イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
イスタールの街に夕闇が迫り、修練の間の空気はこれから始まる「快楽」の予感に重く湿り始めていた。
扉を開けて入ってきた男――レオンは、その派手な髪型と着崩した服装、そしてどこか軽薄さを漂わせる笑みを浮かべ部屋の隅で待機していたセイレンへと歩み寄る。
「俺はレオンだ。よろしくね、セイレン」
レオンは自身の持つ陽気さを最大限に引き出し、爽やかな笑顔を彼女に向ける。
だが、その眩しすぎるほどの笑みは今のセイレンにとっては逆効果でしかなかった。
「は、はい……。よ、よろしくお願いいたします…」
セイレンは僅かに肩を震わせ、後退りするようにして応える。
その瞳には隠しようのない警戒の色が浮かんでいた。
(うーん、やっぱり警戒させてしまったかな)
レオンは表情を変えず、口角を上げたまま内心で苦笑する。
セイレンにとって、目の前の男が放つオーラは最も苦手とする部類のものだった。
イスタールの民である以上、彼もまた女性を慈しみ尊ぶ精神を持っているはずだと淡く期待はしている。
しかし、その軽薄そうな態度や派手な風貌は収容所という地獄を経験し常に平穏と優しさを求めてやまない彼女の心をざわつかせるには十分すぎるものだった。
「今日は『快楽』の修練だね。受けたことはあるかい?」
レオンは手慣れた様子で鞄を漁りながら何気ない口調で問いかける。
「は、はい……。『快楽』は何度か…経験しております……」
性的な行為に対して今なお心のどこかに消えない怖れを抱いているセイレンは、本来であれば心を満たしてくれるような甘く優しい『愛情』の修練を好んでいた。
一方、この『快楽』の修練は自らの奥底に眠る淫らな情欲を無理やり引きずり出され、抗いようのない強烈な絶頂を絶え間なく与えられる。
いざ始まってしまえば恥ずかしいほどに我を忘れて夢中になってしまうのだが、修行者によってそのアプローチが千差万別で予測がつかない。
その「何が起こるか分からない」という不安が、彼女の中に苦手意識を植え付けていた。
「じゃあ安心だね、俺に任せて」
レオンは軽やかにそう告げると、鞄の底から一束の拘束用ロープを取り出した。
(ゴクリ……)
セイレンは、その冷たい質感を放つ縄を凝視し、小さく喉を鳴らした。
『快楽』の修練において、拘束は珍しいことではない。
身動きを完全に封じられ、すべての主導権を修行者に委ねる中でじわじわと快感に責め立てられる。
結局は、逃げ場のない愉悦に身を震わせ無様に乱れ狂ってしまうことになるのだが、何度経験しても自由を奪われる瞬間の緊張には慣れることができなかった。
「手を上げて……そう。脚も……こっちへ」
レオンの手つきは驚くほど速く、かつ正確だった。
流れるような動作でセイレンの自由は次々と奪われていく。
縄が肌に食い込む感触に、不安と否定しようのない僅かな興奮が彼女の背筋を駆け抜けた。
両手両足を無慈悲に拘束され、最後にレオンが目隠しに手をかけた時、セイレンは咄嗟に声を上げた。
「あ、あの……レオン様…申し訳ありません。私……目隠しだけは…」
かつて両目を失明していたという壮絶な過去を持つセイレンにとって、視界を塞がれることは単なる不自由を超えた根源的な恐怖であった。
修行者には事前に彼女の主であるロダンからその旨が説明されており、これまでの修行者たちは皆事情を理解し彼女の視力を奪うことはしなかったのだ。
もちろん、レオンもその説明は受けていた。しかし。
「いいから、いいから」
彼はその訴えを軽くいなすと、抗う術のない彼女の瞳を暗闇を呼ぶ布で無情に覆い隠した。
「あ、あのっ……私……っ」
(こ、怖い……!)
