※この作品はR-18です。

夢のようなアルバイト   作:倉羅

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等しき紅い線

 

 

午後五時九分。

 

 

ケーキを作り始めてから、およそ十分が経過した頃だった。

潤は鼻歌をまじえながら、軽快に作業を進めていた。

ガチャ……。

背後でドアが開く音がした。

お、誰か入ってきたな、と潤は思う。しかし、今はデリケートな作業の真っ最中であり、どうしても目を離すことができない。

誰が入ってきたのだろうか。そんな疑問に答えるように、視界の端からヒョコッと沙矢が顔を覗かせてきた。

 

 

「何かお手伝いすることはありますか?」

 

「大丈夫ですよー。沙矢さんはゆっくり休んで……っ」

 

 

振り向きざま、潤の鼻腔をくすぐったのは、瑞々しいシャンプーの香りだった。不意に立ち上ったその匂いに、潤の心臓が大きく跳ねる。

 

 

「……? どうしました?」

 

「あっ! いえ、なんでもないですっ! ///」

 

「教えてくれないのですか」

 

「そんなに気になります? ///」

 

 

誤魔化そうとする潤だったが、沙矢の涼しげな瞳はすべてを見透かしているようだった。

 

 

「別になりませんけど。ただ、顔が赤くなっていたので……また何か、変なことを考えていたのではないかと思いまして」

 

「ギクッ!」

 

「……やはり、そうなのですね?」

 

 

図星を突かれ、潤は観念した。

 

 

「……ちょっと、沙矢さんの髪の匂いに反応してしまいました……///」

 

「ッ!? ///」

 

 

サッ、と音が出るような速さで沙矢が距離を取る。

また引かれたか、と潤が冷や汗を流しながら謝ると、沙矢は俯きながら消え入るような声を出した。

 

 

「……せ……たですか……?」

 

「へ?」

 

「汗……臭かったですか……?」

 

「いやいや! むしろ良い匂い……あっ ///」

 

 

思わず口を滑らせた潤に、沙矢の顔も赤く染まっていく。

 

 

「そうですか……/// 実はまだ、シャワーは浴びていないんです。さっきまで汗をいっぱいかいたので……」

 

「あ、まだだったんですか」

 

「はい……。さっき浴室へ行ったのですが、見てしまったんです……」

 

 

沙矢のトーンが急に落ち、怯えるような震えが混じった。

 

 

「な、何をですか?」

 

「浴室に……ゴ……」

 

 

その正体を沙矢が口にしようとした瞬間、邸宅の奥から空気を切り裂くような絶叫が響き渡った。

 

 

「わぁぁぁぁあ!!!!」

 

「綾芽お嬢様!!」

 

「まさか! 猪瀬君、行ってはなりま……」

 

 

制止する沙矢の声を背に、潤はキッチンを飛び出した。

声を頼りに辿り着いた扉を、勢いよく開ける。

 

 

「ここか!!!」

 

 

バタン!!!

 

 

「ッッ!!?」

 

「あぁっ!! ……し、失礼しました!!」

 

 

慌てて扉を閉めたものの、潤の心臓は激しく警鐘を鳴らしていた。

やべぇ、ここ脱衣所かよ、と潤は内心焦る。

一瞬だけ視界に入ってしまった、綾芽の無防備な姿。

そして、彼女の白い腹部に刻まれていた、あの大きな切り傷のような痕。

再び扉が開く音がした。服を整え、脱衣所から出てきた綾芽の瞳には、先ほどの悲鳴の主とは思えないほどの冷徹な光が宿っている。

 

 

「お前……見たか……?」

 

「お腹に付いてた傷痕ですよね……? 一体、何があったのですか?」

 

「そうか。見たんだな」

 

 

綾芽の声音から一切の感情が消えた。その右手には、鈍く光る剃刀が握られている。

 

 

「潤くん、逃げて!!」

 

 

背後から響いたのは、玲姉こと玲お嬢様の切実な叫び声だった。

目の前の光景が現実のものとは思えず、潤はただ、凍りついたように立ち尽くすことしかできなかった。

 

