イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
西の小国イスタール。
その国の南端、他者の心を読み解く「読心」という特殊な能力を持つ修行者たちがその過酷な技と精神を磨き上げるために集う「修練の街」。
今日もまた、この街独特のどこか厳かで、それでいて爽やかな活気に満ちた朝が静かに訪れようとしていた。
その日の朝、セイレンはいつも通り主であるロダンの屋敷で朝食の後片付けをしていた。
テーブルクロスを片付け床をモップで拭いている最中、ふいに背後からロダンに声をかけられる。
「あー……セイレン。その、急な客だ。……グレイスが来てるぞ」
その名がロダンの口から零れ落ちた瞬間、セイレンの手がピタリと止まった。
心臓が跳ね上がり、持っていた皿を危うく床へ落としそうになる。
「グ、グレイス様が……っ!??」
驚きと困惑、そして言葉にならない衝動が彼女を突き動かした。
セイレンは慌ててエプロンを外し、乱れた銀髪や衣服の皺を必死に手で整えながら彼が待つという応接間へと半ば駆け足で向かった。
胸の奥で、期待と不安が激しくせめぎ合う。
彼と交わす、待ち望んでいた「修練」の日は確か来週の約束だったはずだ。
なぜ、彼は今日ここにいるのだろう。
もう一度あの優しい温もりに触れられるという狂おしいほどの喜びの反面、
何か予期せぬ事態が起きたのではないかという微かな胸騒ぎが彼女の小さな胸を締め付けていた。
応接間の重厚な扉の前に立ち、セイレンは深く息を吸い込んで胸の高鳴りをどうにか抑えようとした。
そっと扉を開けると、主であるロダンはすでに気を利かせて席を外してくれたようで、室内には彼一人の姿しかなかった。
「グレイス様……!」
そこにいたのは、紛れもなく彼女が恋焦がれた人だった。
特徴的な紺色の髪を今日も小綺麗に整え、口元には相変わらずどこか軽薄そうで掴みどころのない笑みを浮かべている。
だが、セイレンは知っていた。
その一見軽薄に見える表情の奥底に、誰よりも深い慈愛と凍てついた心を溶かすほどの優しさを秘めている男性であることを。
「やあ、セイレン。元気にしていたかい?」
グレイスはいつもと変わらない風のように軽やかな声で彼女を迎え入れた。
「は、はい……! ロダン様をはじめ、この街の皆様には本当に良くしていただいて…私は、元気にやっております」
久しぶりに至近距離で見る彼の姿にセイレンは胸がいっぱいになり、嬉しさのあまり妙にかしこまった硬い敬語になってしまう。
ひとしきり彼の無事な姿を瞳に焼き付けた後、やはり彼女の心を占めたのは彼がこの場に突然現れた理由だった。
「あの……グレイス様。私たちの修練は来週の予定だったはずですが…今日は、一体どうされたのですか?」
恐る恐る、彼の顔色を窺うように問いかけるセイレン。
グレイスは少しだけ目を細め、静かにカップを置いた。
「ああ、そのことなんだけどね。僕、修行者を辞めたんだ」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が凍りついたかのような完全な静寂が二人を包み込んだ。
修行者を、辞めた――?
あまりにも突飛で、信じがたい言葉の意味がセイレンの脳内で処理しきれずに空回りする。
「正確に言うとね、もうここでこれ以上『修練』をする必要がないくらいには腕が上がってしまったんだよ。だからこれからはこの読心の能力を活かしてしかるべき職に就くことにしたんだ」
「そ、そうですか……」
グレイスが修行者として至高の領域に達した。
それは、彼の才能を考えれば喜ばしい門出であるはずだった。
しかし、そうなると――
彼女が心の支えにしてきた来週の修練はどうなってしまうのだろう。
頭の整理が全く追いつかないままセイレンは受け止めたくない最悪の現実から必死に目を背けようと、ただ彼の言葉の続きを待つしかなかった。
「これからはとある有力な貴族のお抱えの騎士と癒し手として働くつもりだ。まぁ、決闘の代理人を務めるような危ない機会は滅多にないだろうけどね」
「あ、あの……それは、本当におめでとうございます、グレイス様」
セイレンは、自分のものとは思えないほど震える声でどうにか彼の新たな門出を祝した。
言わなければいけない。
しかし、胸の奥からせり上がる絶望が、彼女の喉を締め付ける。
「それで……その…そうなりますと、来週予定されていた、私たちの、その……修練は……」
「うん。無くなったね」