目の前を真っ暗な闇が支配した瞬間、かつて光を失っていた頃のあの拠り所のない底冷えするような恐怖が蘇る。
同時に、収容所で身体に叩き込まれた「男性には決して逆らってはいけない」という隷属の記憶が彼女の声を封じた。
そして。
震える彼女の耳元に、レオンはさらに追い打ちをかけるような言葉を冷たく囁いた。
「君、……他の男を見ているな?」
「……!!?」
一瞬、何を言われたのか理解が追いつかなかった。
しかし、「他の男」というそのフレーズの持つ意味に気づいた瞬間、セイレンの心臓が大きく跳ね上がった。
レオンがこの部屋を訪れる直前まで、彼女は来週に控えているグレイスとの修練のことに胸をときめかせていた。
レオンが姿を現してから、その風貌に怯えていた時も心のどこかではグレイスの優しい微笑みを思い出し、彼への想いを捨てきれずにいたのだ。
そこを、この男に見透かされた。
「たっ……大変失礼いたしましたっ!! ほ、ほんの一瞬です……申し訳ありません…!!」
セイレンは即座に、懇願するように謝罪した。
これから修練を受けようとする「受け手」が対峙する修行者以外の男性に心を奪われていること。
それは修行者に対する最大の非礼であり、何より自らの分をわきまえない傲慢な行為である。
レオンは、彼女の狼狽ぶりを愉しむように意地悪く笑った。
「傷ついちゃうなあ……これは受け手としては失格だね。このことは、上に報告しようかな? ……そうすれば」
「えっ……あ、あの……」
次々と進んでいく話の展開にセイレンは理解が追い付かない
「君は来週どころか、もう二度とその男には会えない。もちろん、修練なんて以ての外だ。引き裂かれておしまいだね」
セイレンの顔から、一気に血の気が引いた。
先ほどまで、あんなに楽しみにしていたグレイスとの逢瀬。
それが無くなるばかりか、二度と会えなくなると宣告されたのだ。
「もっ……申し訳ありません!! さ、先ほどのことは……平に、謝ります!!」
両手足を不格好に縛られたまま、セイレンはなりふり構わず叫ぶようにして許しを請うた。
(ま、実際そんなことにはならないんだけどね)
レオンは内心で密かに舌を出した。
女性を敬うイスタールの規範において、たとえ奴隷であっても女性を過度に苦しめ泣き叫ばせて懇願させるような事態は決して起きないように務められる。
万が一、修行者への恋慕が理由で支障が出たとしても、強制的に仲を引き裂くような残酷な真似はせずもっと穏やかで理にかなった解決法を探り着地点を見出すのがこの街の流儀だ。
ましてや、セイレンの今の様子なら「支障」などとは程遠い。
だが、視界を奪われ極限の不安に置かれているセイレンに、そんな冷静な思考は望むべくもなかった。
彼女は今にも執行されようとしている死刑囚のように、必死に言葉を重ねる。
「申し訳ありません! レオン様っ!! い、嫌……!! お願いです、許してください……!!」
暗闇の中で、レオンがどこにいるのかも分からず、両脚を広げて拘束された不格好な姿のまま、セイレンはあらぬ方向に向かって声を枯らす。
(あらら、こりゃ相当だね……羨ましい)
これほどまでの美女に心底慕われている見知らぬ修行者に一抹の嫉妬を覚えながらも、レオンは獲物を追い詰める声色で言葉を紡ぐ。
「……無かったことに、してほしいかい?」
彼は静かな、しかし抗いがたい力を持った声で囁いた。
セイレンの動きが、ぴたっと止まった。
まだ間に合うかもしれないという淡い期待。
そして、その対価として何かを要求されるであろうという強い不安。
しかし、まぶたの裏に浮かぶあのグレイスの優しい笑顔。
彼に二度と会えなくなるという耐え難い恐怖が、彼女の覚悟を決めさせた。
「な、何でも……何でもいたします。許してください…どんなことでも……仰ってください…」
彼女は震える声で、決死の覚悟を口にした。
「くく、何も酷いことをしようってわけじゃない。そんなに身構えるなよ」
レオンは愉快そうに喉を鳴らし、再び鞄からいくつかの道具を取り出し始めた。
目隠しされたセイレンの耳には、ゴト……ガチャ……という、正体の知れない硬質な音が響く。
その正体が分からないからこそ、彼女の想像力は恐怖を増大させていった。
「ゲームをしようか。なに、君がその彼のことを本気で想っているなら、簡単なことだよ」
暗闇に閉ざされたセイレンの前で、レオンは残酷なまでに不敵な笑みを浮かべた。