敷に身を寄せていることが判明し今回の計らいに至ったという。
「オイラーには既に話を通してある。心を許せる友と同じ環境ならば君の心も少しは安らぐだろう。しばらくの間は彼の屋敷で使用人として働くんだ」
エリオの眼差しはどこまでも彼女を気遣っているように見えた。
回想から戻ったキルヴィの視界には見慣れぬ街並みが映っていた。
しかし彼女の意識は今もなおガトン収容所の陰惨な記憶の中を彷徨っている。
ミニスとは同じ房に押し込められることが多かった。
歳が近いこともあり、言葉を交わすうちに自然と打ち解け地獄のような環境で互いを励まし合って過ごした親友だ。
男たちに乱暴される際、別の場所へ連行されることもあったが逃げ場のない狭い房の中で目の前で彼女が辱められるのを見ることも、逆に自分が犯されるのを彼女に見られることもあった。
何度かは…同じ独房内で二人同時に弄ばれることさえあった。
そんな吐き気がするほど辛い日々もお互いを支え、その温もりを感じ合っていたからこそ生き抜くことができた。
別れ際に彼女がどうなっているか心配でたまらなかったが、この街のイスタール人と触れ合う中で彼女が「酷いこと」はされていないだろうという淡い期待も芽生えていた。
彼らが女性を慈しみ敬う種族であることはエリオとの生活で理解しつつあったからだ。
彼らの掲げる「修練」という名の、理解しがたい役目さえ除けば。
「エリオ様…私はあなたに感謝しています。ここまで良くしていただいて……。けれど、環境を変えたからといって、私があなた方の望むような人間になれるかは…」
キルヴィが絞り出すように言うと、隣に座るエリオは軽く微笑みその言葉を受け流した。
「うむ。まあ、それならそれで構わないよ。気長にいこうじゃないか」
その懐の深さが今のキルヴィにはひどく胸に染みた。
と同時に、彼を失望させ続けている自分の不甲斐なさとどうしても折れることのできない自尊心の間で申し訳なさが広がっていく。
やがて馬車が止まった。
オイラーの屋敷の門前には端正な顔立ちをして髪を後ろで一つに縛った少年と、そして――ずっと会いたかった燃えるような赤い髪の少女が立っていた。
「ミニス!」
馬車が完全に止まりきるのも待てず、キルヴィは外へと飛び出した。
駆け寄る彼女を、ミニスがその腕でしっかりと受け止める。
「キ、キルヴィ……! 無事でよかった、本当によかった…!」
抱きしめ合う二人の瞳から堪えきれない涙が溢れ出した。
再会の喜びを噛みしめる彼女たちの傍らで少年が自然な動作で歩み寄る。
「エリオ様、お疲れ様です。お荷物を持ちます。……君の分も」
落ち着いた声でそう言ったのはアロンだった。
差し出された手にキルヴィは反射的に自分の荷物を預けてしまう。
彼もまたこの屋敷で働く使用人なのだろうか。
屋敷の応接室。
主であるオイラーとエリオが対峙していた。
「それでは、しばらく厄介になるがよろしく頼むよオイラー」
「いやあ、他ならぬ先輩の頼みですから。何でも言ってください」
快活に笑うオイラーに、エリオは安堵したように息をつく。
「それにしても……。この街を頑なに拒絶する彼女の心がここで働くことで少しでも開いてくれたらいいのですがね」
「そうだな。心を許せる友がいるという環境が彼女の心境に良き変化を生んでくれることを、私も切に願っているよ」
エリオはそう言い残すと期待を込めた眼差しを窓の外の少女たちに向け静かに席を立った。
皆でエリオを見送り、庭に春の柔らかな日差しが落ちる。
キルヴィとミニスは積もる話を吐き出すように庭のベンチに腰を下ろした。
ガトン収容所という地獄を共に生き抜いた二人は引き取られてからの日々のこと、新しい主がどんな人物か、そして何より身体に消えない傷を負わされるような酷い目に遭っていないか、互いの無事を確かめ合うように言葉を重ねる。
しかし、再会の喜びを噛み締める時間は、思いがけず短かった。
「ミニス、オイラー様がお呼びだよ」
穏やかな、けれど凛とした声が響く。
振り返ればそこにはアロンが立っていた。