グレイスは、新しく淹れられた紅茶に静かに口をつけながら淡々とそう告げた。
その瞬間、セイレンの目の前は完全に真っ暗になった。
一体、何度この機会を逃せば気が済むのだろう。
最初は自らの未熟さと感情の昂ぶりのせいで機会を逃し、
先日はあのレオンとの過酷な修練の中で、欲望のあまり自ら権利を手放してしまった。
それが後にレオンの底意地の悪い虚言だと分かり、ようやく掴み直したはずのグレイスとの大切な約束。
それが今度は、彼の「修行者引退」という、抗いようのない大義名分によって永遠に失われてしまった。
彼の輝かしい未来を心から祝わなければいけない。
頭では分かっているのに、視界が涙で滲み、今にも大粒の雫が零れ落ちそうになる。
「セイレン。僕はね、これまで『修練』という定められた義務の中でしか女性というものを知らなかったんだ」
グレイスが、カチャリと静かな音を立ててカップをソーサーに戻した。
「周りから手練れだ何だと持て囃されて、どれほど器用に女性を扱えても、それは全部『修練』という枠組みがあったからだ。それを抜きにして一人の男としてまともに女性と向き合ったことなんて僕には一度も無かった」
「は……はい……」
彼が突然、なぜそんな自分語りを始めたのか、その真意が掴めぬままセイレンはただ涙を堪えて彼の言葉を耳に流し込む。
「だからね、セイレン。僕は……君とそういう関係になるのが、『修練』なんていう味気ない義務の上のことなのは嫌なんだ」
グレイスは、悪戯っぽく微笑むのをやめ、真剣な、そして底知れない熱を孕んだ瞳で彼女を真っ直ぐに見つめてそう言った。
押し潰されそうな黒闇に包まれていたセイレンの心に、一筋のまばゆいほどの光が差し込んだ気がした。
「そ、それは……一体、どういう……」
「この前、二人で夜の街に出かけて食事をしたことがあっただろう? ああやってさ、二人で普通に街を歩いて、一緒に美味しいものを食べて、他愛のないことを語らって。夜の綺麗な街並みを並んで見つめたりしながら、楽しくて温かい時間を過ごしてさ」
グレイスは少し照れくさそうに頭を掻きながら、言葉を紡ぐ。
「その先に……義務なんかじゃなくて、お互いの愛情を確かめ合うみたいに…セイレン、君とそういう関係になりたいって思ってしまったんだよ。修練としてじゃなくてさ」
彼の口から語られた、あまりにも純粋で、あまりにも愛おしい本音。
それを聞いた瞬間、セイレンの瞳からとうとう我慢しきれなくなった涙が溢れ出した。
しかし、その涙は先ほどまでの絶望の涙とは全く異なる理由によるものだった。
「わ、私は……私はまだ、この街で『受け手』としての役割が続きます。そんな私が……グレイス様のその温かいお気持ちを受け止める資格なんてあるのでしょうか……」
嬉しさと同時に、自らの立場に対する後ろめたさが彼女を惑わせる。
だが、グレイスは優しく首を振った。
「それを言うなら、僕だって同じさ。やっぱり必要とされれば女性を相手にする仕事だってあるかもしれない。……でもさ、あの夜、お互いの役割を理解した上で二人でこの先のことを一緒に考えていこうって、約束したよね?」
確かに、彼はそう言ってくれた。
あの忘れられない夜、畏まる彼女と二人で夕食を囲みながら彼はお互いの置かれている立場や役目を尊重し合い、どうすれば二人で歩んでいけるかその方法を一緒に模索しようと手を握ってくれたのだ。
その言葉に、偽りは一言もなかった。
「わ、私っ……」
セイレンは溢れる涙を抑えるように、両手で愛くるしい顔を覆った。
「私も……私も、グレイス様とは…そういうのが、いいです……! 義務なんかじゃなくて、そういう風に、一つになりたいです…!」
「よかった。じゃあ、早速次の休みのデートの日取りを決めなくちゃね」
デート。
相変わらず、そんな照れくさいセリフをさらりと軽薄に言ってみせる。
けれど、その軽口のような言葉の奥にある彼のどこまでも深い優しさがセイレンは何よりも嬉しかった。
かつて、光を失い、絶望の底で潰れていた彼女の両眼に再び世界を見る光をくれたこの人。
今、またしても彼は彼女の凍てついた心に二度と消えない温かな光を灯してくれたのだ。
グレイスをただ「修練の受け手」として迎えることこそが自分にとっての最良の幸せだと、彼女はこれまで信じて疑わなかった。
だが、この日、この瞬間。
セイレンは、かつて自分が思い描いていたあらゆる理想を遥かに超える、この上ない本物の幸福にその身を優しく包まれていた。
二人の未来の物語は、ここから新しく始まった。