イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
キルヴィがオイラーの屋敷で働き始めてから二週間という月日が流れた。
昼食の慌ただしい片付けを終え、厨房には午後の柔らかな休息の時間が訪れている。
キルヴィ、ミニス、そしてアロンの三人は微かに残る湯気と石鹸の香りに包まれながら談笑していた。
キルヴィにとって今の何よりの喜びはミニスの笑顔を間近で見られることだった。
あの泥濘のような絶望に満ちたガトン収容所では彼女の唇から笑みが溢れることなどただの一度もなかったからだ。
「それでね、アロンさんは僕たちの先輩なんだから…キルヴィももう少し敬語を意識して話した方がいいと思うんだ」
ミニスが少し背伸びをするように生真面目な顔で助言する。
「ふうん……。と、ミニスは言っているけれど、当のアロンはどう思っているのかしら?」
キルヴィはあえて挑戦的な視線をアロンへ向けた。
「僕はそういう形式的なものは気にしないよ。何ならミニスこそ僕に対して敬語なんてやめたらどう?」
アロンにそう真っ直ぐ見つめ返され今度はミニスの方が「それは……その……」と慌てふためく。
その様子がおかしくてキルヴィの喉からはクスクスと笑い声が漏れた。
キルヴィ自身、自分がこんなふうに屈託なく笑える日々が来るとは想像もしていなかった。
屋敷の主であるオイラーは一見すれば軽薄で掴みどころのない人物だが、彼女に対する配慮は驚くほど細やかだった。
ミニスと隣同士の部屋を用意し、休日まで合わせてくれる。
心を許せる友と過ごす時間を彼なりに尊んでいるようだった。
先輩であるアロンに対しても当初抱いていた剥き出しの警戒心は共に仕事をする中で少しずつ形を変えていた。
彼は他のイスタール人と同様、女性に対して無意識の内に深い敬意を払っている。
いまだ奴隷の身であり使用人としては後輩に当たる自分が序列をわきまえない不遜な態度をとっても、彼はそれを柔らかく受け止めてしまう。
キルヴィにとってアロンは生まれて初めて「男性」という存在を意識せずに、等身大の言葉で会話ができる相手となっていた。
しかし、そんな穏やかな日々の中でも一度だけ抜き差しならない険悪な空気が流れたことがある。
先週、週に一度の「務め」――ミニスが修練を受ける日。
キルヴィはそれを断るよう彼女を説得したが、ミニスは悲しげな微笑を浮かべたまま修練の間へと向かってしまった。
その背中に苛立ちそれを当然の義務として見守るアロンに八つ当たりをしてしまったのだ。
(あの務めのことだけは……どうしても受け入れられない)
昼の休憩を終え庭の掃除をしながらキルヴィは一人、思考の迷路に迷い込んでいた。
本来ならば自分も修練の受け手としてその身体を捧げ、恩人であるエリオの役に立たなければならない。
頭では理解していても生理的な拒絶が魂の奥底で渦巻いているのだ。
その夜。
キルヴィの部屋の扉を慎重なノックの音が叩いた。
「どうぞ」
この時間に訪ねてくる心当たりは一人しかいない。
また寝る前のお喋りがしたくなったのだろうか。
キルヴィは扉の向こうにいるであろうミニスに向けて柔らかな声を返した。
「キルヴィ、ごめんね。こんな時間に…」
申し訳なさそうに部屋に入ってきたミニスの表情は、どこか強張っていた。
「構わないわ。ちょうどさっき買ったばかりの本を読み終えて、寝るまで手持ち無沙汰にしていたところだから」
キルヴィは使用人としての給与を手に街に繰り出し、本を買うのを唯一の楽しみにしていた。
物語の虚構に没頭している間だけは己の過酷な現実を忘れることができたからだ。
「それで、ミニス。お喋りでもしに来てくれたの?」
「うん……」
ミニスはベッドに腰掛けるキルヴィの隣へ何とも言い難い気まずさを漂わせながら腰を下ろした。
「明日ね…今週の『修練』の日なんだ」
「……」
その一言でキルヴィの表情から光が消えた。
週に一度の修練。
あの日、収容所で共に震えていた赤髪の少女が男たちの性技を磨くための「練習台」として「使われる」日。
「また、私が止めても無駄なのでしょうね…」
諦めを込めてキルヴィが呟く。
「キルヴィは僕の務めのことで、前にアロンさんと揉めたでしょう?」
「そうね……。身勝手な八つ当たりをしてしまったわ。彼は怒っていたかしら」
「ううん。次の日に話したら『自分の気遣いが足りていなかった』って、自分を責めていたよ」
「……」
これだ。
イスタールの民は一様に女性に対して優しすぎるほどに接し、敬意すら感じさせる。
それが民族の血として流れているというのに、なぜ同時に女性を性の道具として弄ぶような所業を平然と行えるのか。
その矛盾がキルヴィには耐え難かった。
「キルヴィ、正直に言うね」
ミニスがキルヴィの瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「僕は……キルヴィにも修練を受けてほしいと思っているんだ」
「……受けなければならない義務だということは分かっているわ」
「違うの。義務だからじゃなくて…僕がそうだったように、キルヴィ自身が少しでも救われるようにと思って言っているんだよ」
ミニスが口にしたのは予想だにしない言い回しだった。
(私のために? 彼らの研鑽のためではなく?)
