イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
激しい嵐が過ぎ去ったあとのような、静謐でいて濃密な余韻が部屋を満たしていた。
ベッドの上、キルヴィは眠っているのか、あるいはあまりの快楽の奔流に意識を飛ばしてしまったのか、ぴくりとも動かずに横たわっている。
すぅすぅと規則正しい寝息を立てているようにも見えるが、時折、その眉間には微かな苦悶の、それでいてどこか甘やかな表情が浮かんでいた。
そんな彼女をアロンはおずおずと、壊れ物を扱うような手つきで見守っている。
(……無理をさせすぎただろうか)
先ほどまでの自制を失った己の蛮行を思い返し、アロンは顔を火照らせながらも心配そうに彼女の肩を揺らしその名をそっと呼んだ。
「……んん…」
アロンの声にキルヴィの長い睫毛が微かに震え、重たげな薄目が開かれる。
その瞳がアロンを捉えた瞬間――。
「……アロン…」
キルヴィは蕩けたような声を漏らし、そのまま彼に縋り付くように抱きついた。
「アロン……アロン……いた……ああ、アロン…」
そして、呆気に取られる彼の顔のあちこちに愛らしいキスの雨を降らせ始める。
普段、誰に対しても毅然としてどこか近寄り難い凛とした空気を纏っている彼女からは、到底想像もできないような甘えっぷりだった。
「キ、キルヴィ…!?」
「んっ……ふふ…アロン……ああ…」
夢見心地なのか、あるいはまだ絶頂の余韻に脳を支配されているのか。
彼女はアロンの胸に顔を埋め、ごろごろと喉を鳴らすように甘え続ける。
見かねたアロンが、少しだけ力を込めて彼女の細い肩を引き離し、その顔を正面から見据えた。
「キルヴィ、しっかり。…目、覚めた?」
アロンの真っ直ぐな視線と、肌に触れる夜の冷気に、彼女の意識が急速に現実に引き戻されていく。
……自分が今、何をしていたのか。
……誰に、どんな声を出し、どんな姿で縋り付いていたのか。
「っ……!!」
状況を理解した瞬間、キルヴィの顔は先ほどまでの情事の時よりもさらに深く、真っ赤に染まった。
「あ……あの、ごめんなさい……少しその…夢見心地だったわ……」
一体全体、どのような夢を見ていたのか。
彼女は顔を覆うようにして視線を逸らし、布団の端をぎゅっと握りしめる。
そのあまりにも初々しく可愛らしい反応に、アロンの胸にも温かいものが込み上げる。
「……今日はすごく良かった。ありがとう、キルヴィ」
アロンが優しく囁き彼女の身体を横に並んで抱き寄せると、キルヴィもまた、今度は羞恥を堪えながらそっと彼の腕の中に収まった。
「私も…私もよ。貴方が相手で本当に…」
二人の心臓の音が重なり合う中、深い眠りの淵へと、二人は穏やかに沈んでいった。
翌日
修練の翌日は慣例として午前中の休みが与えられていた。
キルヴィは身体の芯に残るけだるい疲労感と、下腹部に感じる微かな違和感――昨日、一晩中愛された証――を自覚しながらゆっくりと身を起こした。
近所の商店で焼きたてのパンを買い、店先の小さなテーブルで軽い昼食を済ませる。
降り注ぐ柔らかな陽光に包まれながらパンを齧っていると、ふとした拍子に昨夜のアロンとの睦み合いが脳裏をよぎる。
街の喧騒の中にいながら、心だけはまだ昨夜のあの熱いベッドの上へと引き戻されていた。
昼過ぎに屋敷の主であるオイラーへ昨日の報告を済ませ、午後からは本来の使用人としての仕事に戻る。
甲斐甲斐しく立ち働くキルヴィを、近くで掃除をしていたミニスが今にも飛びかからんばかりの勢いでソワソワと見つめていた。
その期待に満ちた眼差しを受け、キルヴィは密かに重いため息をつく。
(これは今夜、なかなか寝かせてもらえないかもしれないわね……)
ふと周囲を見渡すが、アロンの姿はどこにもなかった。
どこかへ使いにでも出されたのだろうか。
夕食の片付けを終え、ようやく一日の仕事から解放されたキルヴィは自室のある二階へと向かった。
しかし、案の定。
親友のミニスは自分の部屋に戻るどころか、泥棒のようにコソコソとキルヴィの背後に続き、当然のような顔で彼女の部屋へと入り込んできた。
一分だって、一秒だって待てない。
そんな切迫した空気が、彼女の背中から溢れ出している。
「ミニス、あなたね……。少しも待てないの?」
キルヴィが呆れたように振り返ると、ミニスは鼻息も荒く拳を握りしめていた。
「どっ、どっ、どっ……!!」
「……ど?」
「どうだったの!?」
堰を切ったようにミニスが身を乗り出して詰め寄ってくる。
その勢いに気圧されながらも、キルヴィは彼女を椅子へと促した。
「落ち着きなさい。ちゃんと話すから……」
キルヴィは二人分のハーブティーを用意しながらミニスを制する。
「わっ、分かった… ひとまず座るね。… そ…それで!?」
ミニスは椅子に座り直したものの、その腰は浮き気味で目はらんらんと輝いている。
