イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
ポーターが眠りについた後、屋敷の主フェリオの書斎にはまだ明かりが灯っていた。
トレイを片手に、ルッツが扉を叩く。
「失礼しますフェリオ様。今日の報告に参りました」
フェリオは書類から目を離さず、短く「入れ」とだけ応じた。
ルッツは手際よく冷めた茶を新しいものと替え、主人の傍らに立った。
「ポーターの様子はどうだ」
「はい。掃除も洗濯もまだ慣れない手つきではありますが、一つ一つを非常に丁寧にこなしています。正直、予想していたよりもずっと飲み込みが早い。指示したこと以上の気配りを見せることもあります」
ルッツの言葉にフェリオはペンを止めわずかに顔を上げた。
「…そうか。ならば、生活に支障はないな」
「仕事に関しては、です」
ルッツは少しだけ声を潜め、主人を諭すような口調になった。
「ですが彼女はまだ自分の価値に気づいていません。あれほど器量が良くふとした瞬間に僕でさえ目を奪われるような…女性としての深い素質を感じさせるのに本人は常に怯え、自信を失っています。もったいないことですよ。…せっかくイスタールに来たのですから性の務めも割り切って受け入れここでの生活を謳歌してくれればいいのですが」
フェリオは再び書類に視線を落としたが、その指先は動いていない。
「…修練が始まれば嫌でも自覚することになるだろう。カナンの技が彼女の眠っている価値を掘り起こすはずだ」
「それはそうですが…」
ルッツは溜息をつき、主人の顔をじっと見据えた。
「フェリオ様、少し宜しいですか? あなたが寡黙なのは今に始まったことではありませんが、彼女に対してはあまりに無愛想すぎます。ポーターさんはあなたが自分のことを嫌っているのではないか、いつか放り出されるのではないかと、毎日戦々恐々としているんですよ」
「…私は何も言っていないはずだが」
「それが問題なんです」
ルッツは呆れたように肩をすくめた。
「あなたは昔から悪気はないのに言葉が足りなすぎる。厳格に見えるその沈黙が今の彼女には何よりの恐怖なんです。もう少し…そうですね、せめて朝の挨拶の時にでもわずかに口角を上げる努力をなさったらどうですか?」
主人に対してこれほど率直に小言を言えるのはルッツが単なる使用人ではなく、フェリオがその実力と誠実さを深く信頼している証でもあった。
フェリオは不器用そうに眉間に皺を寄せた。
「…努力は、善処しよう」
「期待せずに見ておきます。では、失礼します。ポーターさんには僕からもあなたはただ言葉が不自由なだけだとそれとなく伝えておきますから」
「…不自由、ではない」
フェリオの小さな反論を背中で聞き流しながらルッツは微かな笑みを浮かべて書斎を後にした。
厳格な主と前途有望な少年。そしてその二人が不器用ながらも守ろうとしている一人の女性。
静かな屋敷の夜は嵐の前の凪のような、穏やかな優しさに包まれていた。