夢のようなアルバイト 作:倉羅
「ただ少し焦りました……」
手当てを受けながら、潤は小さく息を吐いた。玲唖は申し訳なさそうに眉を下げ、「あらかじめ言っておいたほうが良かったね、ごめんなさい」と謝った。
「いやいや! でも、なぜ綾芽お嬢様のお腹にあんな切り傷が……」
「前に一度だけ、葉瑠と綾芽が月島家の財産狙いで誘拐されたことがあったの」
衝撃の事実に、潤は言葉を失う。玲唖の話によれば、誘拐犯から逃げる途中に葉瑠が転んでしまい、彼女を庇った綾芽が犯人の刀で斬られたのだという。
「沙矢さんがすぐに二人を見つけてくれたお陰で、綾芽は何とか無事だったの。犯人も沙矢さんが撃退して、警察に引き渡してくれたわ」
なるほど、と潤は胸の内で合点がいった。あの傷は、妹を守り抜いた誇り高き証だったのだ。
「あっ、血が止まった! 良かった!」
「お、ありがとうございました!」
「あまり無茶しちゃダメだよ?」
玲唖は手際よく潤の頬にガーゼを貼り、優しくそこを撫でた。その慈しむような仕草に、潤は「すみません……///」と顔を赤らめる。
「綾芽お嬢様のところへ行っても良いですか? どうしても心配で、謝りたいんです」
「……わかった。また暴れだしたら大変だけど、気をつけてね」
玲唖の許可を得て、潤は広大な屋敷の廊下を抜け、綾芽の部屋の前に立った。緊張しながらドアをノックする。
「良いぞ」
中から聞こえた声は、先ほど葉瑠を招き入れた時と同じものだった。潤が失礼しますと入室すると、綾芽は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに冷ややかな視線を戻した。
「お前か、何の用だ」
「心配だったので。それに、ちゃんと謝らなければいけないと思いまして」
「別にお前に謝られても何とも思わないし、気にしなくていい」
突き放すような物言いだが、そこに先ほどの狂気はない。潤が礼を言うと、彼女は「もう疲れたから寝る、出て行け」と背を向けた。
「あ、あと……ケーキを持ってきたんですけど、寝ちゃいますか?」
「待て、食べる」
即答だった。あまりに素早い反応に、潤は思わず口角を緩めた。嵐のような一夜は、甘い香りと共に少しずつ穏やかさを取り戻していくようだった。
「今日はシンプルにショートケーキにしてみました。あと、紅茶もどうぞ」
潤は丁寧に、一切れのケーキと紅茶を差し出した。対峙するのは、気難しいことで知られるお嬢様、綾芽だ。
「ショートケーキはあまり好きではないが、一応食べてやる」
「ありがとうございます!」
「不味ければ残すからな、悪く思うなよ」
「大丈夫です!」
潤は内心で、さっき味見をした時の感触を思い出していた。急いで作ったとはいえ、味には自信がある。
綾芽は無造作にフォークを動かし、ケーキを口へと運んだ。
「…………」
潤はその様子を、固唾を飲んで見守る。
「これ、結構時間置いただろ」
「……はい、すみません」
綾芽の冷徹な指摘に、潤の肩がわずかに落ちた。
「悪いが、食べられない」
「そうですか……。大変申し訳ございません」
不合格。その言葉にショックを受けつつも、潤は深々とお辞儀をして部屋を去ろうとする。
「歯磨きをして寝るから、出て行っても良いぞ」
「はい、失礼しました」
だが、扉に手をかけようとした瞬間。
「味は良かった」
背後から届いたその一言に、潤は勢いよく振り返った。
「ありがとうございます!!!」
「声が大きいんだよ、お前は……(汗)」
呆れたように溜息をつく綾芽だったが、潤の喜びは隠しきれない。
「やったぁ……!」と心の中で快哉を叫ぶ潤に、綾芽が追い打ちをかけるように言った。
「ちょっと待て」
「どうしました?」
「頬の傷を見せてみろ」
潤の頬には、先ほど負った傷を保護するガーゼが貼られている。
「玲唖お嬢様が手当てしてくれたので大丈夫ですよ」
「違う」
歩み寄ってきた綾芽の手が、潤の頬にかかる。
ベリッ!!!
「いっ……!」
容赦なくガーゼを剥がされ、潤は思わず声を上げた。綾芽はじっとその傷を見つめ、苦しげに眉をひそめる。
「……傷、残るな」
「残ると良いですけどね」
「は? なんでだ?」
理解不能といった表情の綾芽に、潤は穏やかに、けれど真っ直ぐに答えた。
「綾芽お嬢様の痛みを私も味わって、少しでも楽になってほしいからです」
「……馬鹿だよな。知り合って二日目の私になぜそこまでするのか」
「大切なお嬢様方の執事ですから」
その言葉に、綾芽はふいっと顔を背けた。わずかに耳たぶが赤くなっているのを、潤は見逃さなかった。
「下がっていいぞ……」
「かしこまりました」
部屋を出た潤は、綾芽が残した皿を手にキッチンへと向かった。そこで待っていたのは、無邪気な末っ子お嬢様、葉瑠だ。
「あー! せっちゃんだー♪」
「あ、葉瑠お嬢様」
「そのケーキどうしたのぉ?」
「これは、綾芽お嬢様が残されたものです」
食い入るように皿を見つめる葉瑠に、潤は微笑む。
「美味しそう……」
「葉瑠お嬢様と玲唖お嬢様の分も作ってありますよ」
「えー!? これせっちゃんが作ったの?」
「はい。少し時間が経ってしまっていますが」
「絶対食べる~!」
とはしゃぐ葉瑠を、潤はやさしく嗜めた。
「お夕食がお済みになられたらお出ししますね」
主の不器用な優しさと、小さな傷の痛み。それらを大切に胸にしまう。