夢のようなアルバイト 作:倉羅
PM11:37……。
月島家であのような嵐が吹き荒れていたとは露知らず、俺は布団の中で漫画を読み耽っていた。静かな部屋に、スマートフォンのバイブ音が響く。
ヴーッ、ヴーッ!
画面を確認すると、そこには思いがけない名前が表示されていた。
「玲唖お嬢様からだ……っ!」
慌てて通話ボタンを押し、耳に当てる。
「もしもし……」
「あっ、寝てたかな? ごめんね」
受話器越しに聞こえる玲唖お嬢様の少し申し訳なさそうな声に、思わず頬が緩む。
「いえ、起きてましたよ」
「良かった。……あのね、いちごタルト食べたよ」
その言葉に、背筋がピンと伸びた。
「……いかが、でしたか?」
「綾芽が完食するくらい、美味しかったよ!」
(綾芽お嬢様が完食するくらい……って、一体どれくらいのレベルなんだろう)
少し圧倒されながらも、心からの「美味しかった」という言葉に、俺は安堵の溜息を漏らした。
「実はね、ケーキを食べる時、潤くんのケーキが不味ければクビにするって話になったの」
「えぇぇぇ!!?」
驚きのあまり、布団から飛び起きそうになる。危なすぎる。知らないうちに俺は崖っぷちに立たされていたのか。
「……だ、ダメでしたか?」
不安に駆られる俺をなだめるように、玲唖お嬢様の声が弾んだ。
「ううん! 綾芽が、私と沙矢さんで潤くんの面倒を見てやれって♪」
その言葉を聞いた瞬間、脳内に幸福な想像が広がった。あの美しすぎるお嬢様たちに面倒を見てもらえるなんて、そんな贅沢が許されるのだろうか。
「お嬢様方に迷惑をかけないよう、精一杯頑張ります!」
「ふふ、期待してるね」
「はい!!」
会話が途切れるかと思ったが、玲唖お嬢様は少し声を落として、秘密を打ち明けるように続けた。
「……今日、潤くんが助けに来てくれた時、すごく安心しちゃったんだ」
「そ、そうなんですか……?」
「私、あのおじさんに食べられるのは嫌だけど。潤くんなら……ちょっと、考えちゃうかも……///」
心臓が跳ねた。受話器を握る手がわずかに震える。
(お、お嬢様と、俺が……っ!?)
「だ、ダメですよ! そんな……私が、お嬢様と……っ」
「……そう」
玲唖お嬢様の少し寂しげな声に、俺は慌てて言葉を継ぎ足した。
「あ、いや! 別にしたくないわけじゃなくて! その、あの……っ」
すると、電話の向こうからくすくすと楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「ふふ、冗談よ。潤くん、いじりがいがあって可愛い」
「う……」
またしても手の平で転がされてしまった。
「よしよし。潤くんに報告もできたし、もう寝るわね」
「あ、はい! お電話、ありがとうございました!」
「いえいえ。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい!」
通話を終えて、スマートフォンの明かりが消える。暗闇の中で、俺は高鳴る鼓動を鎮めるように目を閉じた。色鮮やかな余韻に包まれながら、深い眠りへと落ちていった。
只今AM8:56……。
「んっ……ふぁ~あ……」
重い瞼をこすりながら、枕元で鳴ったスマートフォンの画面を確認する。
今日の大学は1時からだ。それまで十分な時間がある。
(二度寝しよう)
抗いようのない眠気に身を任せ、俺は再び布団に潜り込んだ。
……
…………zzZ
只今AM10:03……。
「あちぃ……」
じわじわと滲む汗に耐えかねて、勢いよく跳ね起きた。
エアコンが壊れている俺の部屋は、午前中だというのにすでに蒸し風呂状態だ。
(くそー、扇風機で我慢するしかないか……)
ぬるい風を浴びながら、俺は独りごちた。
その時、スマートフォンが小刻みに震えた。
「あ、玲唖お嬢様からメールだ!」
画面を覗き込むと、そこには丁寧な文面が並んでいた。
潤くんおはよう!今学校かなぁ?
もし今お暇であれば綾芽と葉瑠に挨拶しませんか?お忙しければ後ででも全然構いませんので
(ほうほう……)
家にいても暑さで干からびるだけだ。
「行こうっと!」
お嬢様に返信を送り、手早く支度を済ませて月島家へと向かった。
月島家の邸宅が見えてくると、門の奥の方から誰かが手を振っているのが見えた。
(あれ。うん、玲唖お嬢様だ///)
俺はダッシュでお嬢様のもとへ駆け寄る。
「おはよう、潤くん♪」
「おはようございます! 待っていてくださったのは嬉しいですが、お屋敷にいなきゃダメじゃないですか。万が一、玲唖お嬢様の身に何かがあったら……」
「家の前なら別に良いじゃない」
「ははっ、ありがとうございました」
「ふふっ、じゃあ入ろうか」
「はいっ!」
玲唖お嬢様に迎えられ、俺たちは並んで屋敷の中へと入っていった。
屋敷の中は、外の暑さが嘘のように涼しい。綾芽お嬢様の部屋へと向かう廊下で、俺たちは言葉を交わす。
「今日も暑いですねぇ」
「そうねぇ、学校にいる時はちゃんと水分取ってね?」
「心配してくださってありがとうございます」
「ふふ、ここが綾芽の部屋よ」
「ここがですかー」
「じゃあ、私はちょっと用事があるから先に入っててね」
「かしこまりましたー!」
玲唖お嬢様がその場を離れるのを見送り、俺は扉に向き直った。
(よーし!!)
コンコン、と控えめにノックする。
「誰だ?」
「おはようございます! 猪瀬です!」
「私は今忙しいんだ」
「そうですか、失礼しました!」
返ってきたのは、にべもない一言だった。
(うーん……、どうしよう。玲唖お嬢様はどっか行っちゃったし)
うかつに動いて迷子になるのもまずい。廊下の隅に目をやると、一本のホウキが立てかけられていた。
「ホウキみっけ」
(暇だし、玲唖お嬢様が来るまで適当に掃いとくか)
俺はホウキを手に取り、誰もいない廊下を静かに掃除し始めた。