※この作品はR-18です。

夢のようなアルバイト   作:倉羅

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夕暮れのキッチンと、甘いあだ名

 

 

「ふふ、そうですか!」

 

 

思わず声を弾ませた直後、教壇から鋭い視線が飛んできた。

 

 

「はい、猪瀬。そこ、日本語に訳せ」

 

「うげ……」

 

(やばい、完全に目を付けられた……)

 

「ちなみに答えられなかったら、後でたっぷり補習な」

 

「な、なんでですか!?(涙)」

 

「授業中に電話してたら、授業に参加してないことになるだろう。当然の処置だ」

 

「うぅ……」

 

 

教科書に目を落とすが、並んでいるアルファベットがただの記号にしか見えない。

 

 

『As time goes by』ってなんだよ……。英語、本当に苦手なんだよな。

 

 

「どうした?」

 

 

通話口から、綾芽お嬢様の不審げな声が聞こえてくる。

 

 

「ちょっと考えさせてください!!」

 

「補習がかかってるしな、いいだろう。待ってやる」

 

 

先生の言葉に、俺は必死に耳元のスマートフォンへ囁きかけた。

 

 

「すみません、今先生に指されまして……」

 

「問題を解けと?」

 

「はい。それが解けなければ補習確定という、厄介なことになってしまいまして……」

 

「何? 遅くなるのは許さないぞ。さっさと解け」

 

「それがぁ~……、私、英語はからっきしなんです~……」

 

「誰かに聞け」

 

「なぁ薫、わかるかぁ?」

 

「わからん……すまん……」

 

(終わった……。これはもう補習確定か……)

 

「補習になっちゃうかもしれません……(涙)」

 

「あーもう、問題は何だ? 書くのか? 読むのか?」

 

「いえ、ある英文を日本語に訳せと……」

 

「そんなことか。文を教えろ」

 

 

お嬢様の迷いのない言葉に、藁にも縋る思いでその一文を読み上げた。

 

「『As time goes by』です」

 

「『時間が経つにつれて』だ、そんなのも解けねーの?」

 

(すげぇ……。即答かよ。綾芽お嬢様、本当に頭良いんだなぁ……)

 

「ありがとうございます!(涙)」

 

「ったく、貸しにしておくからな。じゃあ切るぞ」

 

「はいっ!」

 

 

プーップーッ……。

 

 

お嬢様との通話が切れると同時に、俺は勢いよく顔を上げた。

 

 

「わかりました!」

 

「はい、答えてみろ」

 

「『時間が経つにつれて』です!」

 

「……猪瀬、さては通話相手に聞いたな?」

 

「違います、自力ですよ!!(汗)」

 

「……そうか、英語が苦手なお前なら絶対無理だと思ったんだがな。正解だ。次からは真面目に取り組めよ」

 

「よしっ!」

 

 

俺は心の中で小さくガッツポーズを作った。

あんなに素っ気ない態度をとっていても、結局は助けてくれる。綾芽お嬢様の意外な優しさに、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 

 

(綾芽お嬢様、本当にありがとうございました!!)

 

 

感謝の気持ちを込めて、帰ったら絶対に最高に美味しいケーキを作ろう。

俺はノートの端に、今夜必要な材料のメモを力強く書き込んだ。

 

午後四時十二分。

 

 

「着いたぁー!」

 

 

潤は両手に提げた買い物袋の重みに耐えながら、ようやく屋敷の玄関へと辿り着いた。帰路、不運にも見知らぬ男に絡まれてしまい、予定よりも少し到着が遅れてしまったのだ。

インターホンを押し、重厚な扉が開くと、そこにはいつもと変わらず凛とした佇まいの沙矢が待っていた。

 

 

「お疲れ様でした。」

 

「ありがとうございます、沙矢さん」

 

 

安堵の溜息をつく潤に、沙矢が思い出したように言葉を添える。

 

 

「あ、そういえば……葉瑠お嬢様がお会いしたいと仰っていましたよ」

 

「本当ですか? ちょうど自分もご挨拶に伺おうと思っていたところなんです。今すぐ行ってきますね」

 

「わかりました。では、そちらの食材は私が冷蔵庫に入れておきますね」

 

「あ、いえ! 冷蔵庫にしまってから伺いますので、大丈夫です!」

 

 

