夢のようなアルバイト 作:倉羅
午後五時九分。
ケーキを作り始めてから、およそ十分が経過した頃だった。
潤は鼻歌をまじえながら、軽快に作業を進めていた。
ガチャ……。
背後でドアが開く音がした。
お、誰か入ってきたな、と潤は思う。しかし、今はデリケートな作業の真っ最中であり、どうしても目を離すことができない。
誰が入ってきたのだろうか。そんな疑問に答えるように、視界の端からヒョコッと沙矢が顔を覗かせてきた。
「何かお手伝いすることはありますか?」
「大丈夫ですよー。沙矢さんはゆっくり休んで……っ」
振り向きざま、潤の鼻腔をくすぐったのは、瑞々しいシャンプーの香りだった。不意に立ち上ったその匂いに、潤の心臓が大きく跳ねる。
「……? どうしました?」
「あっ! いえ、なんでもないですっ! ///」
「教えてくれないのですか」
「そんなに気になります? ///」
誤魔化そうとする潤だったが、沙矢の涼しげな瞳はすべてを見透かしているようだった。
「別になりませんけど。ただ、顔が赤くなっていたので……また何か、変なことを考えていたのではないかと思いまして」
「ギクッ!」
「……やはり、そうなのですね?」
図星を突かれ、潤は観念した。
「……ちょっと、沙矢さんの髪の匂いに反応してしまいました……///」
「ッ!? ///」
サッ、と音が出るような速さで沙矢が距離を取る。
また引かれたか、と潤が冷や汗を流しながら謝ると、沙矢は俯きながら消え入るような声を出した。
「……せ……たですか……?」
「へ?」
「汗……臭かったですか……?」
「いやいや! むしろ良い匂い……あっ ///」
思わず口を滑らせた潤に、沙矢の顔も赤く染まっていく。
「そうですか……/// 実はまだ、シャワーは浴びていないんです。さっきまで汗をいっぱいかいたので……」
「あ、まだだったんですか」
「はい……。さっき浴室へ行ったのですが、見てしまったんです……」
沙矢のトーンが急に落ち、怯えるような震えが混じった。
「な、何をですか?」
「浴室に……ゴ……」
その正体を沙矢が口にしようとした瞬間、邸宅の奥から空気を切り裂くような絶叫が響き渡った。
「わぁぁぁぁあ!!!!」
「綾芽お嬢様!!」
「まさか! 猪瀬君、行ってはなりま……」
制止する沙矢の声を背に、潤はキッチンを飛び出した。
声を頼りに辿り着いた扉を、勢いよく開ける。
「ここか!!!」
バタン!!!
「ッッ!!?」
「あぁっ!! ……し、失礼しました!!」
慌てて扉を閉めたものの、潤の心臓は激しく警鐘を鳴らしていた。
やべぇ、ここ脱衣所かよ、と潤は内心焦る。
一瞬だけ視界に入ってしまった、綾芽の無防備な姿。
そして、彼女の白い腹部に刻まれていた、あの大きな切り傷のような痕。
再び扉が開く音がした。服を整え、脱衣所から出てきた綾芽の瞳には、先ほどの悲鳴の主とは思えないほどの冷徹な光が宿っている。
「お前……見たか……?」
「お腹に付いてた傷痕ですよね……? 一体、何があったのですか?」
「そうか。見たんだな」
綾芽の声音から一切の感情が消えた。その右手には、鈍く光る剃刀が握られている。
「潤くん、逃げて!!」
背後から響いたのは、玲姉こと玲お嬢様の切実な叫び声だった。
目の前の光景が現実のものとは思えず、潤はただ、凍りついたように立ち尽くすことしかできなかった。
「綾芽!落ち着きなさい!!」
玲唖の鋭い制止も、今の彼女には届かない。
「……す……ろす……殺す!!!邪魔!!!」
喉の奥から絞り出すような絶叫と共に、綾芽は玲唖を乱暴に突き飛ばした。
「きゃっ!!」
「玲唖お嬢様!!」
潤が叫ぶのと同時に、綾芽が手に持った剃刀を閃かせ、彼に向かって斬りかかってきた。こうなったのは、自分に責任がある。潤は恐怖を押し殺し、振り下ろされる刃の軌道を凝視した。
タイミングを計り、最小限の動きで避ける。
「ッ!?」
剃刀を手ではたき落とすと、潤はそのまま綾芽の背後からその細い身体を抱きしめた。
「殺す!!!」
腕の中で狂ったように暴れる彼女を、潤は必死に抑え込む。
「落ち着いてください!何でそんなことを言うんですか!!」
「お前は、私が死んでも見られたくないものを見たんだ!この汚らわしい傷痕を!!!」
叫びの正体は、絶望だった。
「どこが汚らわしいんですか!理由はどうあれ、私は一切そんな風に思いません!!」
「うるさい!そう思っているのはお前だけだ!!」
その言葉に、潤の胸の中に無性に熱い苛立ちが込み上げた。彼は床に落ちた剃刀を迷わず拾い上げる。
「な、何を……」
怯える綾芽を冷徹な目で見つめ、潤は低く言い放った。
「綾芽お嬢様が、それほどまでに自分を汚らわしいと言うのでしたら……」
躊躇いはなかった。潤は剃刀を自らの頬へ向け、一気に引き下ろした。
「!!!」
「ッッ……!!?」
静まり返った部屋に、生々しい音が響く。頬の傷口から溢れた鮮血が顎を伝い、床へとポタポタと滴り落ちた。
「これで私も、綾芽お嬢様と同じですね」
潤の静かな言葉に、綾芽は戦慄した。
「お前……何やって……」
「嘘……」
玲唖の震える声に背を向けるようにして、綾芽は「部屋に戻る」とだけ言い残し、逃げるようにその場を去っていった。
「潤くん!」
「あっ……」
玲唖が慌てて駆け寄り、自らのハンカチを潤の頬に当てた。至近距離での介抱に気恥ずかしさを覚えつつも、次第に鋭い痛みが潤を襲う。
「綾芽のために自分まで傷付けて……本当にごめんね」
「玲唖お嬢様は何も悪くないですよ。それより、ハンカチが汚れてしまいます」
「そんなのどうでもいいよ。手当てするから、付いてきて」
潤は彼女の指示に従い、玲唖の部屋へと足を運んだ。
一方、自室に戻った綾芽は、暗闇の中で立ち尽くしていた。
見られた。よりによって、異性である彼に。
自らの肌に刻まれた大きな傷痕をなぞる。こんな跡がある女など、誰もが忌避するに決まっている。
コンコン、と扉を叩く音がした。
「誰だ」
「綾姉ー?」
「葉瑠か。いいぞ」
入ってきた葉瑠は、明かりも点けずに佇む姉の異変にすぐ気づいた。
「どうしたのー? ……泣いてるの?」
「……大丈夫だ」
溢れ出す涙を止めることはできなかった。
その頃、玲唖の部屋では。
「傷、思ったより深いなぁ。出血が止まらないよ」
「本当ですか」
「多分そろそろ止まると思うけど……この傷、絶対に残るね」
玲唖の心配そうな視線に対し、潤は迷いのない声で返した。
「気にしてないので大丈夫です。綾芽お嬢様も、同じですし」