イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
薄暗く、じっとりと冷え切ったあの忌まわしいガトン収容所。
ポーターは、終わりのない悪夢を見続けていた。
そこにあるのは人間の尊厳など一切顧みられない、ただの排泄器官として扱われる地獄だった。
身体を動かす自由すら奪われ、性欲を晴らすことしか頭にない薄汚れた男たちに寄ってたかってその身を蹂躙されている。
股間を襲うのは、愛撫も愛着も、何の準備すらもないまま乱暴に割り入ってくる肉が引き裂かれるような強烈な激痛。
抵抗しようとすれば情け容赦なく頬を拳で打ち据えられ、頭が揺れるほどの鈍痛が追いかけてくる。
目の前では下卑た獣のような笑みを浮かべ、必死になって腰を打ち付けてくる男の生臭い息が顔にかかる。
そしてその男の背後には、品定めをするような卑しい視線を隠そうともせず、今か今かと自分の順番を待ち侘びている男たちが列をなしていた。
視線を巡らせれば、左隣の牢では褐色肌の少女が、
右隣の牢では両眼を容赦なく潰されたあの銀髪の少女が、
そして向かいの牢では、まだ幼さを色濃く残す小柄な少女が二人して同じように無残に乱暴され、声を枯らしていた。
――だが、ポーターの心は、どこか冷めていた。
彼女は、これまで幾度となく自分を苛んできたこの悪夢がすでに過去の遺物であり、目の前の光景が残酷な「まがい物」であることに気づいている。
なぜならここがどれほど暗く冷たくとも、目が覚めればそこには柔らかな朝の光が差し込む自分だけの清潔な部屋があることを知っているからだ。
窓の外からは心地よい鳥のさえずりが聞こえ、年下ではあるけれど誰よりも頼りになる先輩使用人のルッツがいて、そして普段は寡黙でどこか近寄りがたい雰囲気を纏ってはいるものの、その心の奥底には誰よりも深い優しさと慈悲を秘めた主が待ってくれている。
そんな、充実した穏やかな毎日が今の自分の本当の現実なのだと、彼女の魂は理解していた。
「よし、てめえの中にぶちまけるぞ!」
腰を激しく振る男が、粘ついた唾液と共に臭い息を吐き捨て、彼女の最深部を貫こうとした、その瞬間――。
「っ……」
最悪の結末を迎える直前で、ポーターは明晰夢から目を覚ました。
ハッと息を呑んで目を開けると、カーテンの隙間からこぼれ落ちた朝日の柔らかな光が彼女の顔を優しく照らしていた。
深く息を吐き出しながら、シーツのさらりとした心地よい肌触りを全身で感じる。
その温もりと清潔さこそが、今しがた悪夢という名の明晰夢から完全に脱したことの何よりの証拠だった。
「嫌な夢……」
ポーターは眠っている間に無意識のうちに流していたのであろう、目尻に溜まった涙を指先でそっと拭った。
未だに過去の鎖が自分を繋ぎ止めようとすることへの一抹の寂しさを抱えながら、彼女は重い腰を上げてベッドから這い出した。
急いで身支度を整え、寝癖のついた髪を梳かし、顔を洗うために洗面場へ向かおうと部屋を出たその時だった。
「む……おはよう、ポーター」
廊下の向こうから、ちょうど通りがかった主のフェリオが静かに声をかけてきた。
「お、おはようございます! フェリオ様……っ! す、すみません、私……こんな、頭もボサボサなままで……っ」
あまりのタイミングの悪さに、ポーターは顔を真っ赤にして慌てて手で髪を抑えた。
フェリオの朝はいつも恐ろしいほどに早い。
彼女やルッツがようやく目を覚まし、一日の支度を始める頃にはフェリオはすでに完全に身形を整え書斎で早朝から何らかの公務や書類仕事に取り掛かっているのが常だった。
「このお方は、一体いつしっかりと横になって休まれているのだろう」
と、ポーターはいつも内心で心配していた。
だが以前、同じような懸念をルッツに漏らしたところ「あの人は昔からああいう生活スタイルだし、それが普通だから俺たちが余計な心配をすることはないですよ」と、苦笑い混じりに窘められたことがあった。
「いや……気にするな。朝の、そのように柔らかな髪を見ると……その、見ているこちらの気持ちまで、柔らかくなるものだな」
「え……?」
