イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
修練の街イスタール。
その一角に佇む、修行者たちの管理を司るエリオの屋敷から一人の男が悠然と姿を現した。
派手に逆立てた髪に、高価な生地ながらもだらしなく着崩した衣服。
その全身から漂うのは修行者という厳格な肩書きとは裏腹な、軽薄で享楽的な空気である。
男の名はレオン。
彼が行う「修練」の評判は、この界隈でも極端に二分されていた。
最高の手際だと心酔する者がいる一方で、あまりに過激であると眉をひそめ苦言を呈する者も少なくない。
「……ま、自分でも抑えようとは思ってるんだけどね。いざとなると、ついついやりすぎちゃうんだよなぁ」
屋敷の門を背にレオンは誰に聞かせるともなく独りごちた。
たった今、管理責任者であるエリオから先日の修練の内容が少々度を越していたとクレームが入ったと、小言を食らわされたばかりだった。
だが、その表情には反省の色など微塵もなくむしろ周囲の評価を茶化すような余裕さえ感じられる。
「まあ、気を取り直して。明日の分からまたしっかりやるかあ」
レオンは懐からエリオに手渡された覚え書きを取り出すと無造作に視線を落とした。
そこには、明日彼が「修練」を施すべき対象の名が記されている。
「明日の相手は、ええと……ロダン家の……セイレン、ね」
彼はその名を一度だけ唇の上で転がすと、興味なさげにメモをポケットに突っ込み夕闇が迫る街へと歩き出した。
同じ頃、ロダン家の厨房では、銀髪の美女セイレンが夕食の支度を整えていた。
その手つきは軽やかで、口元には隠しきれない喜びが柔らかな微笑となって零れ落ちている。
それもそのはずだった。
先ほど主人であるロダンから告げられた来週の修練予定。
その相手は、あの方――グレイスだという。
(しかも……内容は、『愛情』の修練…)
セイレンはスープをかき混ぜていた手を止め、そっと自分の胸元に掌を当てた。
薄い衣越しにトクトクと早まる鼓動の熱が伝わってくる。
とうとう待ち望んでいた日が来るのだ。
あの忌まわしきガトンの牢獄で両眼を潰され、一生を暗闇と凌辱の中で終えるのだと魂まで打ちひしがれていた自分。
そんな泥濘の底にいた彼女を救い出し、瞳に再び光を与えてくれたのがグレイスだった。
再会した時、感情が溢れるあまり「受け手」としての役目すらろくに果たせなかった自分を彼は決して見捨てなかった。
優しく夜の街へと連れ出し、一人の女性としての敬意を払い、彼女の気持ちに真剣に向き合ってくれた恩人。
修練という形ではあっても、あの方の愛情をその慈しみのすべてを一心に注いでもらえる。
そう想像するだけで視界が滲むほどの幸福感に包まれる。
明日の修練を超えれば、次はグレイスとの逢瀬が待っている。
今の彼女にとって世界は希望に満ち溢れ、待ち遠しくて仕方がなかった。
普段のセイレンであれば意中のグレイスが相手でなくとも、決して「受け手」としての務めを疎かにすることはない。
むしろ、日々研鑽を積む彼と対等に向き合うためにこそ、日々の務めを完璧にこなし、自分を磨き上げるべきだと強く理解していた。
だからこそ、これまではどの修行者が相手であっても全身全霊でその快楽を受け入れ、完璧に役割を全うしてきたのだ。
だが。
「来週、あの方に抱かれる」という具体的で強烈な多幸感が彼女の堅実な意識に、ほんの僅かな「油断」を生じさせた。
明日訪れる修練を、僅かに軽んじてしまったのだ。
浮ついた心は、無意識のうちに明日への覚悟を緩め、彼女の務めに対する意識を薄くしてしまっていた。
翌日、ロダン家を訪れたレオンは修練に先立って主人からある「説明」を受けていた。
ロダンの話によれば、セイレンという娘は修行者の一人に恋心を抱いているのだという。
非常に真面目な性格ゆえ今のところ修練に支障はないが、もしその情念が昂じて「受け手」としての機能に不具合が出るようなら遠慮なく伝えてほしい、との内容だった。
「ふぅん……なるほどねぇ」
レオンは、顎に手を当てて考え込んだ。
過酷な地獄を経験した女性たちが、救い出された先で修行者に抱かれ、生まれて初めて知る暖かな悦楽に触れる。
その結果、相手に恋い焦がれてしまうのはこの街では決して珍しいことではない。
修行者たちは皆、そうした事態への対処法を心得ている。
時には考え直すようにゆるりと矯正し、時には役目と両立できるよう立ち位置を作ってあげる事もある。
情に流されず、あくまでそれぞれの受け手に合う道筋を敬意を持って見極める。
だが、レオン自身はそうした「他者に恋い焦がれている女性」を相手にするのは今回が初めてだった。
頭の中に詰まった教科書的な対処法を思い出すよりも、彼の心にはどのような女性なのだろうかという好奇心が鎌首をもたげていた。
ロダンの屋敷の「修練の間」
意を決して部屋の扉を開けたレオンは、そこにいた少女を見て不覚にも息を呑んだ。
ベッドの端に腰掛け、静かに待ち受けていた少女。
流れるような銀髪は月の光を吸い込んだように美しく、陶器のような白い肌は、触れれば壊れてしまいそうなほどに繊細だ。
何より、その美貌は数多の女性を相手にしてきたレオンの目から見ても滅多に出会えるものではない至宝のような器量だった。
彼女はレオンの気配に気づくと、しなやかな動作で立ち上がり楚々とした一礼を捧げた。
「セイレンと申します。……本日は、宜しくお願いいたします」
その声は心地よいほどに清らかで、非の打ち所のない「受け手」としての振る舞いだった。
しかし。
レオンは修行者としては奔放で時に不名誉な評価を受ける男だが、こと「読心」に関しては一族の中でも傑出した才を持っていた。
自分を見つめ、淑やかに微笑む彼女の「心」に意識を向けた瞬間、レオンはその内側に潜む真実をいとも容易く読み解いてしまった。
彼女の瞳は確かに自分を捉えている。
だが、その意識の深層は、今のこの場所にはない。
彼女が本当に見つめているのは、来週訪れるであろう、別の「誰か」との逢瀬。
今日の自分ではなく、来週の誰かを待ち望んでいる。
それは彼女自身、自覚していなかった。
無意識のうちに、眼の前の修行者を軽んじてその次の修行者に胸をときめかせていたのかもしれない。
ほんの僅か。
しかし、その僅かな揺らぎをレオンは見逃さなかった。
(…………へぇ……。なるほどね、そういうことか)
眼の前の美しい少女を見つめ、レオンは不敵に、そして意地悪く笑みを浮かべた