夢のようなアルバイト 作:倉羅
「戻りました」
屋敷の重厚な扉を開けた瞬間、冷ややかな空気が玲唖を包み込んだ。正面で待ち構えていた執事の哲也が、隠しきれない苛立ちを声に乗せる。
「玲唖お嬢様! 一体どちらへおいでになっていたのですか!?」
「……潤くんを送ってきただけです」
玲唖が努めて冷静に答えると、哲也の表情が険しく歪んだ。
「あんな奴、送る必要などございません!」
「あんな奴……?」
聞き慣れない棘のある言葉に玲唖が眉をひそめると、哲也は取り繕うように視線を外した。
「いえ……失礼いたしました」
(哲也さん、一体どうしちゃったんだろう……)
胸の内に小さな違和感を抱えながらも、玲唖は手に持った箱を大切に抱え直し、姉である綾芽の部屋へと足を向けた。
── 綾芽の私室
「良いぞ」
短い許可を得て部屋に入ると、そこには妹の葉瑠もいた。
「あ、葉瑠もいたんだ。ちょうどいいや」
「何だ? その箱は」
机に向かっていた綾芽が、訝しげに視線を向ける。玲唖は弾むような足取りで近づき、机の上にそっと箱を置いた。
「いちごタルトだよ」
「何?」
箱の蓋を開けると、甘く瑞々しい香りがふわりと広がった。
「あ、美味しそう!」
葉瑠が目を輝かせる隣で、玲唖は少し得意げに胸を張る。
「潤くん、すごいでしょ♪」
「ふん……見た目が良くても、味が悪ければ意味がない」
毒づきながらも、綾芽は自分たちでフォークと皿を用意し始めた。
それから十分後。
タルトを一口運んだ玲唖は、ふと思いついたように尋ねた。
「そういえば、綾芽は何ケーキが好きなの?」
「……いちごタルトだ」
その答えに玲唖が微笑もうとした瞬間、再び部屋のノックが響いた。
「良いぞ」
入ってきたのは、沙矢と哲也の二人だった。
「失礼いたします。……そのケーキは一体?」
沙矢の鋭い視線がテーブルの上のタルトを射抜く。
「潤くんから貰ったんです」
玲唖が答えると、哲也の沈黙が部屋の空気をいっそう重くした。
「私も少し、頂いてもよろしいでしょうか?」
「構わん。不味かったら食べないからな」
綾芽の言葉を合図にするように、哲也が静かに、だが冷徹な言葉を継いだ。
「綾芽お嬢様。もし、猪瀬のケーキの味にご不満がありましたら、即刻クビにしましょう。そして、他にケーキを作れる者を公募してみてはいかがでしょうか」
「!?」
玲唖の心臓がどくりと跳ねた。しかし、綾芽は事も無げに頷いてみせる。
「まあ、確かにその方が私の望む味を作れる者が現れやすいな」
「仰る通りです」
淡々と進む「潤を切り捨てる会話」。
バンッ!!
部屋中に激しい音が鳴り響いた。玲唖が勢いよく両手を机に叩きつけたのだ。彼女の瞳には、静かな、しかし確かな怒りの炎が宿っていた。
「今日合格したのにクビにするなんて、あまりに酷いんじゃない!?」
玲唖の叫びが部屋に響き渡った。その剣幕に、妹の葉瑠が「玲姉が怒ってる……」と顔を引きつらせ、姉の綾芽でさえも「ああ、珍しいな……」と冷や汗を浮かべるほどだった。
しかし、玲唖の怒りの矛先はただ一人、執事の哲也に向けられていた。
「哲也さん、そんなに潤くんをクビにさせたいのですか?」
「……どういう意味でしょうか」
哲也はどこか余裕ありげに、薄く笑みを浮かべて問い返す。その表情を見た瞬間、玲唖の中で何かが音を立てて切れた。
「貴方、もう明日から来なくていいから」
「!!?」
突きつけられた言葉に、哲也の顔から余裕が消え失せた。背後で綾芽が「お、おいどうしたんだよ……」と困惑し、葉瑠が「哲也さんがクビ……」と絶句する中、玲唖は冷静に、だが力強く言葉を続けた。
「哲也さん、あなたが潤くんを陥れようとしていたこと、他のメイドさんから聞きましたよ」
「……何のことです?」
「花瓶とドアに細い紐をくくり付けて、ドアを開けたら花瓶が落ちる仕組みを……潤くんが帰る前にこっそり仕掛けていたそうですね」
哲也の顔が、一瞬にして青ざめた。
「すぐにここから出ていってください。そんな卑怯な真似をする人は、もう信用できません」
有無を言わさぬ玲唖の拒絶に、哲也は言葉を失い、そのまま無言で屋敷を去っていった。
静まり返った室内で、綾芽が小さく感心したように声を漏らした。
「へー……哲也が新入りにそんな嫌がらせをしていたのか」
「うん。さっきもケーキが不味ければクビだなんて……潤くんだって必死に頑張っているのに」
玲唖の言葉に、メイドの沙矢も静かに頷いた。
「綾芽お嬢様には申し訳ありませんが、私も玲唖お嬢様と同感です」
「そうか。まあ、まずは食べてみるとしよう」
綾芽が皿を引き寄せた直後、「美味しい……」と葉瑠が勝手に一口食べていた。
「あーっ! 葉瑠、先に食べるな!」
「すぐに分けますので、少々お待ちを」
五分後。
全員が席につき、「いただきます」と声を合わせた。だが、誰も自分の皿には手をつけず、じっと綾芽の反応を伺っている。
綾芽はゆっくりとタルトを口に運び、咀嚼した。
「……まだまだだな」
「そう……」
玲唖が肩を落としたのも束の間、綾芽はまた次の一口を口に放り込む。
「ああ、普通すぎ。……モグモグ」
「普通ってことは、不味くはないのね?」
「……まあな。……パクッ」
綾芽の手は止まらない。
「……ん。……モグモグ」
「普通の割には、あっという間に完食ね!」
「あ……」
皿が空になったことに気づき、綾芽の顔が赤く染まった。その様子を見て、沙矢が驚きを露わにする。
「綾芽お嬢様がケーキを完食なさるなんて……。私も頂きます」
沙矢も一口食べると、驚きのあまり少し息を呑んだ。
「……シェフが作ったものより、美味しいかもしれませんね」
「ま、まあ、玲唖に沙矢。新入りのケーキがもっと上達するように、これからも面倒を見てやるがいい」
照れ隠しのように言い放った綾芽の言葉は、確かな「許可」だった。
「かしこまりました、綾芽お嬢様」
「任せなさい!」
こうして玲唖の勇気ある行動により、潤の居場所は守られたのだった。