フェリオは、視線を少し泳がせながら、大真面目な顔でそう言った。
かつてルッツに寡黙すぎてポーターに不安を与えていると窘められて以来、フェリオは彼なりに努力しているらしかった。
時折、こうしてポーターの緊張を和らげようと不器用な冗談を口にする。
だが、元が極端に生真面目な男であるため、それが冗談なのかそれとも本気で言っているのか、非常に分かりにくい言い回しになるのが常だった。
最初の頃こそ、どう反応してよいか分からず戸惑うばかりだったポーターだったが、今では、彼のそんな不器用で一生懸命に気遣おうとしてくれる人間らしい一面がたまらなく可笑しく、そして愛おしかった。
おかげで、悪夢のせいで重かった朝の気分が一瞬にして軽くなっていく。
「ふふ、ありがとうございます。すぐに支度を終えて、朝食の準備に取り掛かりますね」
ポーターは小さく微笑んで頭を下げると、足早に洗面場へと向かった。
(……泣いていたのか)
すれ違いざま、彼女の目の縁が僅かに赤く腫れていたことを見逃さなかったフェリオは一人廊下に佇み、顎に手を当てて深く考え込んだ。
フェリオが静かに食事を終えた後、ポーターは厨房で一人、黙々と食器を洗っていた。
今日はあいにく先輩であるルッツが休日をもらって終日外出している。
そのため、屋敷の家事の一切を今日はポーターが一人で切り盛りしなければならなかった。
この食器洗いが終われば次は広い庭の掃除が待っている。
その後は夕食の食材の買い出しにも行かなければならない。
忙しくも充実した一日に、彼女は気合を入れ直した。
午後になり、予定通り庭の掃除をすっきりと終えたポーターは少し長めの休憩をフェリオに取ってもらおうと、温かいお茶を用意して彼の書斎の前に立った。
「フェリオ様、お茶をお持ちいたしました」
トントン、と控えめにノックをして声をかける。
しかし、室内からの返答はいつもより少し間を置いてからどこか気怠げに響いた。
「ん……あぁ、開いている。入ってくれ」
その微かに掠れた声に促され、ポーターが静かに扉を開けるとそこには、ここ最近で何度か目にするようになった、少し切なくなるような光景が広がっていた。
ポーターは、思わず小さくため息を漏らす。
そこには、執務机から離れ革張りのソファの上で体を横たえ、仮眠を取っていたであろうフェリオの姿があった。
「む……すまん。少し、横になっていた。そこへ置いておいてくれ」
フェリオは隠しきれない疲労の色を顔に滲ませながら、身を起こす気力もなさそうに横たわったままそう言った。
とにかく、この主は働きすぎだった。
ルッツは「心配ない」と言うけれど、これほどまでに自分を削りながら公務に没頭する姿を見て気にならないわけがない。
もっと肩の力を抜いて、仕事を休み、自分の好きなように時間を過ごせばいいのに、と彼女の胸は痛んだ。
ポーターはお茶のカップをそっと机に置くと、ソファに横たわるフェリオを心底心配そうな目で見つめた。
「あの……フェリオ様。やはり、かなりお疲れのご様子ですが……。夜はしっかりと睡眠を取れていらっしゃいますか?」
「ふむ……。何かに追い詰められているわけではないのだがな。どうも、少しでも時間が空くとつい習慣で仕事に向かってしまう。気づけば夜が明けていて睡眠を怠っている時があるのは確かだ」
フェリオは自嘲気味にそう言うと、ようやく重い身体を引きずるようにしてソファからゆっくりと身を起こした。
「あの……!」
ポーターは思わず一歩、彼の方へと踏み出していた。
「何か、私にできることはないでしょうか。私のような者に…フェリオ様のご高尚なお仕事をお手伝いすることは不可能ですけれど…。せめて、日々のそのお疲れが少しでも和らぐような、癒しになるようなことでしたら……」
そこまで必死に申し出る彼女に対し、フェリオはただ労わるような優しい眼差しを向けた。
「いや、気にするな。お前は毎日この屋敷を実によく維持してくれている。日々、本当に助かっているよ。それだけで私は十分だ」
どこまでも自分を対等な使用人として気遣ってくれるフェリオ。
その優しさに胸が締め付けられると同時に、ポーターの脳裏にずっと心の奥底に鍵をかけて封じ込めていた、ある「話題」が不意に鎌首をもたげた。