主からの呼び出しとあれば使用人の身であるミニスに拒む権利はない。
「ごめんね、キルヴィ。すぐ戻るから」
ミニスは名残惜しそうに立ち上がり屋敷の方へと去っていく。
残された庭にはキルヴィとアロンの二人だけが取り残された。
先ほどまでの熱を帯びた空気は霧散し、針が落ちる音さえ聞こえそうな気まずい沈黙が二人を包み込む。
「……あなたも、ここの使用人なの?」
沈黙に耐えかね、キルヴィは横目で彼を盗み見ながら声をかけた。
「ああ。アロンだ、よろしく。ここでミニスと一緒に働きながら彼女に屋敷の仕事を教えている。今後、君のサポートも僕がすることになると思う」
アロンの返答は丁寧で、迷いがない。
「そう……」
先ほど挨拶を交わした主のオイラーもこの立派な屋敷の主とは思えないほど気さくな男だった。
このアロンという少年も自分やミニスと同年代に見えるがその佇まいには落ち着いた思慮深さがある。
ミニスがここで穏やかに働けているのはこの少年の配慮もあるのだろう。
「その……あなたも『修行者』というやつなのかしら」
喉元まで出かかった警戒心を隠せずキルヴィは問いを重ねる。
「僕くらいの歳だとまだ修行前だね。今は知識を詰め込んでいる段階だ。早ければあと一年ほどで修行の身になると思うけれど」
アロンは淡々と答えた。
その「知識」という言葉の裏側に、どのような淫らな技や肉体の構造が隠されているのかを想像しキルヴィの背中に冷たい汗が伝う。
(この人もいずれは……)
自らの技を磨き、高みを目指すために自分たちのような女性を「使う」のだ。
そう確信した瞬間、一度は緩みかけたキルヴィの心に再び分厚い氷の壁が築かれていった。
一方、ミニスは重厚な扉を叩きオイラーの部屋へと足を踏み入れていた。
「というわけでね。彼女――キルヴィは依然として役目を拒み続けていて、いまだに『修練の受け手』としては務めていないようなんだ」
机に向かったオイラーが困ったような、けれどどこか同情を孕んだ声で切り出した。
「そうでしたか……。収容所でも彼女は誰よりも男性という存在を憎んでいました。あそこで受けた仕打ちを思えば…無理もありません」
ミニスは遠い記憶の地獄を思い出し無意識に自らの指先を強く握りしめる。
キルヴィが守ろうとしている頑なな「誇り」は、あの場所で奪われ続けた自分たちの尊厳の最後の欠片なのだと分かっていた。
「そうだろうね。痛いほど分かるよ。けれどミニス、彼女が役目を拒み続けるということは本来彼女が負うべきはずの負担を君や他の受け手の子たちが肩代わりしなければならないということでもあるんだよ」
オイラーの言葉は静かだったが鋭い真実を突いていた。
(僕は、それでも構わない……彼女の分まで、私が責めを受ければいい)
その言葉が喉まで出かかったがミニスは必死で飲み込んだ。
それでは何の解決にもならない。
彼女がこの世界で生きていく以上、役目を果たさないことは主であるエリオの立場をも危うくし続けることを意味する。
「僕からも彼女にできる限りのことはしてみます。修練は……キルヴィが思っているほど、決して絶望だけのものではないのだと、いつか分かってくれるかもしれないから」
むしろ、今の自分にとっては――。ミニスは伏せたまつ毛を震わせる。
修行者たちの研ぎ澄まされた技、身体の奥底を焼き尽くすようなあの快楽。
今やその役目を取り上げられてしまったら自分はどうなってしまうのかと恐ろしくなるほど、その魔力に虜にされている。
それを親友にどう伝えればいいのか、答えは見つからない。
「まあ、それとなく……ね。無理強いして役目を強制するなんて僕も、そしてエリオ先輩も、一番望んでいない形だからさ」
オイラーはそう言って緊張を解きほぐすように軽く笑った。
この主のために役に立ちたい。
その純粋な忠誠心と親友の心に刻まれた深い傷痕。
どうすればキルヴィを傷つけず、けれど彼女をこの歪で甘美な「役目」へと導けるのか。
ミニスは迷路のような思考を巡らせながら、静かに部屋を後にした。