イスタール年代記-快楽の修練者と藍色に染まる少女たち- 作:錫鹿とらちよ
翌朝の食卓は、これまでにない奇妙な緊張感に包まれていた。
朝日が差し込む食堂で、ポーターはルッツが用意した質素ながらも温かい朝食を前に、背筋を伸ばして座っていた。
いつもならフェリオは黙々と食事を済ませ、必要最低限の指示を出して席を立つのですが、今朝の彼は何かが違っていた。
「……ポーター」
突然低い声で名前を呼ばれ、ポーターは肩を跳ねさせた。
「は、はい! フェリオ様、何でしょうか」
フェリオは手元のパンを見つめたまま、数秒の沈黙の後、絞り出すように告げた。
「…その、パンの焼け具合はどうだ。硬すぎて、喉を痛めてはいないか」
「えっ…? いえ、とても柔らかくて美味しいです。ルッツさんが丁寧に焼いてくださったので…」
「そうか。……なら、次はなめらかなパンになるようにルッツに命じよう。君の喉は…その、繊細そうだからな」
(なめらかなパン…?)
ポーターは混乱した。昨日の報告でルッツが「器量が良い」と言っていたのを彼なりに「繊細」という言葉に置き換えたつもりだったが、ポーターには「今の粉では不満なのか」あるいは「自分の食べ方が頼りなく見えるのか」と、別の意味に聞こえてしまった。
「も、申し訳ありません! 私はこのままでも十分に…」
「いや、謝る必要はない。…それと、掃除だが。…あまり根を詰めすぎるな。…君が床を磨きすぎると光が反射して眩しくて仕方ない」
フェリオはルッツに言われた通り「冗談」を交えて彼女の働きぶりを褒め気遣おうとしたのだがその表情は相変わらず鉄仮面のように硬く、声には威圧感さえあった。
(磨きすぎて、ご迷惑をかけてしまった…!?)
ポーターは顔を青くして震える声で答えた。
「申し訳ありません…明日からは、ほどほどにするように気をつけます…」
「…いや、そういう意味ではなく…」
フェリオが焦って何かを言い足そうとするたびにポーターの緊張は高まり、食卓の空気はどんどん迷走していった。
ルッツはその様子を隣で見守りながら何も言わずただ遠くを見つめるような目で冷めかけた自分のスープをゆっくりと啜っている。
その無言の佇まいはもはや「呆れ」を通り越して諦めに近いものだった。
食後、フェリオが仕事場へ向かった後、片付けをしていたルッツは今にも泣き出しそうな顔で立ち尽くしているポーターに声をかけた。
「ポーターさん。…さっきのフェリオ様のお話ですが」
「はい…ルッツさん。私、何かいけないことを……」
「逆ですよ。…あれでもフェリオ様なりに精一杯、あなたを気遣い冗談を言って和ませようとしていたんです」
「え…? 冗談、ですか?」
ポーターは信じられないという顔でルッツを見上げました。
「ええ。床の反射の話もフェリオ様なりの褒め言葉です。…あの人は、あなたをとても高く評価している。ただ驚くほど言葉の使い方が不器用なんです。嫌われているどころかあなたに居心地良く過ごしてほしいと昨夜も僕に相談していたくらいですから」
「…私のために、相談を…?」
「はい。ですから彼の言葉の裏にあるトゲのようなものは全部無視して構いません。中身はただの『心配』ですから」
ルッツの言葉を聞いて、ポーターの胸の奥に、すとんと何かが落ちる感覚があった。
この屋敷に来る馬車の中から感じていたあんなに怖かった沈黙や厳格な物言いが、実は「どう接していいか分からない不器用な男の焦り」だったのかもしれない。
そう思うと、不思議と恐怖が和らぎ、フェリオの背中が今までより少しだけ身近に感じられた。
「…フェリオ様って、少し変わった方なのですね」
ポーターがきょとんとした表情を浮かべると、ルッツも肩の力を抜いて頷く。
「はい。困った人ですが根は誰よりも真っ直ぐです。…さあ、今のうちに掃除を済ませてしまいましょう。今日の夜にはカナン様が来られますからね」
ポーターは深く頷く。
初めての修練を迎える不安に押しつぶされそうだった心が、主人の意外な一面を知ったことで少し軽くなる。
彼女の中にこの屋敷の一員として「役目を果たそう」という、ささやかな自覚が芽生え始めていた。