「ええと……何から聞きたいのかしら」
「そ、 その……アロンさんは、ちゃんと……良かったの?」
直球すぎる問いかけにキルヴィは一瞬言葉を詰まらせた。
けれど、自分の内に残るあの絶対的な満足感を反芻するように静かに微笑んで答える。
「……そうね。恥ずかしながら、あなたの言う通りだったわ。あんなに醜くこびりついていた記憶が……綺麗さっぱり、塗り替えられたみたい」
その言葉を聞いた瞬間、ミニスの顔がぱあぁっと明るくなった。
「やっぱり! 僕、信じてたんだ……アロンさんってまだ修行前だけど、すごく面倒見がいいし…キルヴィのこともいつも気にかけてたんだよ? だから僕も二人はきっと上手くいくって思って…」
親友の興奮したまくし立てを耳にしながらキルヴィは心の中で静かに頷いていた。
正直なところ、収容所での悲しく憎い記憶が消えてなくなったわけではない。
それはきっと、ミニスも同じだろう。
それらは決して消えることのない過酷な事実として心の片隅に残り続ける。
けれど。
性的な事は…醜悪なあなた達の雑な、ちっとも良くない下手くそな数々の行為は、
たった一人の少年によって一晩で塗り替えられたぞと。
そう言ってやりたいくらい。
昨日のことは素敵な上書きとして自分の中に強く残ったのだ。
「それで、キルヴィは…その、どんなことが……特に、良かった?」
親友と同じ立場になり、その感覚を共有したくて堪らないのだろう。
ミニスは顔を沸騰させてしまいそうなほど赤くしながら、しかし好奇心を抑えきれずに問いかけてくる。
その問いにキルヴィは一瞬、血の気が引くのを感じた。
(……言えるわけがないわ)
胸の「裾野」などという特異すぎる場所で何度も絶頂し、あまつさえ失禁しながらのアクメを一番に気に入ってしまったなどと。
そんな変態的な告白、口が裂けてもできるはずがない。
アロンにも、「このことをミニスに話したら、一生口を利かない」と、あの時あれほど釘を刺しておいたのだ。
「そ、そうね……。その、キスも上手だったし……愛撫も、その…丁寧で……」
「ご、ごめん! やっぱり無理!!」
キルヴィが言葉を濁しながら話し始めた途端、ミニスが叫び声を上げてベッドに飛び込み枕に顔を埋めてじたばたと暴れ出した。
「よく知ってる二人が色々なことをしたなんて想像するだけで、僕、どうにかなっちゃいそう…」
「……何よ、自分から聞いておいて、勝手ね」
キルヴィは呆れたように肩をすくめたが、内心では胸をなでおろしていた。
どうやら、これ以上の詳細な追及からは逃げ出せそうだ。
部屋に響くミニスの騒がしい声を聞きながら、キルヴィは窓の外、アロンのいるはずの夜闇に視線を向け、昨日与えられた熱をもう一度だけこっそりと反芻した。
「それで、来週からはキルヴィも『修練の受け手』として務めるの?」
ミニスはキルヴィの部屋のベッドの上で膝を抱えながら、親友を気遣うような心配そうな面持ちで問いかけた。
つい先日まで修練という言葉を聞くだけで激しい拒絶反応を示し、あんなにも怯えていた彼女の心を思えば当然の危惧だった。
「そうね。でも私は、しばらくの間アロンの専門になるみたい」
「専門!? それって、アロンさん専用の相手になるってこと!?」
ミニスが驚きに目を見開く。
キルヴィは今日の午後に屋敷の主であるオイラーの部屋を訪れた時の、あの奇妙なやり取りを静かに思い返していた。
「修練の受け手としての務めは無事に終えました。オイラー様」
キルヴィはオイラーの執務室の机の前に立ち、感情を抑えた淡々とした口調で報告した。
「ああ、今朝アロンからも聞いたよ。お疲れ様、よく頑張ってくれたね」
オイラーは書類から目を離して応えた。
(……朝には屋敷にいたのね)
アロンは一体、昨夜のことをどのように報告したのだろうか。
そんな疑問が頭をかすめる。そして、今彼はどこにいるのか。
「彼は今、遣いに出ていてね。明後日には戻る予定だよ」
イスタール人特有の「読心」のなせる業か、あるいは単なる勘の良さか。
オイラーはキルヴィの心の機微を先回りするように自然な動作で答えを提示した。
「オイラー様、私は今後、修練の受け手として問題なく務めることができそうです。来週からはこれまでご迷惑をかけた分を取り戻すべく、どのような修行者の方の相手でも……」
「あー、うん。それなんだけどさ」
オイラーはペンを置き、意外な言葉を口にした。
「君はしばらく、アロンの修練だけに付き合ってくれないかな。彼は君専用、君も彼専用。悪いけど週に一度、アロンの相手を務めてほしいんだ」
「……!? それは、一体……」
想定外の提案に、キルヴィは絶句した。
来週からは、様々な修行者を相手に「受け手」として務める。
それは彼女なりに覚悟を決めたことだった。
だが同時に、アロンもまた来週から自分以外の様々な女性を相手に昨夜のような濃密な修練を繰り返すのだろうか……という思いが、澱のように心の底に沈んでいたのだ。