「僕らにとって……この街に連れてこられるまで、男の人とのそういう行為はただの『辛く苦しいもの』でしかなかったでしょう? 僕は一生あれはそういうものだったと思い込みながら、死ぬまで過ごしていくものだと思っていたんだ」
「……」
「でも、僕は修行者の人たちに愛されるみたいに抱かれて……それが上書きされたんだ」
「上書き……?」
キルヴィは困惑しながらもミニスの言葉を一語一句逃さぬよう、疑問を挟みながら聞き入ることしかできなかった。
「あの時の辛い記憶は決して消えることはない。けれど、少なくとも僕の中では最後の記憶は牢獄で無理やり乱暴された痛い記憶じゃなくなった。……先週、優しく丁寧に扱ってくれたあの心地よい記憶が一番新しい記憶として僕の中に残っているんだ」
「あ……っ」
ようやく、ミニスの真意がキルヴィの胸に突き刺さった。
「キルヴィは…ずっと、あの牢獄の記憶の中で止まっているでしょう?」
芯を突かれた。
あまりにも鋭く、無慈悲なまでの正論だった。
このままでは彼女の人生において「男性との営み」は永遠に「吐き気がするほど嫌で、痛ましく惨めなもの」という認識のまま終わる。
もしイスタールの男たちの手がそれを少しでもマシな記憶へと置換してくれるのであれば――。
「…言い返せないわ。私はあの場所で止まったまま。あなたは先に進んでいるのね」
「キルヴィが僕と同じように感じるかは分からない。でも…少なくとも、あそこの記憶だけを抱えたまま今のままでいるよりは、きっと」
キルヴィは深く沈黙し思考の深淵へ沈んでいった。
もうミニスを止める気は失せていた。
彼女に刻まれた無数の傷痕がイスタールの男の手によって癒されているというのであれば、それを否定する権利など自分にはない。
しかし、自分は……。
「…私も同じようになれるかなんて分からないわ。自信も、全くないの」
「キルヴィ。…もし嫌じゃなかったら……明日、僕が修練を受けている様子を見てほしいんだ」
「……!! っ、何を……っ」
キルヴィは絶句した。
何を言い出すのか。
この赤髪の少女は、自分が男に抱かれているその生々しい光景を視界に収めてほしいと真剣な眼差しで訴えているのだ。
「こんなことを言うのは恥ずかしいけれど…。僕が男の人に、その、されている姿はあの牢の中で何度も見てきたでしょう? 今もあの時と同じようなことなのか、それとも違うのか……その目で見て確かめてほしいんだ」
「そ、それは……」
何度も見てきた、というのは事実だ。
しかしそれは、痛みに絶叫し泣き叫ぶミニスの姿から逃げるように震えながら耳を塞ぎ目を閉じていた記憶ばかりだ。
「嫌になったらすぐに部屋を出ていってもらって構わないから。……分かってもらうにはどうしたらいいか、ずっと考えていたんだ。正直に全部見せるのが一番だと思ったんだよ」
とんでもない提案だった。
しかし、ミニスの眼差しには濁り一つない。
キルヴィは混乱する脳を必死に鎮め、やがて決意を固めるように顔を上げた。
「……少しだけ様子を見るくらいなら。嫌だと思ったらすぐに席を外させてもらうから」
「うん……ありがとう」
膝の上で白くなるほど固く握りしめられていたキルヴィの手を、ミニスの掌がそっと包み込む。
その温もりはあまりに優しく、キルヴィの分厚い氷に閉ざされた心をほんの僅かずつ、確かな熱で溶かし始めていた。