潤の気遣いに、沙矢は小さく微笑んだ。

 

 

「そうですか? じゃあ、私は少し汗をかいてしまったので、先に体を流してきます」

 

「わかりました!」

 

(……綺麗な女性から『体を流す』なんて言葉を聞くと、どうしても良からぬ想像をしてしまう。自分、相当な変態だな。神様、許してください)

 

 

煩悩を振り払うように頭を振り、潤は手早く食材を冷蔵庫に収めた。

 

 

五分後。

 

 

「よし、これで完了」

 

 

潤は迷路のような廊下を抜け、葉瑠の部屋へと向かう。多少迷いはしたものの、ようやく目的の扉を見つけた。

 

 

「みっけた!」

 

 

控えめにドアを叩くと、中から弾むような、明るい声が返ってきた。

 

 

「いいよー!」

 

「失礼します!」

 

 

扉を開けた潤は、思わず目を丸くした。昨日の印象とはまるで違う、天真爛漫な空気を纏った少女がそこにいたからだ。

 

 

(あれ……? 葉瑠お嬢様、昨日とは全然違うような……)

 

「昨日はね、ちょっとお腹が痛くてあんまりお話しできなかったんだー」

 

「あぁ、なるほど! そういうことだったんですね」

 

「本当はもっと元気なんだよー?」

 

 

悪戯っぽく笑う彼女に、潤も自然と表情を緩める。

 

 

「そうですね。元気な葉瑠お嬢様を見ることができて安心しました」

 

「そ、そうかな……? ///」

 

 

少し照れたように視線を泳がせる仕草が、なんとも可愛らしい。

 

 

「ねえ、お名前なんて呼べばいいかなー?」

 

「葉瑠お嬢様のお好きなように呼んでください」

 

「じゃあ~……せっちゃん!」

 

 

予想外の呼び名に、潤は一瞬きょとんとした。

 

 

「せっちゃん……ですか? 畏まりましたが、一体なぜ?」

 

「猪瀬(いのせ)の『せ』を取ったんだよ~!」

 

「ははっ、納得いたしました」

 

「せっちゃんはこれから何するのー?」

 

「私はこれから、皆さんのためにケーキ作りをしようと思います」

 

 

その言葉に、葉瑠の瞳がパッと輝く。

 

 

「せっちゃんの作ったケーキ、昨日もすっごく美味しかったよ! お腹痛かったのに、結構食べちゃったもん!」

 

「それは光栄ですが……お腹を壊しているのに無理をしては、余計に悪化してしまいますよ。ほどほどにしてくださいね」

 

「大丈夫だよ~」

 

 

そんな和やかなやり取りをしていた、その時だった。

 

 

バタン!!

 

 

乱暴に扉が開く音が室内に響き渡る。

 

 

「あ、綾芽お嬢様……」

 

「おい!!」

 

 

地鳴りのような怒声に、潤の肩がびくりと跳ねた。

 

 

「せっかくお前を待っていたというのに……。調子に乗るなよ、新入り!!!」

 

「も、申し訳ございません!」

 

 

逃げ場のない怒気に身を縮める潤だったが、そこに救いの手が差し伸べられる。

 

 

「待って、綾姉!」

 

「……あ?」

 

「せっちゃんは悪くないよ。あたしがせっちゃんを呼び止めたの。だから許してあげて?」

 

 

葉瑠が真っ直ぐに姉を見つめ、潤を庇うように言った。

 

 

「そ、そうか……。(せっちゃん……? こいつのあだ名か?)」

 

 

毒気を抜かれたように立ち尽くす綾芽に、潤は申し訳なさそうに頭を下げた。

 

 

「すみません、葉瑠お嬢様。お気を使わせてしまって……」

 

「いいよ、だって本当のことだもん!」

 

 

妹の強い言葉に、綾芽はふいっと顔を背けた。

 

 

「……まぁいい。新入り、さっさとケーキを作れ」

 

「畏まりました。では葉瑠お嬢様、失礼いたします」

 

「うんっ、頑張ってね!」

 

 

(綾芽お嬢様、葉瑠お嬢様には本当に優しいんだな……)

 

 

姉妹の絆の深さを垣間見た気がして、潤は少しだけ温かい気持ちになりながら、戦場となるキッチンへと足を向けた。

 

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