イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
夕暮れ時の淡く物憂げな光が、窓辺から室内へと差し込んでいた。
夕方の短い休憩時間、ミニスは親友のキルヴィと並んで座り温かいお茶の時間を愉しんでいた。
静寂の中に響く、カップがソーサーに触れるかすかな音。
そんな穏やかな空気の中で、キルヴィが口にした言葉にミニスは思わず目を丸くして声を上げた。
「えっ! 1年!?……そんなに長くこの屋敷にいてくれるの!?」
「ええ。エリオ様に正式にそう言われたわ」
キルヴィは感情をあまり表に出さず静かに紅茶を口へと運んだ。
そして、本来の主人であるエリオの屋敷に一時的に戻っていた時の、主とのやり取りを静かに思い出していた。
「キルヴィとずっと一緒にいられるのは僕としても本当に嬉しいけれど……でも、あちらの屋敷の仕事は大丈夫なの? 迷惑がかかっていないかな」
ミニスもつられて自分の紅茶に口をつけながら、当然の疑問を抱いて問いかける。
エリオ家において使用人として働きながらも、過去の傷から「修練」の受け手となることだけを頑なに拒み続けていたキルヴィ。
困り果てたエリオが後輩であり気心の知れたこの屋敷の主人・オイラーを頼り、彼女をこちらへ預けてから早いものでもう一ヶ月が経とうとしていた。
この一ヶ月の間、親友であるミニスの捨て身の説得や、この屋敷の環境が彼女の心を少しずつ溶かしたのだろう。
キルヴィは最終的に、オイラーの屋敷の先輩使用人である修行者・アロンを唯一の修練の相手とすることでようやく話を決着させたのだ。
だからこそ改めて修練の受け手となることを承諾したキルヴィは、当然本来の主であるエリオの元へ戻るものだとミニスは考えていたのだが――。
「どうせこれから1年間、アロン専属の受け手として身体を預けることになるのならもうそのままオイラーの屋敷に腰を落ち着けていなさい……ですって。エリオ様も色々と割り切ってくださったみたい」
キルヴィは相変わらず淡々とした調子で告げる。
彼女の言う通り、一度は拒んだ修練の受け手を引き受けたキルヴィであったが、その契約はいまだ修行中の身であるアロンを「専属」で相手にするという極めて特殊なものだった。
当然、アロンにとっても、修練で肌を重ねる相手はキルヴィただ一人という深い信頼で結ばれた間柄になる。
その繊細な事情を深く理解したエリオは、生真面目で気難しいキルヴィが再び心変わりをして心を閉ざしてしまわないよう、彼女が最も精神的に安定しスムーズに今後の務めを果たせる環境をそのまま維持してやろうと配慮したのだ。
一方のミニスは、大好きな親友とこれから先も1年間、毎日顔を合わせられるのだと知り胸が躍るような喜びに包まれるのを感じていた。
だが同時に、キルヴィが抜けてしまったエリオ家の屋敷の仕事は一体誰が穴埋めをするのだろうかという心配が頭をよぎる。
「その点については、何も心配いらないわ」
ミニスの不安を察したように、キルヴィが静かに言った。
「エリオ様は、新たに連れてこられる奴隷……あの凄惨な場所から救い出された子たちの中から一人、新しい使用人として側に置く予定らしいわ」
「ええっ……!?」
ミニスは驚きに声を詰まらせ、複雑な表情を浮かべた。
奴隷――。
それは、どれほどこの街に馴染もうとも未だに消えることのない自分たちの過酷な身分そのものだった。
このイスタールの街に来て以来、とてもそのおぞましい名が示す身分とは程遠いほど、穏やかで人間らしい生活を送らせてもらってはいる。
けれど、自分たちにはこの街の外に出る自由はなく、本来であればキルヴィのように上から与えられた修練の受け手という役目を拒む権利すら持たない立場なのだ。
そんな自分たちと全く同じ境遇にある少女たちが、またしてもあの悪夢のような地獄から救い出されこの街で新たな生活を始めることになるのだろうか。
「最近はこの街でも、受け手を引退して新しい道を歩む方も多くいるようなのよ。彼女たちの分を、やはり全体の数を合わせて補わなければあなたのように真面目に受け手を務めている子の負担が増える一方だわ。それはエリオ様たち上の方々としても避けたいのでしょうね」
もし新しい受け手が来なければ、アロン専属であるはずの自分もいずれは他の修行者たちの相手をしなければならなくなるかもしれない。
キルヴィ自身は、もしそうなったとしてもそれを受け入れようという覚悟はとうにできていた。
だが、受け手となる少女が増えるということは、それだけ世界のどこかにある悍ましい地獄から自分たちのように救い出される女性が増えるということでもある。