それが「嫉妬」であるとは認めたくない。
だが、どう形容していいか分からない昏い感情が、胸の奥に引っかかっていたのは事実だった。
そんな彼が来週も、その先も、自分だけを相手に修練を重ねるという。
「理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
キルヴィはオイラーの瞳を真っ直ぐに見つめその真意を問うた。
「本来であれば彼はあと一年は修行者になれない。でも、もう女性を知ってしまったからね。若い彼に一年も我慢しろというのは、さすがに酷だろう?」
オイラーは飄々とした様子で語る。
「まだ未熟な彼の相手を他の受け手の子にさせるわけにはいかないけど、君に対しては特例として認めているからね。彼が先行して修練に励むための相手になってほしいんだ。…君だって、全く見知らぬ男を相手にするよりは気心の知れた相手の方が気楽だろう?」
理屈は通っているように聞こえる。
だが、それだけではない何かが背後にあるはずだ。
キルヴィはオイラーの真意を探ろうと意識を集中させたが、逆にこちらの思考を読まれてはたまらないと思い直し慌てて追求を止めた。
「……分かりました。では、そのように致します」
一礼して部屋を去ろうとするキルヴィの背中に、オイラーが追い打ちをかけるように声をかけた。
「ああ、キルヴィ……あと、アロンとは……修練の日以外は『ほどほど』にな」
苦笑いとも、冷やかしとも取れる表情を浮かべるオイラー。
キルヴィは一瞬、その言葉の意味を巡らせ、数秒後にそれが何を指しているかを理解して顔をカァッと赤く染めた。
一方、部屋に残ったオイラーは一人で深く考え込んでいた。
(ふーむ、これは思わぬ収穫だったかな……)
今朝、彼はアロンを訓練場に呼び出し久しぶりに直接剣の稽古をつけたのだ。
目的は、初の修練を経験したことで彼の「読心」の能力がどれほど成長したかを確かめるため。
相手の思考や感情の機微を読み取り、繰り出される攻撃を未然に防ぐ。
そして、相手が防御しようとする意識の「外側」を穿つ。
イスタールの戦闘術は、この特殊能力によって大陸中にその名を轟かせるほどに強力なものだった。
並の戦士相手ならイスタールの民は圧倒的な力でねじ伏せることができる。
だが、これが同胞同士の戦いとなれば勝敗を決めるのは「心の読み合い」だ。
より読心の精度が高く、相手の深層心理まで潜り込める者に軍配が上がる。
アロンは、修行前の若者の中でも数年に一人現れるかどうかの逸材だった。
それでも、先日までの稽古ではオイラーを相手に手も足も出なかったのだ。
それが、今朝の稽古では驚くほどにオイラーを苦戦させた。
長年の経験による剣技そのもので遅れを取ることはなかったが、純粋な「読心」の鋭さにおいては熟練のオイラーすら上回った瞬間がいくつもあった。
「よっぽど、相性が良かったのかねえ」
たった一晩。
その短い時間で、アロンの能力は研ぎ澄まされた刃のように見事な成長を遂げた。
これは、誰を相手にしても起こることではない。
一度の修練も無駄にできない、若い時期にしか伸ばせない才能。
それを、キルヴィという最良の「器」と組ませ、徹底的に磨き上げさせる。
(そうすれば、アロンは歴代のイスタール戦士の中でも屈指の存在になる……)
オイラーは、自分の見立てが正しかったことへの期待と高揚を隠しきれず、一人、野心的な笑みを浮かべていた。
「そんなことがあったんだ」
ミニスは驚いたように頷いた。
「ええ。だから彼が正式に修行者になるまでは、お互い専用の相手として付き合っていくことになるみたい」
キルヴィ本人は自覚していないようだったが、ミニスから見ればそう語る彼女の表情はどこかホッとしているようで、心なしか浮ついて機嫌が良さそうに見えた。
それを茶化して機嫌を損ねるのも悪いと思い、ミニスはそっと微笑むに留めた。
すでに修練の虜となってしまったミニスは、イスタール人に限った話ではあるが、なるべく多くの男性と交わりたいと思うようになっていた。
それぞれがどのような技術を持ち、自身を悦ばせてくれるのか…興味が尽きないというほどにのめり込んでいる貪欲な自分を自覚している。
しかし、キルヴィが歩んできた過酷な日々を思えば、彼女にとっては不特定多数ではなく決まった相手とじっくり向き合う方がきっと合っているのだろう。
「とにかく、キルヴィが少し前向きになったみたいで良かったよ」
「ええ……少しずつだけど。この街でちゃんと生活していく自分の姿が、ようやく見えてきた気がするわ」
そう言いながらキルヴィの頭に浮かんだのは、活気に溢れたイスタールの美しい町並みだった。
彼女は口元に運ぼうとしていたハーブティーのカップを止め、
少しためらった後、ミニスに告げた。
「ミニス……私ね、謝りたい人たちがいるの」