夢のようなアルバイト 作:倉羅
「ふふ、そうですか!」
思わず声を弾ませた直後、教壇から鋭い視線が飛んできた。
「はい、猪瀬。そこ、日本語に訳せ」
「うげ……」
(やばい、完全に目を付けられた……)
「ちなみに答えられなかったら、後でたっぷり補習な」
「な、なんでですか!?(涙)」
「授業中に電話してたら、授業に参加してないことになるだろう。当然の処置だ」
「うぅ……」
教科書に目を落とすが、並んでいるアルファベットがただの記号にしか見えない。
『As time goes by』ってなんだよ……。英語、本当に苦手なんだよな。
「どうした?」
通話口から、綾芽お嬢様の不審げな声が聞こえてくる。
「ちょっと考えさせてください!!」
「補習がかかってるしな、いいだろう。待ってやる」
先生の言葉に、俺は必死に耳元のスマートフォンへ囁きかけた。
「すみません、今先生に指されまして……」
「問題を解けと?」
「はい。それが解けなければ補習確定という、厄介なことになってしまいまして……」
「何? 遅くなるのは許さないぞ。さっさと解け」
「それがぁ~……、私、英語はからっきしなんです~……」
「誰かに聞け」
「なぁ薫、わかるかぁ?」
「わからん……すまん……」
(終わった……。これはもう補習確定か……)
「補習になっちゃうかもしれません……(涙)」
「あーもう、問題は何だ? 書くのか? 読むのか?」
「いえ、ある英文を日本語に訳せと……」
「そんなことか。文を教えろ」
お嬢様の迷いのない言葉に、藁にも縋る思いでその一文を読み上げた。
「『As time goes by』です」
「『時間が経つにつれて』だ、そんなのも解けねーの?」
(すげぇ……。即答かよ。綾芽お嬢様、本当に頭良いんだなぁ……)
「ありがとうございます!(涙)」
「ったく、貸しにしておくからな。じゃあ切るぞ」
「はいっ!」
プーップーッ……。
お嬢様との通話が切れると同時に、俺は勢いよく顔を上げた。
「わかりました!」
「はい、答えてみろ」
「『時間が経つにつれて』です!」
「……猪瀬、さては通話相手に聞いたな?」
「違います、自力ですよ!!(汗)」
「……そうか、英語が苦手なお前なら絶対無理だと思ったんだがな。正解だ。次からは真面目に取り組めよ」
「よしっ!」
俺は心の中で小さくガッツポーズを作った。
あんなに素っ気ない態度をとっていても、結局は助けてくれる。綾芽お嬢様の意外な優しさに、胸の奥が少しだけ温かくなった。
(綾芽お嬢様、本当にありがとうございました!!)
感謝の気持ちを込めて、帰ったら絶対に最高に美味しいケーキを作ろう。
俺はノートの端に、今夜必要な材料のメモを力強く書き込んだ。
午後四時十二分。
「着いたぁー!」
潤は両手に提げた買い物袋の重みに耐えながら、ようやく屋敷の玄関へと辿り着いた。帰路、不運にも見知らぬ男に絡まれてしまい、予定よりも少し到着が遅れてしまったのだ。
インターホンを押し、重厚な扉が開くと、そこにはいつもと変わらず凛とした佇まいの沙矢が待っていた。
「お疲れ様でした。」
「ありがとうございます、沙矢さん」
安堵の溜息をつく潤に、沙矢が思い出したように言葉を添える。
「あ、そういえば……葉瑠お嬢様がお会いしたいと仰っていましたよ」
「本当ですか? ちょうど自分もご挨拶に伺おうと思っていたところなんです。今すぐ行ってきますね」
「わかりました。では、そちらの食材は私が冷蔵庫に入れておきますね」
「あ、いえ! 冷蔵庫にしまってから伺いますので、大丈夫です!」
潤の気遣いに、沙矢は小さく微笑んだ。
「そうですか? じゃあ、私は少し汗をかいてしまったので、先に体を流してきます」
「わかりました!」
(……綺麗な女性から『体を流す』なんて言葉を聞くと、どうしても良からぬ想像をしてしまう。自分、相当な変態だな。神様、許してください)
煩悩を振り払うように頭を振り、潤は手早く食材を冷蔵庫に収めた。
五分後。
「よし、これで完了」
潤は迷路のような廊下を抜け、葉瑠の部屋へと向かう。多少迷いはしたものの、ようやく目的の扉を見つけた。
「みっけた!」
控えめにドアを叩くと、中から弾むような、明るい声が返ってきた。
「いいよー!」
「失礼します!」
扉を開けた潤は、思わず目を丸くした。昨日の印象とはまるで違う、天真爛漫な空気を纏った少女がそこにいたからだ。
(あれ……? 葉瑠お嬢様、昨日とは全然違うような……)
「昨日はね、ちょっとお腹が痛くてあんまりお話しできなかったんだー」
「あぁ、なるほど! そういうことだったんですね」
「本当はもっと元気なんだよー?」
悪戯っぽく笑う彼女に、潤も自然と表情を緩める。
「そうですね。元気な葉瑠お嬢様を見ることができて安心しました」
「そ、そうかな……? ///」
少し照れたように視線を泳がせる仕草が、なんとも可愛らしい。
「ねえ、お名前なんて呼べばいいかなー?」
「葉瑠お嬢様のお好きなように呼んでください」
「じゃあ~……せっちゃん!」
予想外の呼び名に、潤は一瞬きょとんとした。
「せっちゃん……ですか? 畏まりましたが、一体なぜ?」
「猪瀬(いのせ)の『せ』を取ったんだよ~!」
「ははっ、納得いたしました」
「せっちゃんはこれから何するのー?」
「私はこれから、皆さんのためにケーキ作りをしようと思います」
その言葉に、葉瑠の瞳がパッと輝く。
「せっちゃんの作ったケーキ、昨日もすっごく美味しかったよ! お腹痛かったのに、結構食べちゃったもん!」
「それは光栄ですが……お腹を壊しているのに無理をしては、余計に悪化してしまいますよ。ほどほどにしてくださいね」
「大丈夫だよ~」
そんな和やかなやり取りをしていた、その時だった。
バタン!!
乱暴に扉が開く音が室内に響き渡る。
「あ、綾芽お嬢様……」
「おい!!」
地鳴りのような怒声に、潤の肩がびくりと跳ねた。
「せっかくお前を待っていたというのに……。調子に乗るなよ、新入り!!!」
「も、申し訳ございません!」
逃げ場のない怒気に身を縮める潤だったが、そこに救いの手が差し伸べられる。
「待って、綾姉!」
「……あ?」
「せっちゃんは悪くないよ。あたしがせっちゃんを呼び止めたの。だから許してあげて?」
葉瑠が真っ直ぐに姉を見つめ、潤を庇うように言った。
「そ、そうか……。(せっちゃん……? こいつのあだ名か?)」
毒気を抜かれたように立ち尽くす綾芽に、潤は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、葉瑠お嬢様。お気を使わせてしまって……」
「いいよ、だって本当のことだもん!」
妹の強い言葉に、綾芽はふいっと顔を背けた。
「……まぁいい。新入り、さっさとケーキを作れ」
「畏まりました。では葉瑠お嬢様、失礼いたします」
「うんっ、頑張ってね!」
(綾芽お嬢様、葉瑠お嬢様には本当に優しいんだな……)
姉妹の絆の深さを垣間見た気がして、潤は少しだけ温かい気持ちになりながら、戦場となるキッチンへと足を向けた。