かつては警戒しか抱けなかったこの街やイスタールの民のシステムについて、キルヴィ自身、今ではそんな風に前向きに捉えられるようになるほど心のあり様は大きく変化していた。
「僕は……もし回数が増えても、それでも全然構わないけどな」
修練の機会が増える。
その言葉を聞いた瞬間、ミニスは少し頬を赤らめ、はにかむように呟いた。
「あなたは本当にいつもそうね……。少しは自分の身体にかかる負担というものも考えなさい」
女性としての本能や肉体的な欲求にどこまでも素直で貪欲な親友の姿を見て、キルヴィは呆れたように小さくため息をつく。
「えー、そんなお説教みたいなこと言って……キルヴィだって、本当は人のこと言えないくせに。僕、知ってるんだからね?」
ミニスが、いたずらっぽく目を細めて意地悪く囁いた。
キルヴィは全く心当たりがなく、一体何のことかしら、と不審そうに親友の次の言葉を待つ。
「キルヴィ……昨日も夕方の物陰でさ、アロンさんと……かなり情熱的にキスしてたでしょ?」
「っ……、ごほっ……!!!?」
あまりにも不意を突かれた羞恥の暴露に、キルヴィは飲んでいた紅茶を吹き出した。
一瞬にして顔が耳の根元まで真っ赤に染まっていく。
「それにさ、その前だって、裏の物置から服がだらしなく乱れた様子で出てきてさ……。キルヴィが小走りで去っていった少し後、同じところからアロンさんも、ひどく上気した顔で出てくるのを見ちゃったんだから」
「ち、違うのよ……! それは……その、アロンが、どうしても……、その、我慢が効かなくなってしまったとか言うから……っ」
そこまで一気に弁解して、キルヴィは自ら進んで墓穴を掘ったことに気づき、慌てて口を噤んだ。
確かに物置の件は、アロンの熱情に押し切られた形だった。
けれど、昨日のキスに関して言えば――本当に我慢できなくなって、自ら唇を寄せてしまったのは他ならぬ自分自身だったかもしれない、と思い至ったからだ。
「別に責めてるわけじゃないけどさ。そんな熱々のはしたない姿を見せつけられて、一人でムズムズしちゃうこっちの身にもなってよね」
ミニスはクスクスとからかうように笑う。
だが、常に性に貪欲で、主たちとの修練を心待ちにしている彼女にとっては、ある意味で本当に酷な刺激だったかもしれない。
キルヴィは親友に対して少し悪いことをしたという反省の色を浮かべ、消え入りそうな声で応じた。
「そ、そうね……。本当にごめんなさい、今後はもっと、場所を弁えるように気をつけ……」
「おーい、二人とも。そろそろ休憩の時間は終わりだよ」
キルヴィがそう言いかけた背後から、まさに噂をしていた当人の明るく快活な声が響いた。
藍色の髪を後ろで綺麗に一つに纏めた、この屋敷の使用人であり修行者の少年・アロンだ。
「はーい、今行きます! ほら、キルヴィ、アロンさんが呼んでるよ?」
ミニスがここぞとばかりに意地悪く笑いながら立ち上がる。
「まったく……わかったわ」
しばらくの間は、この件でミニスから格好のからかいの的にされるだろうなと、諦めの表情を浮かべながらもキルヴィの胸には温かい灯がともっていた。
アロンの元へと歩き出そうとした時、ミニスがふと振り返り、真剣な瞳で言った。
「ねえ、キルヴィ。新しくこの街に来るっていう子たちも……僕たちのように、ちゃんと救われるといいね」
「ええ、そうね。……本当に」
キルヴィは初めてこの見知らぬ街に連れてこられ、エリオ家に仕えるようになったばかりの頃の自分を静かに思い出していた。
当初、自分は激しい恐怖の裏返しとして、この街のイスタールの民を酷く誤解し、警戒していた。
「修練の受け手」という、快楽の技の練習台となり、心を読まれるという特殊すぎる役割。
それと正面から向き合い、アロンというかけがえのない存在を得た今では、この街の仕組みにも大まかには納得がいっている。
何よりも、今のこの衣食住が満たされ、優しさに囲まれた生活は、あの薄汚れたガトン収容所の地獄とは天と地ほどの差があった。
数奇で不条理な運命ではあるけれど、自分は今、この場所で確実に「救われている」のだ。
新しくこの街に連れてこられる子たちの中にも、かつての自分のように全身の毛を逆立てて警戒心を剥き出しにしている子がいるかもしれない。
どうか、この街の穏やかな空気が彼女たちのその頑なな警戒を優しく和らげてくれますように。
そして、自分はもう傷つけられないのだと、救われたことを実感できる生活を送れるように。
キルヴィは胸の中で強くそう願い、愛おしい少年が待つ午後の仕事へと足を進めた。