夢のようなアルバイト 作:倉羅
午後の柔らかな陽光が、退屈な日常を白く飛ばしていた。時計の針は、午後3時20分を指している。
俺の名前は猪瀬(いのせ)潤(じゅん)。18歳で大学1年生だ。
スマホの画面が震え、親友である薫からのメッセージが躍り出た。
『なぁ潤! 今日パチ行かね?』
村上薫。
それが、短くも誘惑に満ちた言葉を寄越してきた男の名だ。昔からの付き合いで、腐れ縁と言ってもいい。普段はお気楽なことばかり言っているが、こちらが真剣に悩んでいる時は、茶化さずに真っ正面から向き合ってくれる。俺にとっては、数少ない「本音で話せる」貴重な存在だった。
だが、今日に限ってはそうはいかない。
『わりぃ、今日バイトの面接なんだわ……』
俺がそう返信すると、間髪容れずに驚きを含んだ既読がついた。
『そっか、どこでバイトすんだ?』
薫の問いに、俺は少しだけ得意げな気分になりながら、フリック入力で言葉を紡ぐ。
『聞いて驚くなよ!』
『……? (笑)』
『俺んちの近くのあのデカい屋敷!』
画面越しに薫が目を見開く姿が容易に想像できた。案の定、スマホが「マジかよ!」という短い悲鳴のような通知を吐き出す。
俺は言葉を続けた。きっかけは、ほんの偶然だった。
あの浮世離れした大豪邸の門扉に、一枚の募集の貼り紙があった。何気なくそれを眺めていた俺に、まるで物語の登場人物のようなメイドが声をかけてきたのだ。
「執事、やってみませんか?」
その一言が、今の俺を突き動かしている。
『執事か、まぁ主が可愛い子だと良いな! じゃあ俺今から打ってくるから、じゃあまた明日!』
相変わらずの調子で会話を締めくくった薫に、「あいよーん♪」と軽い返事を送り、俺はスマホをポケットに滑り込ませた。
──可愛い主。
その可能性を想像しただけで、足取りが少し軽くなる。
単なるバイトの面接だというのに、妙に浮ついた期待を胸に抱きながら、俺はあの大邸宅を目指して向かう。
──月島家前。
「キンコーン——」
静寂を切り裂くようなインターホンの音が、立派な門構えの屋敷に響き渡った。
数秒の後、重厚な扉が開くと、凛とした佇まいの女性が姿を現す。その隙のない着こなしから、彼女がこの屋敷のメイド長であることは一目で分かった。
「学校、お疲れ様でした。中へどうぞ」
「あ、はいっ!」
促されるままに足を踏み入れる。潤の緊張を解きほぐすような穏やかな声に導かれ、二人は長い廊下を奥へと進んでいった。
「……それにしても、広いですねぇ」
「そうですね。少々歩きますが、ご容赦ください」
潤は、前を歩く彼女の背中を盗み見る。洗練された所作、整った横顔。
「メイドさんって、やっぱり綺麗だなぁ……」
思わず心の声が漏れると、メイド長は一瞬足を止め、頬を微かに朱に染めた。
「……ありがとうございます」
少し距離が縮まった気がして、潤は気になっていたことを尋ねてみることにした。
「あの、メイドさん」
「……何でしょうか?」
「ご主人様は、どのような方なんですか?」
「この屋敷には、三姉妹のお嬢様方と、現在旅行中のいとこのお嬢様が一人いらっしゃいます」
(四人……お嬢様が、四人も!?)
心の中でガッツポーズを決める潤。期待に胸が膨らむのを抑えきれない。
「なるほど……。あの、執事って私だけなんですか?」
もし自分一人なら、まさに「逆ハーレム」状態ではないか。邪な期待を込めて問いかけたが、返ってきたのは冷静な言葉だった。
「いえ、執事長がいます。」
「……そうですか」
世の中そう甘くはないらしい。がっかりする潤を余所に、彼女はある重厚な扉の前で足を止めた。
「さあ、着きましたよ。このドアを開けた瞬間から、面接は開始されます」
急に心臓の鼓動が速くなる。もし、恐ろしい人たちばかりだったらどうしよう。
潤の不安を察したのか、メイド長が真っ直ぐに彼を見つめた。
「心の準備は、よろしいですか?」
「……はい!」
潤が短く答えると、彼女は静かに扉をノックした。
「どうぞ」
中から聞こえた落ち着いた声。意を決して、潤は一歩踏み出した。
「失礼します!」
その瞬間、応援するかのようにメイド長がパチンとウィンクを送った。
(……このメイドさん、可愛いだけじゃなくて、いい人だ!)
高鳴る鼓動は、もう不安によるものだけではなかった。潤は一礼し、運命の部屋へと足を踏み入れた。