それは、かつて同じ収容所から救い出され、今は別の主の元で働く友人のルーアンと以前に食事をした際の会話だった。
『私ね……デリー様のお夜伽の相手も、任されているの。それが、日々お疲れのご主人様を癒やす私の役目でもあるから』
ルーアンは、どこか誇らしげに、そして幸せそうにそう語っていた。
イスタールの修行者たちの元へ送られた少女たちの中にはそうした役割を担う者も少なくない。
ルーアンの主のデリーは好色な男性と聞いている。
だが、目の前の高潔な主には、その「癒し」という言葉が指す真に世俗的で肉体的な意味合いまでは、まだ全く伝わっていないようだった。
ポーターは、ゴクリと唾を飲み込み、意を決して言葉を繋いだ。
「フェリオ様……。私の友人のルーアンは、その……お仕えしているご主人様を『癒やす』という、特別な役目も与えられていると聞きました」
「ん? ルーアンか。たしかデリーのところの……」
「はい。つまり、その……日々のお仕事で本当にお疲れのご主人様が、もし……もしお求めになられたら、その……夜の、お相手を務めることも……」
一度話し始めると、自分でも驚くほどに言葉が次から次へと溢れて止まらなかった。
胸の奥に、固く、固く蓋をして封印してきたはずの想い。
主を男性として見るなど、そんな大それたことは口が裂けても言ってはならないと思っていたのに、堰を切ったように感情が溢れ出していく。
「あぁ……なるほど。そういうことか。デリーは、彼女とそういう関係を結んでいるのだな。まぁ……この街では、決して珍しい話ではない」
張り詰めた表情で心臓を激しく波打たせながら告白したポーターとは対照的に、フェリオは至極冷静に淡々と事実を受け止めるように返答した。
「フェ、フェリオ様は……」
ポーターは、自分の声が微かに震えるのを感じた。
「フェリオ様は、そのような……夜の癒やしを……お求めには、ならないのでしょうか……?」
言っていまった、と思った。
何を突飛なことを口走っているのだろう。
もし、この目の前の絶対的な主が、「では、そうしようか」と一言同意すれば、今この瞬間にでもこの書斎のソファの上で、あの行為が始まってしまうかもしれないのだ。
ポーターの鼓動は、耳の奥でうるさいほどに跳ね上がっていた。
しかし、返ってきたフェリオの答えは、彼女の予想を遥かに裏切るものだった。
「……私が、お前にそのようなことを求めれば」
フェリオは、深く濁った、しかしどこまでも濁りのない瞳で彼女を見つめ返した。
「お前を……もっと救うことができるのか?」
「え……っ?」
ポーターは、言葉を失って立ち尽くした。
この男は――このフェリオという主は、ここまでの話をされてなお、自己の欲求を満たすことなど微塵も考えていなかった。
ただひたすらに、あの凄惨なガトン収容所から引き上げてきた傷だらけの使用人の少女の身を案じ、どうすれば彼女の心が救われるのか、それだけを考えている。
主を癒やすにはどうすれば、というポーターの問いかけが、彼の中ではいつの間にか「使用人の少女がどうすれば癒やされるか」という話にすり替わってしまっている。
それでは、意味がないのだ。
彼自身を労りたいという、彼女の純粋な願いの答えになっていない。
フェリオには男としての利己的な欲求というものが根本的に欠落しているのではないかとさえ思えた。
この街に来て以来、それなりに自己の欲求を厳しく律し女性を尊ぶ精神を持つイスタールの男たちをポーターは見てきたつもりだった。
だが、目の前にいるこの主はそのイスタールの民たちの中でも、筋金入りの「異端」であり圧倒的に高潔すぎる精神の持ち主だった。
主の、その疲れ切った心と身体を、どうにかして休ませてあげたい。
そのためには彼を縛り付けているイスタールの高すぎる矜持や他者を最優先するあまり自分を蔑ろにするその生き方を一度、無理やりにでも取り払ってあげる必要があるのではないだろうか。
ポーターはそれ以上何も言い返すことができず、ただ目の前で静かにお茶をすする主の横顔を見つめながら、深く、深く考え込むのだった。