夢のようなアルバイト 作:倉羅
サッ……サッ……。
静かな廊下に、俺の操るホウキの音だけが響く。そんな時だった。
ガチャ!
目の前の重厚な扉が開いた。
「……あ、綾芽お嬢様」
「暇そうだな」
扉の向こうに姿を現した綾芽お嬢様は、冷ややかな、けれどどこかこちらを観察するような視線を向けてくる。
「え、まあ……本当は、綾芽お嬢様に挨拶をしに来たのですが」
「……よし、特別に私の部屋に入ることを許してやる」
「え? あっ、はい!!」
思わぬ許可に、俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「『え?』って何だ」
「申し訳ございません。綾芽お嬢様が私の相手をしてくださったのが、あまりに嬉しく思いまして……」
「ふん、調子に乗るなよ。わざわざ来てくれたから入れてやるだけだ」
「お優しいんですね」
「別に。……早く入れ」
「失礼いたします」
俺は緊張で少し指先を震わせながら、大変貴重な綾芽お嬢様の私室へと足を踏み入れた。
(ひ、広い……)
一歩入っただけで、その空間の贅沢さに圧倒される。俺の住んでいるアパートの全フロアを合わせても、この部屋の広さには及ばないかもしれない。
それと……。
(……ヤバい。お嬢様の部屋、めちゃくちゃいい匂いがする……///)
甘く、それでいて気品のある香りが鼻先をくすぐり、俺の心拍数はさらに跳ね上がった。
「窓ガラスを拭くだけでいいぞ」
「かしこまりました」
俺が手早く窓掃除の準備を始めると、綾芽お嬢様はベッドにぽふっと腰を下ろした。
(しかし、こんなに可愛い人は初めて見たな……)
黒のニーソックスにミニスカート、長袖のシャツという抜群の組み合わせ。おまけにその整った可愛らしい顔立ちは、性別を問わず誰もが見惚れてしまうだろう。
「……? 何だ」
「あ、いえ!///」
不躾な視線に気付かれ、俺は慌てて手元の雑巾を動かす。
「ハッキリしない奴だな。この私に隠し事をするつもりか?」
「いえ!///……綾芽お嬢様の服装が、凄く似合っていて可愛いなと思いまして……///」
「そ、そうか……」
お嬢様は少しだけ顔を背け、ぶっきらぼうに答えた。
「そういえば、綾芽お嬢様はどこの高校に通学されているのですか?」
「私は今、大学だぞ。高校などもう卒業した」
「えっ……えぇぇえ!!?」
(意外すぎる……。待てよ、俺は今1年だから、タメか年上か……!?)
「何か誤解していそうだから言っておくが、私は十六歳だからな」
ポトッ!
「あっ! すみません!」
驚愕のあまり、手に持っていた雑巾を床に落としてしまった。
「動揺しすぎだろ……」
「すみません……。飛び級、というやつ……ですか?」
「そうだ。大学は桂要大学に通っている」
「桂要大学……」
(めちゃくちゃ頭の良い所じゃないか……)
そこは、合格率が極めて低いだけでなく、入学後も超ハードな勉強に付いていけず脱落する者が後を絶たないという、噂の超名門大学だ。
(さすが飛び級っ娘……。恐ろしいな)
「勉強とか、付いていけるのですか?」
「今は何とかな。玲唖も私と同じ大学だったぞ。もう卒業したがな」
(ここの姉妹、半端ないな……。というか、あの桂大を卒業した玲唖お嬢様が凄すぎる。……となると、葉瑠お嬢様も確実に頭が良いんだろうな)
「そうだ」
「はい?」
「私が大学に行かない時間帯にお前が自分の大学に通うのは構わないが、私が大学に行く時は私の側にいて警護に着け。いいな?」
「良いのですが……私が校内に入っても大丈夫なのですか?」
「ダメに決まっているだろ。外で待っているんだよ」
「わかりました!」
「……ところで、お前は今日、大学へ行かないのか?」
「今日は1時……あっ……」
時計に目をやると、針は非情な位置を示していた。
只今PM0:42……。
「もう時間だな」
「すみません! 行ってきてもよろしいでしょうか!?(汗)」
「ああ、行ってこい。邪魔なだけだしな」
「ありがとうございます!!」
俺はホウキと雑巾を片付け、挨拶もそこそこに、全力疾走で大学へと向かった。
「はぁ……はぁ……っ」
授業開始まで残り2分。俺は肺を焼くような熱い息を吐きながら、なんとか教室に滑り込んだ。
「お、偶然だな!」
「おぉー! 薫か。隣の席、空いてるか?」
「空いてるよー」
「あいっす。助かる」
俺が席に着くと同時に、開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
「よし、授業始めんぞー」
教授の気だるげな声が、広い講義室に響く。
授業開始から10分後。
「あ、この前のパチンコ、どうだったんだ?」
俺はノートを取るふりをして、隣の薫に小声で尋ねた。
「3万やられた……」
「ははは……。ドンマイ」
(やっぱりあそこの店、最近絞ってるよなぁ……)
そんなことを考えていると、ポケットの中でスマートフォンが激しく震えた。
「電話か?」
「誰だよ……。しかも知らない番号だし。今授業中だっての」
教授の視線を避けるように教科書を立て、俺は顔を隠しながら、通話ボタンを押し下げた。
ピッ……。
「……誰」
「言葉に気を付けろ、新入り」
背筋に冷たい水が走った。この凛とした、けれど有無を言わせぬ威圧感のある声は――。
(えっ!?!? あ、綾芽お嬢様……!?)
「申し訳ございません! 知らない番号だったので、つい……」
俺は必死に声を潜めながら謝罪する。
「ふん、まあ今回は許してやる。次からはクビにするからな」
「はい、ありがとうございます……」
(危ねぇ……。いきなりクビを宣告されるところだった……)
隣では、薫が「誰と電話してんだ?」という顔でこちらを窺っている。
「ところで……なぜ、私の番号を?」
「玲唖から教えてもらった」
(玲唖お嬢様からか……。わざわざ番号を共有してくれたんだな)
なんだか認められたような気がして、少しだけ心が浮き立った。
「あ、もしよろしければ……綾芽お嬢様もメッセージアプリのアカウントを教えていただけませんか?」
「断る。連絡を取るなら通話すればいいじゃないか。教えるにしても、なぜお前なんかに教えなければならないんだ」
「……申し訳ございません」
(ですよねぇ。そんなに甘くはないか……)
「なぁ、さっきから先生がお前をチラチラ見てるぞ」
薫の小さな警告に、俺は頷いて慌てて姿勢を正した。
「今日の帰り、ケーキの材料を買ってこい。帰ったらすぐに作ってもらうからな」
「お気に召してくれて嬉しいです。お任せください!」
「勘違いするなよ。ただ甘い物が食べたくなっただけだ」
(ツンデレなところも、またお嬢様らしいな……)
俺は教授の視線を気にしつつも、心の中で今晩のケーキのレシピを組み立て始めていた。