イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
馬車が止まったのは王都の静かな通りに面した石造りの質実剛健な邸宅だった。
派手な彫刻や噴水などはないが、丁寧に掃き清められた石畳と窓辺に飾られた質素な花瓶が、住人の規律正しい生活を物語っている。
「着いたぞ。ここが今日から君の職場であり、住まいだ」
フェリオに促されポーターはおずおずと馬車を降りた。
玄関をくぐるとそこには磨き上げられた木の床と、微かな蜜蝋の香りが漂う廊下が続いていた。
「フェリオ様、お帰りなさいませ」
廊下の奥から、一人の少年が足早にやってきた。
十代半ば、紺色の髪を短く整えきびきびとした動きを見せるその少年はポーターを見て、丁寧だが深すぎない適度な敬意を込めた会釈を向けた。
「ポーター、彼はルッツだ。私の身の回りの世話をしながら家事全般を学んでいる。君のことも彼がサポートすることになるだろう」
「ルッツです。よろしくお願いします、ポーターさん」
ルッツの挨拶は同情や崇拝といった過剰な色を排した、実に「使用人」らしい清々しいものだった。
彼はフェリオの荷物を受け取ると、「こちらへ」とポーターを先導した。
案内されたのは二階の端にある小さな個室だった。
部屋には清潔な麻のシーツが敷かれた寝台と、小さな机、そして衣服を収めるための簡素な箪笥があるだけだ。豪華な装飾は何一つない。
しかし収容所の冷たい石畳とは違い、そこには柔らかな陽光と自分だけの「プライバシー」というこの上ない安らぎがあった。
「ここがあなたの部屋です。鍵も内側からかけられます。…フェリオ様は今日はもう休むようにと仰っています。明日の朝、僕が屋敷の案内と使用人としての仕事の流れを説明しますね」
「…ありがとう、ございます」
ポーターが掠れた声で礼を言うと、ルッツは「いえ、当然のことですから」と短く微笑み部屋を辞した。
一人残された部屋でポーターはゆっくりとベッドに腰を下ろした。
沈み込むような感覚にこれまで張り詰めていた緊張が少しずつ解けていく。
(…温かい。静か…。本当に、ここで働いていいの?)
あらゆることが起きた一日の疲れが急激にポーターを襲い、彼女は一人分のベッドの隅で丸まるように眠りに落ちた。
翌朝からの生活は驚くほど淡々としていた。
夜明けとともに起き、ルッツに教わりながら廊下を拭き、洗濯物を干す。
フェリオの食事の準備を手伝い、空いた時間には読み書きの基本を教わった。
ルッツは仕事に対しては厳格だったが、ポーターが慣れない手つきで掃除をしていると、黙って手を貸してくれた。
「女性に重いものを持たせるのは、イスタールの精神に反しますので」
それは過剰な優しさではなく、この国に根付いた「当たり前の作法」としての振る舞いだった。
その少年の生真面目なほどの誠実さがポーターにとってはかえって心地よかった。
フェリオは相変わらず寡黙だったが、ポーターが淹れた茶を一口飲むとわずかに頷いて「悪くない」と短く評した。
その静かな肯定がポーターの心を今までにない穏やかな光で満たしていった。
しかし、平穏な日々の裏側で約束の「その日」は着実に近づいていた。
三日が過ぎた夕食後、フェリオが静かにポーターを呼んだ。
「ポーター。…明日の夜、修行者がここへ来る。名前はカナンという」
ポーターの指先がわずかに震えた。
「…はい」
「ルッツからも聞いていると思うが、君は彼の『修練の相手』だ。…君がどこまで受け入れられるか、カナンは君の呼吸を読みながら進めるはずだ。…不安か?」
フェリオの問いにポーターはすぐには答えられなかった。
恐ろしいはずなのに、心のどこかであの丁寧に身体を洗ってくれた少年たちや静かに自分を導くルッツのような「イスタールの男」が自分に触れることに、抗いがたい予感を感じている自分に気づいていた。
「……務め、ですから。…精一杯果たします」
ポーターの言葉に、フェリオは一瞬眉を微かに動かしたが、やがて短く「そうか」とだけ返した。
その夜、ポーターは自分の部屋の小さな窓からイスタールの夜空を眺めていた。
使用人としての平穏な日常と、明日から始まる「奴隷としての役割」。
その二つが織りなす未知の生活に、ポーターは戸惑いながらも静かに目を閉じるのだった。