 

「綾芽!落ち着きなさい!!」

 

 

玲唖の鋭い制止も、今の彼女には届かない。

 

 

「……す……ろす……殺す!!!邪魔!!!」

 

 

喉の奥から絞り出すような絶叫と共に、綾芽は玲唖を乱暴に突き飛ばした。

 

 

「きゃっ!!」

 

「玲唖お嬢様!!」

 

 

潤が叫ぶのと同時に、綾芽が手に持った剃刀を閃かせ、彼に向かって斬りかかってきた。こうなったのは、自分に責任がある。潤は恐怖を押し殺し、振り下ろされる刃の軌道を凝視した。

タイミングを計り、最小限の動きで避ける。

 

 

「ッ!?」

 

 

剃刀を手ではたき落とすと、潤はそのまま綾芽の背後からその細い身体を抱きしめた。

 

 

「殺す!!!」

 

 

腕の中で狂ったように暴れる彼女を、潤は必死に抑え込む。

 

 

「落ち着いてください!何でそんなことを言うんですか!!」

 

「お前は、私が死んでも見られたくないものを見たんだ!この汚らわしい傷痕を!!!」

 

 

叫びの正体は、絶望だった。

 

 

「どこが汚らわしいんですか!理由はどうあれ、私は一切そんな風に思いません!!」

 

「うるさい!そう思っているのはお前だけだ!!」

 

 

その言葉に、潤の胸の中に無性に熱い苛立ちが込み上げた。彼は床に落ちた剃刀を迷わず拾い上げる。

 

 

「な、何を……」

 

 

怯える綾芽を冷徹な目で見つめ、潤は低く言い放った。

 

 

「綾芽お嬢様が、それほどまでに自分を汚らわしいと言うのでしたら……」

 

 

躊躇いはなかった。潤は剃刀を自らの頬へ向け、一気に引き下ろした。

 

 

「!!!」

 

「ッッ……!!?」

 

 

静まり返った部屋に、生々しい音が響く。頬の傷口から溢れた鮮血が顎を伝い、床へとポタポタと滴り落ちた。

 

 

「これで私も、綾芽お嬢様と同じですね」

 

 

潤の静かな言葉に、綾芽は戦慄した。

 

 

「お前……何やって……」

 

「嘘……」

 

 

玲唖の震える声に背を向けるようにして、綾芽は「部屋に戻る」とだけ言い残し、逃げるようにその場を去っていった。

 

 

「潤くん!」

 

「あっ……」

 

 

玲唖が慌てて駆け寄り、自らのハンカチを潤の頬に当てた。至近距離での介抱に気恥ずかしさを覚えつつも、次第に鋭い痛みが潤を襲う。

 

 

「綾芽のために自分まで傷付けて……本当にごめんね」

 

「玲唖お嬢様は何も悪くないですよ。それより、ハンカチが汚れてしまいます」

 

「そんなのどうでもいいよ。手当てするから、付いてきて」

 

 

潤は彼女の指示に従い、玲唖の部屋へと足を運んだ。

一方、自室に戻った綾芽は、暗闇の中で立ち尽くしていた。

見られた。よりによって、異性である彼に。

自らの肌に刻まれた大きな傷痕をなぞる。こんな跡がある女など、誰もが忌避するに決まっている。

 

 

コンコン、と扉を叩く音がした。

 

 

「誰だ」

 

「綾姉ー?」

 

「葉瑠か。いいぞ」

 

 

入ってきた葉瑠は、明かりも点けずに佇む姉の異変にすぐ気づいた。

 

 

「どうしたのー? ……泣いてるの?」

 

「……大丈夫だ」

 

 

溢れ出す涙を止めることはできなかった。

その頃、玲唖の部屋では。

 

 

「傷、思ったより深いなぁ。出血が止まらないよ」

 

「本当ですか」

 

「多分そろそろ止まると思うけど……この傷、絶対に残るね」

 

 

玲唖の心配そうな視線に対し、潤は迷いのない声で返した。

 

 

「気にしてないので大丈夫です。綾芽お嬢様も、同じですし」

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